泡沫の情人

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「確か家は呉服屋だったか?」 「ああ。でも兄が家督を継いで、世継ぎまでいるんだ。夫婦仲がどうであれ、取りあえずは安泰のはずだ。矛先が向けられるのが嫌で、あの家を出たはずなんだが――」  故郷で一番の呉服屋に次男として生まれいた兵藤は、厳格な父と良妻賢母な母の元で育っていた。次男であっても、教育や躾には厳しく、その環境が幼少の頃からあまり身に合わないと感じていた。  そんな鬱屈とした生活中でも、唯一の救いであったのが小説だった。  自分とは違った生活や自由で新しい思考が溢れる世界に触れ、自分もそういった世界を表現したいと希望を抱いていた。  だが、両親がそれを許すはずがない。娯楽小説を読んでいると分かれば、取り上げられて折檻されることもあった。ましてや書いていると知られれば、勘当は免れないだろう。  だから仕方なく、親の批難が少ない教諭という道を兵藤は選んでいたのだ。  就任先をあえて離れた場所である都会に選んだのも、家から出たいという欲求を叶える為であった。 「それに比べて、お前は偉いよ。きちんと結婚して、出世してるんだからな」  泉田とは大学で知り合い、それから今日まで付き合いのある腐れ縁だった。  彼は出版社に就職し、現在は上司の娘と結婚して子供もいる。二十七歳にして、係長の座につけたのも、そういった世渡りをこなしているからに違いなかった。 「……そんな良いもんじゃないよ」  急に落ちた泉田の声に、兵藤は視線をやる。  笑みは浮かべているものの、表情に陰りが差していた。
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