泡沫の情人

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「それはそうと、今日はどうしたんだ? 原稿の催促って、訳じゃなさそうだが……」  何かあったのだろうかと、兵藤は水を向けてみる。躊躇っているのか、泉田は簡単には口を開こうとしない。  そうこうしているうちに、いつの間にか焚き火は消えてしまっていた。周囲が一瞬にして、薄闇に閉ざされる。  寒いから中に行こうと、兵藤が口を開きかけた所で泉田が「実は――」と、口火を切った。 「好きな人がいるんだ」  久しぶりに乗った汽車は、随分と人が多く乗り合わせていた。  兵藤は変わりゆく車窓の景色を眺めながら、落ち着かない様子で向かいに腰掛けている泉田の気配を肌で感じていた。 「先生の原稿を取りに行った際に、出会ったんだ。原稿を待つ間に泊まっていた旅館で、芸者をしている子でね。とても三味線の腕が立つんだ」  焚き火の消えた寒空の下で、そう語った泉田の表情は、恋をしている人間特有の愁いを帯びていた。  自由恋愛と歌われるこの時代。確かに政略結婚や出世の為の婚姻など、ざらにある。  だからこそ、妾の存在などは公認されていたし、不義を働かれたからと言っても、きちんと家に金さえ落としていれば、女性は文句を言えない立場にあった。  兵藤はそんな社会に嫌気が差し、この歳まで結婚しないでいた。何が嬉しくて、好きでもない相手と一緒に生活を伴にしなければならないのか、理解できずにいたからだ。  だからこそ、親友の告白に対して少しの同情心があったのだ。その一方で、彼の妻子に対しての複雑な思いもある。 「相手は芸者なんだろ? 向こうは本気なのか?」  金を出させるためなら、甘言などいくらでも吐くはずだ。そんな常識も色事を前にしては、思考が正常に働かないのかもしれない。
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