泡沫の情人

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「誤解しないでくれよ。いつもは、こんな良い食事は取ってない。君がいるから奮発しただけだ」  向けられた銚子に兵藤は、お猪口を差し出す。  注いで貰うと、今度は逆に兵藤が銚子を向けた。 「何だか悪いな……いつも良い思いをさせてもらってばかりで」  小説にしろ今回の旅行にしろ、兵藤からすればただの良いとこ取りなだけだった。せっかく恩が返せると思っていただけに、不甲斐なく思えてしまう。 「いいんだ。こうして付き合ってくれただけでも、有り難いぐらいだからね」  互いにお猪口を掲げると、兵藤は苦笑していた口元に当てて一気に飲み干す。  ほんのりと甘みのある日本酒が、喉を通ると熱を発した。 「どれも絶品だな。先生の原稿を待つのも、悪くないようだ」  食も進めば、酒も進む。兵藤はほろ酔い状態で、泉田をからかう。 「勘弁してくれよ。その先生が大作家だから、おこぼれに預かってるだけなんだ。本当だったら、家の前でせんせーせんせーと叫んでるだけなんだからね」  泉田も気分が良いのか、やや調子者の真似をした。 「ならば将来は俺も、家の前で君に叫ばれているかもしれないな」  冗談を交わしあったことで、互いに声を上げて笑う。  不意にそこで、失礼しますという声と共に襖が開かれた。  三味線を片手に入ってきた青年を前に、兵藤は目を見開く。  まさに美男子と呼ぶに相応しい、端正な顔立ちの青年だった。  歳は二十前半ぐらいで、淡い水色の着物に薄茶の帯を締め、紺の羽織を着ていた。小作りの白い肌によく映えている。 「お久しぶりです。芳則(よしのり)さん」  青年が微笑む。その笑みは男にもかかわらず妖艶であり、兵藤までもが赤面した。  まさか男だとは想定外だったが、惚れてしまうのも納得がいった。
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