泡沫の情人

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 火に溶け込んでいく紙の束を見つめ、兵藤(ひょうどう) 章仁(あきひと)は着物の上に羽織っていた半纏を掻き合わせた。  吐く息は白く、薄暗くなりつつある都会の空に静かに吸い込まれていく。 「またやっているのか?」  焚き火から目を離し、兵藤は声のした背後を振り返る。  スーツの上に黒い外套を羽織り、中折れ帽を被っている。出版社帰りに、此処に立ち寄ったのだろう。そこには、呆れた顔をした親友の泉田(いずみだ)の姿があった。  泉田が帽子を取ったことで、穏やかで優しげ表情が露わになる。  自分と年端は変わらないはずなのに、兵藤からすれば、彼の方が大人びて感じられていた。 「辞めればいいと分かっているのだが、どうしても辞められない」  兵藤は再び息を吐く。諦めの悪い性分であることが、今は悔やまれる。 「辞める必要なんてないさ。君の書く作品を心待ちにしている読者だって、いるのだからね」 「君には感謝してるよ。こんな名も無い物書きの作品を、無理言って掲載してくれているんだからな」  親友のよしみで、兵藤は雑誌の一部に短編を掲載していた。本業は尋常小学校で講師をしているが、空いた時間を小説を書くことに充てていた。 「そんな卑下する必要はないよ。僕も君の作品の一読者なんだ。君の才能を見込んで、僕からお願いしているようなものさ」  泉田はそう言うと、寒い寒いと言いながら焚き火に手を翳す。 「何だか複雑だな。焚書で暖を取るだなんて」  泉田が苦笑する。買いかぶりすぎだとばかりに、兵藤は肩を竦めた。 「そんな崇高な書じゃないさ。ただの落書きにしか過ぎない」 「随分とやさぐれているじゃないか。失恋でもしたのか?」 「いや……色事にはとんと縁がなくてな。どちらかと言うと、親が気が気じゃないらしい」  送られてくる手紙には、特定の人がいないならば、見合いの席を設けるという話ばかりが書かれていた。  返事を返すのが億劫で、兵藤はその手紙を読んだっきりしまい込んでいた。
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