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10話 朝
「ん…」
目を開けると、昇ったばかりの太陽の光が窓から柔らかく差し込んでいた。
未だに嗅ぎ慣れない、知らない場所の匂い。
木組みの天井をぼうっと見上げて何度か瞬きをして横を見ると、すっかり見慣れた背中と規則正しい呼吸音。
二人分の体温で暖まった毛布の中の空気が、俺が身動ぎする事で少し動いて、すうっと冷たい外気が入って来てぶるっと震えた。
「さむ…」
隙間を無くすようにヒューゴの背中の方へ寄って、まだ半分寝ている頭でぼんやり考える。
あれから俺は徐々に、夜に魘される回数が減り、睡眠が取れるようになって、食事も食べられるようになって来ていた。
自分でも少し落ち着いて来たと思う。最初の頃みたいに常に心が重くて、死にたい死にたいとばかり考えていた時に比べたら、かなりマシになった。
そうなって来ると今度は、なりふり構わずヒューゴに全力で甘えていた自分が恥ずかしくて、深く考えると別の意味で死にそうだった。
それなのにそのヒューゴと、こうして未だに同じベッドで寝ている俺。
矛盾している。
最初はソファで寝ていたヒューゴも、俺が魘される度にどうせ俺を抱き締めて寝るんだから、と、最初からベッドで寝るようになった。
あの時はとにかく溺れる者が藁を掴むように、何か支えてくれるものが欲しくてたまらなくて、そしてヒューゴが縋る俺を嫌がらず受け止めてくれたから、心底安堵した。恥ずかしいだとかそんな気持ちは皆無だった。
だけど大分精神が落ち着いて来て、理性だとかが働くようになって来た今、身悶えする程の羞恥に悩まされている癖に、ヒューゴに受け入れて貰っている事がこの上なく嬉しくて、心が暖かくて、ずっとこのままで居たい、などと思ってしまっている。
でもいい大人の俺が子供のようにヒューゴに縋っている、しかもあいつは年下なのに。と、俺の、とっくに砕け散った筈の、残り滓のようなプライドが抵抗しているのだ。
あの時、ヒューゴが俺の事を心の支えにしてくれている、と言ってくれた事は、正直に嬉しかった。
今、少し冷静になって振り返ってみても、あの時の俺は最悪レベルに面倒臭くて、重い、完全に病んだメンヘラ野郎だった。
なのに、あんな俺でも『生きてただ居てくれるだけで嬉しい』と言ってくれたヒューゴに、俺は一瞬、高校の時、心から俺に寄り添おうとしてくれたあいつの事を思い出してしまった。
だけど、怖い。
また信じて、心を許して、それなのに裏切られて、掴んだ手を離されてしまったら。
だから、葛藤する。
ヒューゴに対しては感謝や親愛を感じる反面、それを失う事を考えると怖くて怖くて、たまらない。
ああ。俺はいつからこんな、うじうじ思い悩むメンヘラ野郎になってしまったんだ。
いや、きっとこれは最初からだ。ガキの頃から俺は病んでた。
それをずっとうまく隠していたつもりだっただけだ。
『幸せな人』と書いてゆきとと読む自分の名前が、嫌いだった。全然幸せなんかじゃなかったから。
でも…今までのクズでクソで、鬱屈してて、心の傷を抱えて自分を押し殺してた俺は、あの時刺されて死んだんだ。
だからもう、前の人生で生み出された重たい感情なんか、全部捨てちまえばいい。
全部忘れて、ただのユキトとして生き直せばいい。
せっかくあんなクソみたいな世界から離れられたんだ、もういつまでも前の自分を引き摺ってなんていないで、今度はもっとうまく生きればいいんだ。
そう、思うのに、分かってるのに。
そう、簡単に割り切れたら、どんなに良かったか。
もう眠れそうになかったから俺は静かにベッドを降りると、部屋を出て、中庭にある水場に行った。
ここには水道なんて物は無いので、中庭にある井戸から水を汲み上げて、それを洗濯や掃除、行水に使っている。
『清掃』スキルで綺麗には出来るけど、俺はやっぱり本物の水で顔を洗うのが好きだった。さっぱりするし、気持ちいい。
神殿にいる神官達はみんな日の出前に起きて身支度をして、祈りの間という所で、朝と夕に至高神に祈りを捧げてお勤めをするらしい。
だから今、中庭にはもう誰もいない。
このジルヴィアの街に来てから殆どずっと、俺は精神的に滅茶苦茶な状態だったから、まだ他の人間とほぼ交流していない。
食事も、ヒューゴに部屋に持って来て貰っていた。殆ど食べられなかったわけだが。
少し回復した今も、前のように表面上だけでも愛想良く出来る気が全くしないから、誰もいなくてホッとした。
井戸の綱を手繰り寄せて水を汲み上げると、それでパシャパシャと顔を洗う。
冷たくて一気に頭が覚醒した。ついでに水も飲んで喉を潤した。
ここには季節は無いんだろうか。朝晩は日本での初秋ぐらい涼しいのに、昼間は海で泳げる程暖かい。
排ガスを吐いて動く機械など無い世界だからか、空気は澄み切って、昇り切った太陽の光が中庭の木々や建物を照らしていく光景は、幻想的に綺麗だった。
しばらくその様子を見ていたが、俺は部屋に戻る事にした。
誰もいない廊下を歩いていると、部屋の近くで少年と会った。
「あ!ユキト様!おはようございます!」
俺を見ると、ぱっと顔を輝かせる。
「あ…お、はよう」
確か、ヒューゴと一緒に何度か俺の世話をしてくれていた、ルイって子だったか。
ボブカットの金髪、青い目の人形のように可愛い少年だ。この子にも俺は最低最悪な所を知られてしまってる。気まずい…
でもルイは明るい笑顔で嬉しそうに言う。
「大分お元気になられましたね!皆、心配していたんですけど、僕達には何も出来ないから…ユキト様と同じ勇者の、ヒューゴ様がいらして本当に良かったです。勇者様には僕達には分からない大変な事が色々おありだと思いますけど、僕達に出来る事なら何でもさせて頂きますから!何かあればぜひ頼って下さいね」
「あ、ああ…こっちこそ、迷惑ばかり掛けてごめん。特に俺はここに来てからまだ何もしてないし…」
思わずそんな風に言ってしまうと、ルイはぶんぶんと首を振った。
「とんでもないです!ユキト様やヒューゴ様が居て下さるだけで、僕達はすごく心強いんです!あの魔王と戦える存在がいるっていうだけで、勇気になるんです!」
目をキラキラさせ、紅潮した頬で俺を見つめるルイに、ちょっと気圧される。
「そ、そうか…まあ、何とか倒せるように頑張ってみるよ…」
「はい!あ、いえ、無理はしないで下さいね?あ、今日も朝食はお部屋にお持ちしますね!今から用意しますので!」
「ああ、ありがとう」
ルイはにっこり微笑むと、スキップしそうな足取りで素早く去って行った。何だろう。あんな情けない俺の姿を見ているのに、あのキラキラ度合いは。
とにかく転移者に対する現地の人達の期待度と信頼度が、異様に高い事が分かった。
これじゃあ、のんびりぼーっとしている訳にもいかないな。
しかし、やっぱり魔王を倒すにはヒューゴと俺だけじゃ、どうにもならない。
他の転移者に会いに行かなきゃいけない。
そしてそれでも難しければ、俺のあのクソスキルを使わなきゃいけないかもしれない。
でも他者のスキルをコピーしても、そのスキルで倒せなかった魔王を倒す事なんて出来るのか?
…まあ、そもそもまだ何も試してもいないしな。
あのゴミスキルを使うって事は、まずやる事をやらなきゃいけない訳で…
俺が、ヒューゴとそんな事をするって訳で…
そんな事を考えながら静かにドアを開けて部屋に入った瞬間、
「ユキト!早かったんだな。大分調子良くなったみたいで良かった!」
今まさに、脳内イメージの中に登場させていた本人から声を掛けられて、思わずドキッとしてしまった。
「ヒュ、ヒューゴ。おはよう…」
何とかそれだけ絞り出す。今、めちゃくちゃ気まずいシーンを想像してしまっていた。顔が熱い。やばい、ヒューゴの顔が見れない。
「んー。おはようさん。やっぱ顔色良くなったな。はー良かった」
ヒューゴは大股でこっちに来ると、俺の顔を覗き込んで笑った。
…スキルに読心術みたいなのは無くて良かった。
はあ、でも、近いうちに俺のスキルの事もちゃんとヒューゴに伝えて、協力して貰わないといけない。けど、どう伝えればいいんだ。ただでさえこれまでの事で恥ずかしいのに、さらにもっととんでもない話をしなきゃいけないなんて。
スキルコピーする為に俺とセックスして、中に出してくれ!って言うのか?
しかも言って終わりじゃない。
実際にあの行為をしなきゃいけない、なんて…
うわー…最悪だ。俺、もう爆死しそう。…まあ死ねないんだけどな…
内心で悶えているとドアにノックがあり、ルイが朝食をワゴンに載せて持って来てくれた。
「朝食持って来ました!あ、ヒューゴ様もおはようございます!一応二人分持って来たのでちょうど良かったです。今、配膳しますね!」
ルイはてきぱきとテーブルに朝食を並べて行く。バゲットのような硬いパン、卵とソーセージを焼いたもの、暖かい野菜スープ。果物。それから紅茶のような飲み物。
神殿だけあって特別に豪華なものではないけど、美味しそうだ。量は俺達に、というよりヒューゴに合わせて多めにしてくれている。
かなり食べ応えがあって、これまで俺は食欲が無かった事もあって一度も完食出来ていないが、残した分はいつもヒューゴが食べていた。
「おー、美味そう。いつも悪いなールイ。ありがとな」
そう言ってヒューゴがルイの頭をぐりぐりすると、ルイは嬉しそうにしていたが、あ、と声を上げた。
「そういえば、明日からジルヴィアで豊穣祭が始まりますよ!ユキト様の調子があまり良くなかったので、お伝えしてなかったんですけど、ジルヴィアでは年に一回、収穫と来年の豊穣を祈って、盛大にお祭りをするんです。僕達小間使いの子達も交代で街に行くの楽しみなんです!ヒューゴ様達も、行ってみられてはいかがでしょうか?色んなお店も出てて、すごく楽しいですよ!」
「へえー!祭りか!エクシリアでも戦争が激化する50年前まではたまにやってたみたいなんだけどな、俺の世代じゃもう無くなってて一度も行った事ないんだ!そりゃ行ってみたいなあ」
ヒューゴは目を輝かせて俺を振り向いた。
「なあ、ユキト。行けそうだったらでいいんだけど、行ってみないか?気晴らしにもなると思うし、楽しそうだぞ?」
その顔には行きたい、とはっきり書いてあり、俺は苦笑しつつ頷いた。大分気分もいいし、あれだけ世話になったヒューゴが行きたいならいいかな、と思った。
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