挙式前:中瀬実

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挙式前:中瀬実

 誰かに呼ばれているなと感じて、意識を研ぎ澄ませる。ラジオの周波数を合わせるようにそのまま意識を向けていると、徐々にクリアになっていた。  どこか特別な場所のよう。そう、ホテルの廊下。目の前を少し猫背で歩く長身の背中は、白色のタキシードに包まれている。 「尊……!」  その背中に思わず声をかけるが、聞こえることはない。  尊が僕を呼んだんだけどな。呼ばれたところでみんなの輪に入っていけない僕は、少しだけいじけたりしてみるが、仕方がない。  だが、こんなふうに尊が僕を呼んでくれるのも今日が最後なのだろうか。もしそうであったら、それは喜ばしいことだ。だって、僕がいなくても尊は歌穂ちゃんとふたりでやっていけるということだから。  尊は式場のスタッフの先導で、新婦控室に入った。僕もするりと尊の傍を抜ける。僕も、歌穂ちゃんの花嫁姿を見たかったんだ。  歌穂ちゃんのことは、僕もよく知っている。歌穂ちゃんは、尊が医師として働く病院の看護師。小児科病棟の歌穂ちゃんはとにかく笑顔が素敵で、病室に来てくれるだけでほっと安心できるような存在だ。  どうしてもういないはずの僕が知っているかって? それは『年下の兄』を読んでいただけたらわかります。  尊と対面した歌穂ちゃんは、頬が紅潮していて本当にかわいい。何着も試着して、散々迷った挙句「こんな時しか着られないから」と選んだ、大胆に肩を出した純白のウェディングドレスがよく似合っている。結婚を決めてから今日まで日が浅いゆえに伸ばせなかった髪が歌穂ちゃんにとっては不満なようだったが、ゆるいウェーブがよりやわらかい印象を与えていて、尊にとってもぐっとくるのではないかと思う。 「歌穂……」  そう言ったきり動けない尊のお尻を、僕は思いきりたたきたい。ほら、固まってないで言うことがあるでしょ。 「きれいだよ。本当に……」  やるじゃん尊。僕がいなくても、ちゃんと思いを伝えられるようになったね。  寂しいけどよかった。ふいに意識ごと包み込む暖かいものに守られるようにして、僕は目を閉じた。
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