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 それから一週間ほどが経った。あれから美土里(みどり)さんはうちに来ていない。もしかしたら、知らないうちに話がついたのかもしれない。お母さんもあれから落ち着いている。しかし、お母さんの口から美土里さんの話が出ていないということもまた事実だった。こんなこと考えるのは嫌だけれど、絶縁に近い状態なのだと思う。  大学の授業がいつもより早く終わったある日、わたしは寄り道をすることにした。行先はもちろんお母さんの実家である。偶然にも、お母さんの実家は大学の最寄り駅から乗り換えしないで行ける。だから、入学したばかりのころは授業終わりによく遊びに行った。  久しぶりに乗った反対方向の電車は浮気相手に会うときみたいに少し緊張した。久しぶりに美土里さんと顔を合わせるからだけではない。お母さんの実家に行くのももう三年前の正月以来だったからだ。わたしは流れる景色を眺めながら駅からの道を頭の中で思い出しておく。  十五分ほど揺られて電車を降りた。久しぶりの駅には知らない店の看板や改装工事の囲いがある。風景はだいぶ変わってしまった。 「おーい、(すみれ)」  美土里さんはゆっくりと顔を上げ、右手を挙げた。 「わざわざ迎えに来てくれるなんて。待った?」 「全然。今来たところ。じゃあ、行こうか」  美土里さんは実家に向かって歩き出した。わたしも横につく。 「あ、そうだ――はい、これ」  美土里さんは左手のビニール袋に手を突っ込むと、派手なパッケージのアイスバーを差し出した。味はチョコレートミントである。 「ありがとう」  チョコレートミントのアイスクリームは美土里さんと遊ぶときの定番のおやつで、遊びに行くと、いつもなぜか買っておいてくれて、ぴったり午後三時になると冷凍庫から取り出して食べるのがお決まりの流れだった。  そう言えば、初めて食べたのは小学校に上がる前だった。あのときはまだチョコレートミントがそこまで広まっていなくて、初めて見た鮮やかな青緑色と爽やかな味は衝撃だった。  わたしは手許のアイスバーを見た。これはどこのコンビニでも売っているよく見るパッケージだった。こんなの食べたことがない。 「ごめんね、いつもと違くて。駅裏のお店、一か月ぐらい前に潰れちゃったみたいなの。さっき通ったらテナント募集してた」  美土里さんはアイスバーにかじりつきながら、そう言った。その口調はなぜか悲しそうでも残念そうでもなかった。 「早く食べな。溶けちゃうよ」 「うん。いただきます」  わたしは袋を開け、青緑色のアイスにかじりついた。口いっぱいに涼やかなミントの味が広がっていく。  一口、二口とチョコレートミントを味わっていると、美土里さんがごめんね、と急に呟くのが聞こえた。 「アイスのこと? これはこれで美味しいよ」 「そうじゃない。この間、(あかね)と言い争いになっちゃったときのこと。怖かったよね」 「あ……うん、ちょっとね」 「本当にごめん」 「いいの、大丈夫。仕方ないことだったから。あれからどうなったの?」 「茜と全然連絡取ってないんだ」 「そうなんだ」  言われてみれば、あれからお母さんが美土里さんとやり取りをしている姿は見ていない。 「でも、美土里さんの夢、素敵だと思ったよ」 「夢?」 「うん。おじいちゃんとおばあちゃんと一緒にあの家に住むっていう夢」 「ああ。よく知ってるね」 「お母さんと電話してるのを聞いて何となく。親孝行! おじいちゃんもおばあちゃんもきっと嬉しいだろうなあ」 「そうかな」 「きっとそうだよ。わたしも、お母さんと何も関係のない立場だったら力になりたかった」 「え?」 「無理だけどね。だって、わたしはお母さんの味方でしかいられないから」  そう言うと、わたしは手許に残ったアイスを一口で食べた。少し溶け始めていて、こぼさないように気を付けた。アイスのなくなった木のバーには何も書いていなかった。残念ながらコンビニでもう一本はもらえない。  それからまたしばらく歩くと、美土里さんは急に立ち止まった。住宅街の真ん中である。見覚えのある景色だが、何かが違う。  状況を把握できていないわたしに気付き、美土里さんは指で道の左側を指した。とりあえず指された方に顔を向ける。  そこは空き地だった。整備されたグラウンドみたいに真っ平にされた茶色い土。その真ん中には白い看板が刺さっていて、目立つ赤い字で「売却地」と大きく書かれている。道路と土の境目に黄色いテープがしっかりと張られ、人が入れないようになっていた。  わたしは周りを見渡した。左隣は一階建ての一軒家だ。古めの瓦が印象的で、庭には松の木が植えてある。小さいとき、よく遊んだお隣さんの家だ。  一方、右隣は道になっている。車が一台しか通れない狭い道で、通行人もほとんどいない。だから、毎年夏に花火をやる会場になっていた。アスファルトには今もかすかに白い花火の跡が残っている。アイスクリームもここで食べた。  そこは、ついこの間までお母さんの実家があった場所だったのだ。見慣れた景色の中で、その建物だけがなくなっているのである。  わたしは美土里さんの方を振り返った。 「お母さんのせい?」  わたしは訊いた。しかし、美土里さんは首を横に振る。 「誰のせいでもないよ。これは運命だったんだ」  美土里さんはぽつりとそう言った。いつも明るいはずの美土里さんではなかった。  美土里さんは言葉を続ける。 「やがて家は古くなって、お父さんとお母さんは別の場所に引っ越して、この家は取り壊されて、空き地になる。そういう運命。だけど、わたしはそれに気付かなかった。それだけ」 「でも、運命なんて」 「そうでも思ってなきゃ、とてもやっていられない」  すると、美土里さんの目から一筋の涙がこぼれた。頬を伝い、顎から地面に落ちていった。 「本当は茜の悪口言いたいよ。もっといい方法を考えてよ! って。だけど、この家がなくなるっていう選択は茜にとっても苦しいものなんだ。だって、茜にとっても実家だからね。でも、お金とかお父さんとお母さんの体とか、いろいろ考えると、これしかなかったんだよ」  お母さんはそんなこと一言も。  そう言おうとしたとき、わたしはふと気が付いた。お母さんが美土里さんと連絡を取らなくなったのは、今の美土里さんと同じ気持ちだったからではないだろうか、と。美土里さんが運命だと思い込むことで前に進もうとしているのと同じように、お母さんもこのことをなかったことのように思うことで、この苦しみを感じないようにしているのだ。 「でも、最後に力になりたかったって言ってくれて嬉しかったよ」  美土里さんは指で目頭の涙を拭った。 「それだけでも、わたしは救われた気がする。ありがとう」  美土里さんはまっすぐわたしの目を見た。さっき流した涙のせいで、アイシャドーが余計にキラキラしている。そして、長いまつ毛に囲まれたその目は(うる)んでいた。 「ねえ、美土里さん」  わたしは美土里さんを見た。 「取り壊されたってことはこれまでここに住んでいた美土里さんも、別の場所に引っ越したってことだよね」 「そうだよ」 「それじゃあ、新しい家の場所教えてよ。遊びに行くから」 「それはダメ」  美土里さんはいいよ、と言うのと同じような口調で答えた。 「どうして? まだ荷解きが終わってないんだったら、手伝いに行くよ。もし、片付いていない部屋を見られるのが嫌だったら綺麗になったあとでも」 「そうじゃない」  美土里さんはまたもや遮った。 「わたしと菫はもう会わない方がいいんだよ」 「何で?」 「さっき菫は、わたしはお母さんの味方でしかいられないって言ったでしょ。それと同じ。わたしも、もう茜の敵でしかいられないんだよ」 「でも、それはわたしがお母さんの子どもだからで……」 「残念だけど、わたしたちはもうそういうところまで来ちゃったの。修復不可能になっちゃうまで争ってしまったんだよ。これがその結果」  美土里さんは空き地の方に向いて、今度は平らになった土を見た。風に煽られ、砂埃が足許で舞う。 「そして、ここまで争った敵同士は会うたびに争いを起こす」 「だから、敵のわたしにはもう会えないの?」 「そうだよ。菫は頭が良いね」  わたしはもう、何も言い返せなかった。わたしはお母さんと美土里さんの争いについてよく知らないからだ。実際どんなことが争点になっていたのか、どこの誰が何をして協力しているのか。今この場で詳しく話せと言われても分からないと言うしかない。さっきは力になりたいなんて言ったけれど、無知なわたしは無力だ。わたしはお母さんの味方であり、美土里さんの敵という唯一の武器は今のわたしに要らないけれど、捨てる勇気もない。  わたしは何もできず、拳を握って立ち尽くした。 「じゃあ、そろそろ帰ろうか」  美土里さんが切り出した。 「……」  帰りたくなんかない。これで美土里さんとは最後なのだ。  わたしは微動だにしなかった。 「早く帰らないと、茜が心配するよ」  そう美土里さんはわたしの顔を覗き込んだ。 「そんな嫌そうな顔しないでよ。あ、そうだ。じゃあ、帰りたくなるようなことを教えてあげる」 「何それ?」 「菫の家の近くに、新しいアイスクリーム屋さんができてた。なんと大好きなチョコレートミントのフレーバーもあるよ」 「そうなんだ、知らなかった」 「ねえ、帰りたくなったでしょ」  そう言うと、美土里さんは小さく息を吐いた。それは何かを決意したみたいで嫌だった。 「じゃあ」  美土里さんの呟く声が聞こえた瞬間、右隣の影が消えた。  すぐに横を見ると、美土里さんが大通りに向かって歩き出していた。 「美土里さん!」  慌ててそう呼び止めると、美土里さんは立ち止まった。赤い夕日によって作り出された長い影は、わたしのすぐ足許まで伸びている。 「菫」  美土里さんの短い声が聞こえた気がした。  わたしは次の言葉を待った。夕方の涼しい風がわたしたちの髪を撫でる。 「……バイバイ……」  そう、震えた声が聞こえた、次の瞬間。突発的に美土里さんが履く靴のコツコツという音が激しくなった。  そして、間もなくわたしの体にドンという衝撃が走った。美土里さんはギュッと腕に力を入れ、肩が壊れるのではないかというほど、わたしを強く抱きしめたのだ。 「……またね」  美土里さんは耳許で、確かにそう囁いた。そして、さっと離れていった。  ふうっと風が吹く。抱きしめられたときに肌に張り付いたシャツがふんわりと空気を含んではがれていくのを、わたしはゆっくりと感じていた。
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