第8章.映画 剥がれる記憶 最期の撮影

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第8章.映画 剥がれる記憶 最期の撮影

第八章. 映画 剥がれる記憶 最期の撮影 若いし、認知症は高齢者の病気だと思っていた。 医者のいくつかの質問に答えられなかっただけで、今までの自分とどこが違うのかと思っていた。 だが、医者の言葉は刃物そのものだ。 医者の言葉は刃物そのものだ。 診断されるまで、忘れっぽくて落ち着きのない若者だと思っていた。小学校の時は遅刻しそうになり、ランドセルを忘れて学校に行ったことがあった。それが、認知症と診断されたことで、僕の欠点は病気だと判明した。しかも進行性の。数年すれば自分すら自覚できなくなる病気かもしれないのだ。 普通に振舞っていることも、他人には異常に見える行動があるのではないかと疑心暗鬼になった。 全てが不確かになったような気がしてきた。 自分の行動に自信がなくなって、次第に次の一歩を踏み出すのが怖くなった。 認知症の診断が僕を認知症にしたのだと叫びたくなった。 「僕は認知症と診断されて認知症になった!」と叫んだ。 一度は決心したはずなのに、撮影ができるか自信がなくなった。 特に重要な最期の撮影は認知症となって自分を見失ってしまう祖父に話しかけるシーンだ。そんな重要なシーンを今の自分にできるのか。 だんだん食事も喉を通らなくなった。不安で夜も眠れなくなった。 僕は美穂に撮影があるのでしばらく会えないとラインしたはずだった。 でも美穂の声が聞きたかった。ずいぶん勝手な男だと思う。みっともない姿を見せたくないから電話しなかったのに、耐えられないから電話するのだから。 「もうダメだ。撮影は無理かもしれないい」 美穂は僕の言葉に驚いて自宅に来た。 「直樹が弱音を吐くのはわかるよ」 「傷口が広がって出血死しそうだ」 「直樹が辛いのはわかるけど、自分が自分だとわからなくなったわけではないわ」 「すべてが不確かになって自分が自分じゃないみたいなんだ」 「大場マネージャから電話があったの。直樹はちゃんと演技していたって。自信もっていいのだよ」 「でも、最後の撮影が失敗したら僕の出演したシーン全てが取り直しになるかもしれない。何億円もかかっている。監督俳優スタッフに何と詫びていいかわからない」 「映画を撮り終えるのが直樹の夢だったはずよ。この役に出られたら最高と思える映画に出演したいと言っていたでしょ。直樹は今の自分にしかできない演技があると思う。」 「今の僕にしかできない演技……」 「おじいさんの心の痛みが本当にわかるのは直樹だけなんだよ」 そうなのだ。演技では役を掘り下げるため、箇条書きにして人物像を作る、出演者がお互いに話し合い架空の家族感情を共有する、それが演技の良否にかかっている。しかし、認知症と言われるまで、医療関係者に認知症のレクチャを受けながら、どこか、半信半疑だった。でも僕は認知症状に苦しんでいる。医療従事者のレクチャとは違っていた。「食べたことを忘れたら物忘れ、食べたことすら忘れたら認知症」そんな単純な病気ではないのを僕はよく知っている。 僕は美穂の言葉で思い直した。 数シーンの撮影は、何とか撮り終えることができた。  そして、僕の最期の撮影が行われることになった。 祖父が認知症と知って、いたたまれなくなって姿を消して三ケ月が経ったという設定だった。 獣道を下った所に河原があり、祖父が河原に座ったまま小石を円形に囲んで積んで池を作っている。 その河原は健一が小さい時、父や祖父に連れられて、川遊びをした場所と言う設定だった。 そこで健一は祖父と対峙することになっていた。 監督は共演者とスタッフに言った。 「高橋直樹君の病気の事はみんな知っていると思う。高橋君のことを考えると何と慰めていいかわからない。この映画は高橋君にとって最後になるかもしれない。僕たちにできることは高橋直樹という青年が素晴らしい役者だったと証明することだ。みんな協力してほしい」  僕は監督の言葉に嗚咽した。 監督は僕が落ち着くのを待ってくれた。 そして「スタート」と言った。 僕は祖父を見つけて、「じいちゃん」と声をかけようとするが、祖父は僕の顔を見ても僕が孫だと気づかずに石を積むのだった。 僕は祖父に近づき、嗚咽を押し殺して「何をされているんですか」と言って傍に腰を下ろした。 祖父の目線の先には小石があった。 僕は「きれいな石ですね」と言ってそれを祖父に差し出す。 小石に僕の涙がこぼれた。 祖父は数秒僕の顔を眺めると、無言で僕の石を受け取った。 「石を囲んで池を作るんです。孫は三歳だから」 祖父は河原の方に目をやった。 「まだ小さいから河原で遊ぶのは危ないからね」 「お孫さんがいるんですね。お名前は?」 「健一と言うんです。とてもいい子なんです」 小さな三歳の僕が遊んでいるのが見えているのだ。祖父は言いながら頷いている。 「きっと喜んでくれますね」 僕も祖父の目の先を見つめた。 僕の言葉に無表情だった祖父の顔が少し崩れて穏やかな顔になった。  祖父は僕の存在を忘れて、三歳の健一を見つめているように見えた。 祖父には、池の周りで遊ぶ僕の姿が見えているのだ。 「もっとお孫さんの事を聞かせてください」 「あれは、健一が……電車に引かれそうになって……」 それから祖父はしばらく中空を眺めて言葉が出なくなった。 一瞬正気を取り戻したような祖父の顔はまた表情のない顔に戻った。 小石を積むこともなくなった。ぼーっと河原に見ている。 健一の思い出も自分が誰であるかも忘れてしまったようだった。 祖父の人生は、母と孫を育てるため貧しい農家を一人で守ることだった。それが、運動会で、年取った祖父をクラスメートに笑われて、健一は祖父と距離を取り始めた。祖父にはつらかったに違いない。健一が、東京の大学に行くので列車に乗ると、走り去る列車を追いながら「健一頑張れとエールを送ったのだ。健一に冷たくされても、祖父は健一を思っていたのだ。祖父はずっと認知機能の衰えに不安を抱いていたのだ。 撮影の終わったシーンが走馬灯のように蘇った。僕は涙をこらえて祖父の肩に手を置き、そして抱いた。 「おじいちゃん、一人で僕と母さんを育ててくれてありがとう」僕は涙を止めることができなかった。 「カット」 監督は何度もNGを出した。 僕は演技力不足でスタッフに迷惑をかけていることがたまらなかった。病気と診断されて、感情のコントロールが危うくなっていることもあった。 「僕の演技力不足で皆さんに迷惑をかけて申し訳ありません」 顔が涙で覆われその場に崩れそうになった。 本当は監督も激を飛ばしたいのだろうと思った。 だが、監督がかばうように言った。 「高橋君、私は三〇年程前に、日雇い労働者の群像劇の映画を撮ったことがある。日雇い労働者の町に行って、しばらく簡易宿泊所で彼らと寝食を共にした。そこで感じたのは、一日を必死で生きている人々を描くには、嘘はだめだということだ。どんな脚本も彼らの現実を超えられない。どんな悲しみ、怒りの演技も、彼らの現実には勝てない。観客は日雇い労働の悲惨な状況に驚き怒り、その人たちが立ち上がる姿に感動してくれる。だが、映画が終わって劇場を出ると、その感動もしぼんでしまう。悲惨な現実が続いていると考えてもらえない。だから、日雇い労働者に出演してもらうしかないと思った。演技力では、役者にかなうはずがないが、真実を観客に見てもらうには彼らしかないと思ったのだ。 高橋君。私は、セリフが違ってもいいと言ったことがあったね。今、君はどんな演技がよいか迷っている。俯瞰した演技をしようとしているかもしれない。役を箇条書きにしてなりきろうとしているかもしれない。だが、君の苦しみは、撮影が終了した後も続く。だから、君の苦しみをそのままぶつければいい。それは演技でも、言葉の絶叫でもない。君の心そのものだ」 監督は僕に言った。 監督は俯瞰した演技でもなく、役を箇条書きにした架空の登場人物でもなく、演技が終わっても、その役が続いていく現実の僕の姿を表現することを求めている。 認知症の祖父は何を思っているのだろうか。認知症の祖父の姿は合わせ鏡だ。僕自身なのだ。美穂、両親は僕の告白に驚き、それでもうろたえず、普通に接しようとした。頑張れとも言わなかった。美穂、両親の言葉を思い出し、どんな気持ちで声をかけてくれたのかと思った。 認知症と診断された僕だから、僕にしかできない演技があると美穂が言った。その言葉に僕は最後のシーンに臨んだのだ。 自分の不安は祖父の不安、祖父が自我を失ったのは、僕の未来、全ては繋がっているのだと思った。 祖父が全ての記憶を奪われた時、残った記憶は幼児を遊ばせた河原に積んだ小石の池の思い出だった。 そして祖父はその思い出すら失ってしまった。 僕は全ての言葉や記憶が剥がれ落ちた時、僕が僕で無くなっても、それでも僕は美穂を愛している、僕には忘れられない人がいると思いたかった。  僕はもう大丈夫ですと監督に言った。撮影は再開された。 祖父の天野さんと僕は演技を繰り返した。 夕暮れになり、祖父と孫の顔に差す夕日が、黄昏の記憶を包み込むようだった。 監督は「カット」と言い、優しい眼差しで僕に向かって頷いた。 僕は最後まで何度もNGを出しても、真剣に取り組んでくれた監督、俳優、スタッフに「ありがとうございました」とお辞儀をした。 監督が「高橋直樹さんの撮影は本日で終了です」と言うと、スタッフが花束を渡してくれた。監督、天野さん、スタッフから大きな拍手がわいた。 天野さんが言った。 「直樹さん、あなたに起きたことは何を言っても慰みにはならないかもしれない。あなたは祖父が衰えていく姿を自分の事のように演じましたね。とても立派でしたよ。だから、残酷な言葉だと承知で言わせてほしい。あなたはこれから認知症という役を演じていったらどうだろう。辛い時はもっとつらい演技をしていると思ったら。今日、数分のシーンを完成させるために監督と数〇人のスタッフが全身全霊で打ち込みました。あなたは何度も泣かされた。それは、あなたの素晴らしい演技を映画の歴史の中に残こしたいという熱意からでした。だから、今日を思い浮かべて、辛い時は辛い演技をしていると考えたらどうでしょう。私たちはあなたが病気にめげないよう願っています」  天野さんは「辛い演技をしましょう」と言うたびに頷いて僕の手を強く握りしめた。  人は辛いとき、「お母さん」、「こんちくしょう」、「負けてたまるか」と大声で叫んだりする。叫んだところで心が癒されるはずもない。でも、全身で絶叫している時、無心になって祈っている時、頭の中はその言葉で一杯になる。それ以外の感情を排除してくれる。だから、人は辛いとき叫ぶのだ。祈るのだ。僕も、天野さんの言葉を信じて、辛くなったら、「これは演技だ。辛い演技をしているのだ」と叫ぼう。辛くて、心が砕けて、失神するほどの痛みでも、これは演技だと叫ぼうと思った。 僕はこの日を忘れたくない。 祖父の姿は認知症となった僕にとって合わせ鏡だ。 僕は、未来の僕に向かって語りかけたのだと。 最期の演技レッスンに行くことにした。 お世話になった演技レッスンの中野先生や、稽古の仲間に病気のことを話し、感謝して退会しようと思った。 僕が認知症を告白すると、教室は一瞬、静かになった。皆の顔が呆然としている。 中野先生は言葉を探して、しばらくの間があった。 「気の毒だが……「外郎売」は続けるといい。滑舌が良くなるから、頭にもいいよ。きっと」 「ありがとうございます。そうします。皆さんとは、半年ぐらいでしたけど、一緒に芝居の稽古ができて、貴重な体験ができて本当にありがとうございました」 僕は、それ以上言うことができなかった。 前頭葉が豆腐のようになって壊れてしまったような気がした。 崩れそうになった。醜態は見せたくなかったが涙が止まらなかった。 僕は礼を言うと逃げるように教室を後にした。 「私はよしだ かおりです。……ミュージカル出演が夢です」 「私はあめみや とおるです。……昔役者……出戻りです」 「私はつぼい はじめです。僕も劇団に……」 「私はかんだ ひでおです。シニアタレント……」 初めて皆に会った時の挨拶をかすかに思い出した。「病気に負けないでね」の声が背中を包んだ。 短い間だったが、役者だった。 これから認知症の患者を演じて行こうと思った。 天野さんの言った「気力が落ちて辛いと思った日は辛い演技をしていると考える。さらに落ち込んだら、もっとリアルな演技をしていると考える」を思い出し実践しようと思った。 僕は、教室を出ると、田中社長と大場マネージャに除名してくださいとメールを送った。 認知症と診断され、演技の仲間に退会の挨拶をしようとすると、言葉が出なくて、涙が溢れ崩れそうになった。思った以上に感情のコントロールができなかった。 田中社長と大場マネージャの前で醜態は見せたくなかった。 「高橋さんが辛いのだったら、退会の挨拶はいいですよ。私はこれからも、高橋さんに何かできることがあれば支援したいと思っています。ですからもし、高橋さんが了承してもらえれば、休会でどうでしょう」と田中社長からメールが届いた。 僕はありがとうございますと返信した。二度と復帰できないことはわかっている。それでも田中社長は休会を提案してくれた。僕は感謝した。 中野先生から、僕が泣きながら挨拶したのを聞いていたのかもしれない。
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