第1章 .タレントオーディション

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第1章 .タレントオーディション

第一章  タレントオーディション 誰でも何かに熱中してそれで生活できたらと考えたことがあると思う。僕の場合は演劇だった。しかし、実際は役者を諦め不動産会社に就職した。恋人がいて役者では彼女と結婚できないと思ったからだ。 僕の名前は高橋直樹。サラリーマン二年生だ。 演劇の素晴らしさは、学部や学科、男性、女性、先輩、後輩の垣根を越えて、語り合い一、二カ月の時間をかけて舞台を完成させる充実感だと思う。それは主演も助演も、監督、衣装、照明、舞台、音楽担当も関係なく同じだと思う。 演劇を通して実社会では味わえないストレートな喜怒哀楽を体験できたと思っている。非日常の世界観、異世界の感動、舞台という張りつめた特別な空間で、観客からの惜しみない拍手を受けた感激は、自己が解放されたような高揚感があって忘れられない。 学生たちの拍手や歓声、スポットライトは日常の悩みを忘れさせてくれた。 しかし、どんなに演劇が素晴らしいと言っても、役者として食っていけなければ、夢も情熱も萎んでしまう。 結局僕は演劇を諦めた。 演劇を諦めたといいながら、それでも演劇部での体験を時々思い出すことがあった。 営業の外回りの途中で、昼マックを食べていと、稽古の帰りに友人の山田君たちとマックを食べたのを思い出したりする。 思い出に時々浸っているまでは良かった。 ところが、最近は営業の仕事は順調なのに「本当は、仕事を投げ出して役者をしたいのだろう」という声が聞こえるようになった。 そんな時は、「冷静に考えろ」と言い聞かせた。  僕が主役でなかったのは、役者として魅力も、演技力も個性もなかったからだ。 ほとんどの役者の卵がアルバイトをしている。家族を持つことより夢を追うことを優先する人がいる。 だが、僕には美穂と別れて役者をするという覚悟も熱意もない。 美穂が役者として売れるまで待ってくれるはずがない。一生アルバイトで終わるかもしれないのだ。 僕は美穂といつか結婚したい。そのために今の仕事で実績を上げて昇給し生活を安定させたい。 だから結婚も、役者もしたいというのは無理な話なのだと言い聞かせた。 ある日、営業の途中ガソリンスタンドに寄った時だった。学生時代舞台で主役を演じていた山田君にあった。彼はガソリンスタンドでアルバイトをしていた。  彼は高身長で、ルックスも男の僕でさえ嫉妬する。 山田君は卒業後、劇団に所属したと聞いていた。 美穂は「山田君の容姿なら入団もありね。でも売れるかわからない。大変だと思うよ」と言っていたことがある。 あの優等生の山田君でさえ、役者の道については、美穂は懐疑的だった。僕の場合はさらに難しいに違いないと改めて思った。 「久しぶり、山田君は卒業する時〇〇劇団に入ったと聞いたけど」 「ああ、でも、まだまだかけだしだから、バイトしないと」 「公演は決まった?」 「来月、〇〇座で二週間公演がある。有名なミュージカル〇〇だから、良かったら見に来てくれよ」 「それはすごいな。どんな役」 「〇〇の役だ」 「すごいね」 その役は主役ではないが、登場人物として重要な役だと思った。有名なミュージカルなので主な登場人物を知っていた。 「僕は不動産の営業をやっている。得意先回りさ」 「正社員か?」 「まあ」 「生活は安定しているわけだ。でも、あんまり、満足していないみたいだな」 「そんなことはないよ。でも最近、舞台の拍手を思い出して」 「俺も学生時代の舞台の事思い出すよ。今度舞台とても楽しみにしているのだ」 「学生演劇じゃないし、うらやましいよ」 「二年舞台をやっていて初めて名前が五人の中に入ったんだ。今までその他大勢みたいだったので、両親にも見に来てくれとは言えなかったんだけどね」 山田君の目は輝いていて言葉は誇らしげだった。 「実は、時々、もう一度、演劇やりたいな……って思うんだ」 山田君に嫉妬したのかもしれない。本音が出てしまった。 「そうなのか? でも君は学生時代から恋人いたよね」 「うん」 「じゃ、彼女は賛成しているの」 「いやとても話せない」 「売れるまでは役者はたいへんだからな。バイトしないと食っていけない。俺は当分彼女無理かな。でも、君は結構演劇にはまっていたからな。気持ちはわかるよ。本当にやりたいなら、掛け持ちでエキストラのバイトで自分を試してみたらどう?」 「エキストラか」 「学生時代エキストラのバイトをしたことがあるんだ。ただ、日当が5000円ぐらいで交通費も出ないから長くはしなかったけどな」  山田君が授業に出ているのをあまり聞いたことが無かった。大学三年生になると、就職活動をはじめて、演劇部から自然と足が遠のく。僕もそうだった。でも山田君は、演劇部か、バイトをしていた。 僕は勉強と美穂と演劇とバイトを掛け持ちしていた。大学生活を謳歌したのは間違いなかったが、演劇で完全燃焼したとは言えなかっら。 「劇団入ってわかったけど、学生演劇とは全く違う。生半可な覚悟じゃできないよ。俺なんていつも怒鳴られている。仕事頑張りなよ。あんまりお客さんと話しているとまずいんだ。先輩がこっちを見ているし。 山田君の顔が急に真顔になった。 「お客様、ありがとうございました」 「ミュージカル見に行くよ」 僕はガソリンスタンドを後にした。 数日して山田君がぜひ会いたいと電話して来た。僕が待ち合わせの喫茶店に行くと、彼は申し訳なさそうに、チケットを取り出した。 「悪いんだけど、チケット買ってくれないか」 「いいけど」 「一人ノルマ四〇枚なんだ。三年コロナだろ。やっと公演が決まったけれど、劇団は火の車なんだよ」  劇団員がチケットを売っているのは聞いたことがあった。 「大変なんだな。いくらなの?」 「一枚五千円なので五枚二万五千円、いい?」 「きついな、二枚にしてくれないか」 「二枚でもありがたいよ」 「大変だね」 「売れ残ったら、自分で買い取るんだ。有名な劇団じゃないからね」 「持ち出しで舞台か」 山田君のノルマは四〇枚、二十万ということになる。 「がっかりしたか。俺も入団したころは、新人だし、持ち出しありだと思っていた。でも二年たっても変わらない。有名になるほどノルマは大きい」 「チケット数年待ちの劇団もあるだろ」 「そうだけど、うちの劇団はテレビで売れている有名な俳優いないしな」 「でも、役者はやめたくない」 「そりゃそうだよ。演技磨いて、ゆくゆくは劇団を卒業してテレビとかで活躍したいな。結構、テレビで急に売れ出して、あの人はと思うとA劇団の出身だったとか」 「そうだな。確かに。演技力のある役者は劇団出身の人が多いよな」 「これからも、たまにはチケット買ってくれよ」 「わかった。僕も山田君に会っていい刺激になった」 「助かるよ。美穂さんと見に来たら、俺お前の事PRしてやるよ」 「どうかな。まだ何も話してないし。逆効果になるとまずいし」  チケットを買った後で、美穂と観劇できないことに気づいた。 「そうか。ほんと無理言って悪い。俺バイトあるから急いでいるんだ」 「わかった」 大学の舞台では輝いていた彼が、仲間を探してチケット売るのはきついに違いない。  僕は山田君が出ているミュージカルを一人で見に行った。 山田君は有名な役ではなかった。ガソリンスタンドであった時、彼は見栄を張っていたのだ。まさか僕が本当に見に来ると思っていなかったのだと思う。 その後で、チケットを売ることになり、僕に売れば間違いなく観劇し嘘がばれてしまう。 彼は僕が見ていることに気づかなかった。むしろ良かったと思った。目が合えば、彼が気まずい思いをしただろう。 僕はそれでも彼の演技に感動した。主演メンバーに入っていなかったが、彼は輝いていた。 僕は休日を利用してエキストラのバイトを始めた。 恋人にも両親にも内緒にしていた。仕事にも張りを感じるようになった。このままでもいいのではないかと思うことがあった。しかし、山田君の舞台を見て気持ちが揺れていた。 僕はエキストラのバイトで芝居をしているような気分を味わっているだけではないか、自分を裏切って続けていていいのかと。 やはり、恋人の美穂と向き合って、自分の本心を打ち明けたいと思った。  家族三人で夕食を食べる機会があったので、僕は両親に告白した。 「会社を辞めて二年間役者に専念したいと思っているんだ」  僕の告白に、父は、怪訝な顔になり箸をおいた。 「二年も会社員をしているのになぜだ? 会社で何かあったのか?」 「いや、何もない。そうじゃなくて、最近、舞台に上がった時の達成感を思い出すんだ」 「達成感? 仕事も慣れてきたのにどうしてだ。仕事に不満があるのか?」 「いや、仕事は満足しているよ」 「じゃ、なぜ今頃役者をしたいというんだ。役者の達成感と言ったって、あくまで学生の芝居だ。観客だって、学生や父兄だ。好意的に拍手してくれたんだよ。それはわかっているのだろう?」 父が言った。 「お母さんも、そう思う。文化祭で応援していた人家族が多かったでしょ」 「もちろんわかっている。学友や、父兄の応援の拍手だって。でも十一月の文化祭公演だけじゃなく、年に何度も公演していたんだ。四月の新入生歓迎公演とか、六月公演とか、二月の冬季公演とか、その時は、他の大学生も見学に来たりする。必ずしも、応援の拍手ばかりじゃなかった。演劇が素晴らしかったからでもあるんだ」 「わかった。だが、なぜ、今頃人生をやりなおしたいというのだ」 「吉永美穂さんどうするのよ。学生時代から付き合っているのよ。美穂さんもご両親も反対すると思うわよ。それでも役者をやりたいというの。私は浮ついた気持ちなら反対よ」母が言った。 「お前主役じゃなかったな? プロになっても主役は難しいと思うぞ」 「別に主役にこだわっていない。演劇をしたいだけなんだ」 「直樹の演技をテレビや映画で見られたら素敵ね」 「母さん、直樹の将来の話をしているんだ。夢を語っているわけじゃない」 僕は演劇の素晴らしさを両親の反対に耐えながら、話し続けた。 夕食はすっかり冷めてしまった。 僕が何度も、「だけど」を連発するので両親は溜息をついた。 「お前は今まであまり自己主張しなかったから、少し心配していたのだ。お前が自己主張したのはいいことだ。だが、それと役者の話は別だ。役者の仕事がしたくて、今の自分を見失ってはいけないぞ。不満があって逃げ出したい。それが役者だったということはないだろうな。どんな仕事だって必要だしやりがいをもって働いている人たちがいる。役者だけが唯一の職業だという考えじゃないだろうな」 「決して役者に逃げてるわけじゃない。本当に役者になりたいんだ」 「お前がそこまで言うなら、しょうがないな、お前の人生だ。でも美穂さんにちゃんと了解とれよ。美穂さんお前にはもったいないほどいいお嬢さんだからな。もし、美穂さんが別れると言ったら、引き返せないんだぞ。それなら役者をやめると言ったら、お前は信用されなくなる。美穂さんは将来の結婚を考え直すかもしれない。お前にはそれだけの覚悟があるのだな」 父が厳しい口調で言った。それだけ、美穂との結婚を両親は楽しみにしていたのだと思った。 僕は、「はい」と言った。もう引き返せないと思った。 「約束しろ。役者を目指すなら共演者・スッタフに感謝する人間になれよ。売れても天狗になるなよ」  僕は「約束する」と言って頷いた。 もし、美穂に反対されて、それなら役者はやめると言えば彼女は僕を信用しなくなるだろう。 美穂の反対で役者を断念すれば、それがしこりとなって別れることになるかもしれない。それでも美穂に相談したかった。 美穂の実家はすし屋で何度かごちそうになったこともあった。 美穂のお父さんはキップのいい竹を割ったような人で、美穂の性格はお父さんに似ていると思った。 大きな店ではなかったが、気取った店ではなく、子供歓迎の店だったので、近くに回転ずしがあるが結構繁盛していた。 僕は美穂に大切な話があると電話した。 電話した後で、告白して美穂が僕から離れていったらと考え不安になった。 土曜日、僕は二人がよく行く喫茶店で美穂を待っていた。 「待たしちゃった?」 「いや、僕も来たばかりだ」 「何なの大事な話って?」 「学生時代演劇部だっただろ。あの頃美穂応援してくれたよね。実は先日、山田君に会ったんだ」 「山田君? 大学の演劇部員だった?」 「そう、今劇団員さ。で、ミュージカル〇〇に出演すると聞いて公演を見に行った。そうしたら舞台が素晴らしくて。とても感激したよ」 「すごいわね」 「でね、僕山田君といろいろ話して、学生時代の舞台を思い出して」  山田君とは舞台の後で会っていなかった。嘘はいけないと思いながら嘘をついた。だから、次の言葉がなかなかでなかった。 美穂は少し怪訝な顔になったような気がした。引き返すなら今しかない。 告白すれば、別れることになるかもしれない。 「……それで、今、美穂に内緒でエキストラのバイトしていたんだ。黙っていて、ごめん」  僕は美穂の反応が怖かった。 「エキストラ? 」 美穂は突然の告白に驚いて一瞬身を引いたが、すぐに身を乗り出した。 「エキストラ?  何で?」僕の顔を覗き込んだ。 「一度挑戦してみたくて。学生演劇とは違うだろ」 「これから就職活動するから、演劇部員も三年生で終わりだと言っていたの嘘だったの」 だまされたという口調だった。 「嘘じゃない。本当に四年生になってから演劇部にはいかなかった。最近山田君に会って、それで、エキストラを始めたんだ。まだ四ケ月だ」僕は慌てて否定した。 「で、どんなエキストラをしたの?」 「レストランで食事をしているエキストラとか、二、三回。でもとてもやりがい感じた」 美穂は「二、三回、エキストラをしただけで、やりがいを感じたの?」とオーム返しのように言った。 「レストランの食事って、実際どんな役だったの」美穂は問い詰めた。 「例えば主演の女優さん男優さんが食事をしながら会話するシーンがよくあるだろ。周囲で食事をしているカップルや親子はみんなエキストラなんだ。僕は女性とスパゲティ-を食べる役なのだけど、女性と初対面だから、声を細めてエキストラの仕事は長いですかとか質問する。女性も入ったばかりですとか言うのだけど会話が続かない。そこで僕が口だけ動かして、女性がその内容を理解しているかのように相槌をうったり笑ったりする。もちろん声を出さない。何度も撮り直すから、スパゲティは食べるふりをするだけで、口元に運びまた戻すんだ。 カットがかかるたびにスタッフ、俳優、監督が打ち合わせで騒がしくなる。 監督がカメラポジションを変えると言うと、瞬時にレストランの床に即席のレールが敷かれ、カメラがそのレールの上を動くんだ。女優さんもメイクも直したり、セリフを暗唱したり、本当に別世界なんだ。時間があっという間に過ぎてしまう」 「何が言いたいのかな? 撮影の雰囲気がよかった? それとも、初めての撮影で感激したと言いたいの」 「いや、そうじゃないんだ……」 「何か企んでいる? 遠回しな言い方やめようよ」  美穂は僕が自己主張しないタイプで、はっきり言うタイプでないのをよく知っている。美穂は背筋を伸ばして僕の顔を凝視した。 「わかった、実は、役者を目指したい……、どうかな。二年だけ時間をくれないか」  僕はバンジージャンプしたような気分で、言い終わると椅子に縛られたように硬直したまま、お願いしますと頭を下げた。 「会社辞めるってこと? 今の仕事に満足してないの」  美穂は詰問するように言った。 「今の仕事に不満があるわけじゃない。でも、もう一度、役者にチャレンジしたいんだ」押され気味で説得力がなかった。 「役者で食べていくのは大変だよ。才能があっても中々売れない人がたくさんいる。二人の結婚の話はどうなっちゃうの」 美穂は口をへの字に曲げて腕を組んだ。大反対だという意思表示だ。 「結婚は絶対したい。でも、二年だけやらしてもらえない? 二年やって食えなければ諦める。どうかな」 「何で二年なの」美穂は不思議そうに言った。 「劇団に入って役者を目指すなら何年も下済みが必要だろ。でも、CMや再現ドラマに出られるようになれば早く自立できるかもしれない。だからオーディションを受けまくってチャンスを掴みたいんだ。それでもだめなら、サラリーマンに戻る」 「サラリーマンに戻る? 何それ!」  美穂の顔が紅潮し、すぐにあきれた顔になった。 「甘いよ! 直樹、そんな考えで二年役者やってもだめだよ……」 美穂の声音が大きくなり、周囲の客が僕たちを見たので美穂は慌てて言葉を飲み込んだ。 「確かに甘いよな、この話をしたら、美穂は僕から離れていくかもしれないと思った。でもずるいと思うけど美穂が好きだし結婚したい気持ちも変わらない。だから別れたくない。ダメかな」  自分でもずるいと思った。 「じゃ、二年じゃなくて一年やってみて、だめなら諦めるのはどう。私も直樹と別れたくない。辞めろといったら、ずっと引きずるんでしょ」  美穂は僕が、舞台の感動が忘れられず、過去を引きずっていることに、けりをつけさせてあげようとしているのだと思った。一年で実績を上げるのは至難の業だ。でも全力を出し切れば道が開けるか、挫折してもあきらめがつく。 「一年か、分かった。でももし、セリフのある役がもらえたら二年に延長してもいい?」  ずるいと思ったが言ってみた。だめ! と言われてもしょうがない。 「テレビ、映画に名前がでるようになったらね」  意外な言葉だった。美穂は一年で結果など出ないと思っているのだろう。それでも僕の無茶な提案を許してくれた。 今のままではだめだと思った。三回エキストラをしたがオーディションはなかった。背景の一人にすぎなかった。もちろんエキストラで有名プロデューサーに見出された役者がいるかもしれないが、そんな奇跡を待つ余裕はない。オーディションをどんどん受けるには実績のあるプロダクションに入所するしかないと思った。 「私、両親には話さない。一年経って役者がだめだったら、直樹が失業したので就職活動していると話すわ」 美穂は両親に心配かけたくないのだと思った。僕が役者を始めたと言えば、交際をやめるように言われるに違いない。美穂に嘘をつかせることになり済まないと思った。 「直樹、もし役者がだめで、サラリーマンに戻ったら、また何かしたいとか言い出さない」  美穂の意外な言葉だった。父は今の仕事に不満があって、役者を目指すのかと疑っていた。美穂もそう思っているなら、トラブルを抱えたら逃げ出す人間と思われてはいけないと思った。 「もし役者の才能もチャンスもなければ、きっぱり諦める。そして、サラリーマンになる。同じような相談で美穂を困らせたりしないと誓うよ」 「約束よ」 「約束だ」  僕は美穂の目を見てはっきりと言った。 再就職のアンテナだけは張っておこうと思った。そして、父が言った「役者をするならすべての人に感謝しろ。天狗になるな」を思い出した。今、僕は美穂に感謝している。美穂が恋人でよかった。 僕はエキストラの仕事で以前から気になっていた宝プロダクションに入所させてほしいとメールを送った。 宝プロダクションのホームページに、年度ごとのCM出演や、再現ドラマと出演者名簿が載っていて、僕の知っている役者の名前もあった。役者の演技サンプルのユーチューブも豊富だった。このプロダクションなら、エキストラの仕事は多いし、オーディションでセリフのある役もあるかもしれない。 数日してオーディションの日程のメールが届いた。 当日、僕はプロダクションのあるビルに行くと、プロダクションのフロアを確認してから、化粧室に入った。最寄駅から五分くらいだったが、自宅を出てから一時間以上たっている。直前までネクタイを緩めていた。髪も乱れているはずだ。僕は髪をとかし、ネクタイを締め直して気を引き締めた。「合格できますように」僕は鏡の自分に言った。 僕はプロダクションのドアをノックした。 ドアの中から「どうぞ」の声を確認すると、ドアを開け一礼し、ドアを閉め、再び深々と頭を下げた。 「おはようございます。高橋直樹といいます。面接よろしくお願いします」  僕はとても緊張していた。もちろん、面接は何度も受けたことがある。 しかし、会社面接は、対面で座り、採用側が履歴書を読みながら、志望動機や、学生時代は何が得意だったのかとか決まった質問が多かった。 今回の面接は、履歴書など無意味に近いだろう。学歴と演技力には相関がないと思われるからだ。こういう設定で演技してくださいと注文されるかもしれない。事前に宝プロダクションに掲載されている役者サンプルのユーチューブを練習してきたが、それができる保証もない。 部屋の中央にテーブルがあって、椅子に二人が座っていた。 女性は三〇代後半、ボーイッシュな髪をしている。 男性はやはり三〇代後半。黒縁の眼鏡をしていて少し恰幅がいい。濃紺の背広を着ている。 二人が立ち上がり僕に名刺を差し出した。 芸能プロダクションのホームページを見ていたので女性が田中社長だと分かった。 男性は大場マネージャだった。 僕は二人の目を見ながら自己紹介をした。 僕は面接の機会を与えられたことを改めて感謝した。 田中社長は、場面を設定した演技を要求しなかった。内心ホッとした。 「ホームページに掲載されていた役者サンプルの一つを演じてもよろしいでしょうか?」 田中社長がお願いしますと言った。 数分の寸劇は緊張していたので、あっという間に終わった。 田中社長が僕を着席させると、履歴書を見ながら質問を始めた。 「不動産の会社に勤めているのですね」 「はい、二年になります」 「なぜ、役者を目指そうと思ったのですか」 「学生時代の演劇部の舞台が忘れることができずにいました。学生時代の演劇部の友人がミュージカルに出演していて、その舞台が素晴らしかったのです。舞台を見てもう一度、役者を目指したいと思いました」 「お友達の舞台がきっかけになったのですね。仕事に不満があったのですか」 「仕事に不満があったわけではありません」 「あなたにとって役者とは何ですか」 「いろいろな人生を疑似体験できる仕事です。経験を積むことが人生の目的の一つだとすれば、役者は素晴らしい仕事だと思います。学生時代、舞台の満足感・高揚感・連帯感は素晴らしいものがありました」 「でも主役や、準主役になれる人は一握りの人です。学生時代の演劇部であなたは主役を演じたことがありますか」 「三年演劇部でしたが主演したことはありません。私にとって主演かどうかは問題ではありません。男優の〇〇さんは脇役が多いですが、演技は素晴らしいと尊敬しています。映画やテレビのドラマを見るのも好きです。映画〇〇は三回見ました」 「演劇が好きなことはよくわかりました」 田中社長は時折、隣の大場マネージャに目配せをした。 この男性どう思う? と田中社長は大場マネージャに聞いたのかもしれない。アウンの呼吸のように見えた。 「今の仕事と役者の両立は難しいですよ。入所した方には演技レッスン、モデルレッスン、声楽のレッスンを受けていただきます。もし、入所していただいた場合は、全力で支援します。当然、突然オーディションメールを送ることもあります」 「もし、入所できましたら、仕事はやめて全力で頑張りたいと思います」 「わかりました。でも生計は? アルバイトをするのも大変ですよ」 「多少は蓄えがあります。もし合格させていただき、オーディションの機会がありましたら、アルバイトでご迷惑をおかけしないようにします」 「わかりました。最後にあなたの夢はなんですか」 「この役をやってよかったと思える作品に出会えることです」 「質問は以上です。合否は後日お知らせします」と田中社長が言った。 僕はよろしくお願いしますと言ってプロダクションを後にした。 僕は宝プロダクションに賭けた。もし、不合格なら、ほかのプロダクションでも同じだと思った。事前にプロダクションの演劇教室など調べていたから、これ以上のプロダクションはないと思った。 宝プロダクションの入所面接に落ちるなら、素質がないと諦めるしかない。社長は数十人のタレントを束ねている。その眼力に間違いはないと思った。 オーディションを落ちたから、演劇を諦めると言ったら美穂は何というだろうか? マイナス思考がもたげたが、まだ落ちたわけではないと否定した。 僕は美穂にラインした。 「今、宝プロダクションの面接が終わった。電話しても大丈夫」 「大丈夫よ」美穂からラインが来た。  僕は通話に切り替えた。 「宝プロダクションの面接どうだった?」 「とても緊張した。二年前、会社が決まるまで何社も面接受けたけど、全くちがう」 「そうね、即戦力でなければ採用しないのだろうな」 「寸劇をしたんだけど、どうかな。緊張したのでうまくできたかわからない。一応全力を尽くしたと思っているけど。もし、不採用でも他のプロダクションを受けるつもりはないんだ」 「そんなに簡単に諦められるの。この間の告白と違うよ」 「何十人もタレントを抱えている田中社長の目がすごいんだ。この人は瞬時に僕の役者としての未来を見通せるとね。田中社長が不合格というなら、他のプロダクションでも不合格だと思う」 「そうなんだ。ずいぶん、田中社長に心酔したのね。社長さんは女性だったの?」 美穂から意外な言葉が出た。 「女性社長だけど」 「うーん、直樹、その社長きれいだった?」  僕は返答に困った。確かに美しいと思った。 「僕は社長が美しい女性だから、すごいと言ったわけではないよ。本当にプロの目を見たと思ったから」 「ごめん。本気で転職考えてるのに。でもあんまり社長はすごいと連発するから。すこし、からかってみたかったの。直樹は感化されやすいのは確かよね。私は、合格してほしいと思うよ。直樹がせっかく決心したんだから」 「ありがとう、頑張るよ……面接すんだ後で頑張るも変だけど」 美穂は笑った。その声に僕は少し安心し、合格してほしいと言ってくれたことに感謝した。
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