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想い人
「お二人はよくこの店に来ているのですか」
「いや、今日は特別な日でね」
「特別な日?」
沙織は受け応えをする布施さんの言葉の裏に何かがあることに気づいた。
言いにくいことなのだろうか。その視線は自然と唐沢さんの方へと流れていく。
「毎年、今日だけは必ず唐沢が休みをとっているんだ。だから、俺もコイツに合わせて毎年飲みに誘っている」
「何かあったんですか」
気になった咲が尋ねてみても布施は答えなかった。
少しだけ気まずい空気が漂ってしまう。
プライベートなことなら深入りするべきではない。だけど、中途半端に話されてしまうと気にはなる。
「俺の彼女の命日なんだ」
唐沢さんが自分で答えた。
その場が凍りついた。
咲が慌てた。
「ごめんなさい」
「いや、いいんですよ」と唐沢は自らフォローした。
沙織は何を言っていいのか分からなかった。
布施さんはあえて唐沢さんに尋ねた。
「今日も行って来たんだろう?」
「まあな」
どこに行ったのかは聞かなくても推察できた。たぶん彼女のお墓参りだ。
毎年彼女の命日に休みを取って墓参り。唐沢さんの無念の気持ちが伝わってくる。
大切な人の死。沙織も高齢の親族なら見送ったことがあった。
人はいつか死んでしまうもの。そんなことは当たり前だ。だけど、故人への思いというのは、その人との縁や絆の深さによって大きく異なってくる。
布施さんだってそうだろう。数年前に奥さんを交通事故で亡くしている。
保育園で息子の優也くんをお預かりしていたとき、死を扱った絵本を読み聞かせしてしまい、優也くんが突然泣き出してしまったことがあった。
幼くして母親を亡くした優也くん。普段はそんな素振りを見せていなくても、彼なりに思うところがあったのだろう。沙織は泣いている優也くんをただ見守ることしかできなかった。
「学生の時からの相手でね。活発な人だった」
唐沢さんはビールを飲みながら、ポツリポツリと話し始めた。
「俺が医師を目指して、彼女が看護師を目指して、それぞれ夢を叶えたんだ。就職先の病院は別になってしまったけれど近くだったからね。休みの日になると、よく会ってた」
その表情は穏やかだった。
沙織には学生時代の恋愛体験がなかったのでいまいち分からない。誰が好きとか嫌いとか周りの友だちは忙しなく一喜一憂を繰り返していたようだが、沙織自身が恋愛感情で揺れ動いたことは残念ながらなかった。
鈍感だったのかもしれない。でも高校生活では弓道の鍛練が楽しかったし、大学では幼児教育に興味の大半を持っていかれていた。
集中力が凄すぎるとか、何かに熱中すると周りが見えなくなるタイプとか度々嫌みを言われたりもしたが、それほど気にすることなく学生生活を送ってきたのは幸か不幸か、よく分からない。
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