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「その男が自分の心を偽ることなく欲望に忠実に生きていたとしたら、俺はその男を取り締まる必要に迫られていたかもしれない。
だけど、その男は自分の気持ちを自分の中だけで完結させた。その意味では彼は立派だったと思う」
「では、その人が救われる方法はなかったのでしょうか?」
咲は尋ねた。
想いを内に封ずることでしか解決できないとしたら救いがなさすぎる。
外に発散を求めることができない。かと言って目を背けることもできない感情は、どうしたら良いのだろう。
「彼の失敗は、自分の心を偽ってしまったことだと思う。彼は自分の心を偽るのではなく真正面から現実と向き合うべきだった。そうすれば、ネガティブな感情をいつまでも抱くことなく、もっとスムーズに次へと移っていくことができたのだと思う。
例えば、最愛の人を恨むのではなく誇りに思っていたら、彼の人生はもう少し早く拓けていたかもしれない。
だって、結果として彼は、十年で新しい彼女と知り合って、家庭を築くことができたのだから」
幸せは運命で決まるのではない。気の持ち方で決まると言った人がいる。
大きな富を持てば幸せになれるのかというと、そうとは限らない。では、好きな人と結婚して家庭を築けば幸せになれるのかというと、こちらもそうとは限らない。
人の欲望には果てがなく、立場や状況に応じていくらでも変化していくからだ。
だから、波のように押し寄せてくる感情をコントロールする気の持ち方が大切になる。
「ネガティブな感情を持つのではなく、常にポジティブな感情を持つようにする。そうするだけで生きるのがずいぶん楽になる」
例え話が自分に向けられているものだと初めから察している唐沢さんは口を開いた。
「俺は別にネガティブな感情を持って生きているわけじゃない」
「分かっているさ。だけど、お前を見ていると俺は辛いんだよ」
思わぬタイミングで出てきた布施さんの本心に、唐沢さんは戸惑いを隠せないようだった。
すぐに何かを言おうとしてやめて、少し考えた後に出てきたのは、真正面から受け止められないがゆえのイヤミだった。
「刑事が幸福論なんか語っているんじゃねえよ」
「それを言うなら、医者がいつまでも亡くなった人のことを考えているんじゃない」
それは、どちらも譲ることのない意志の主張だった。
幸福論を語る刑事も、亡くなった人のことを想い続ける医者も、本来の責務を遂行していく者の心構えとしては不適格だろう。
だけど、大切な人のためなら例外があっても良いのかもしれない。なぜなら、私たちは絶対に間違わない機械ではなく、不完全な人間なのだから。
二人のやり取りを見ていて沙織はそんなふうに思った。
「二人とも仲が良いんですね」
咲が最後に残っていたもつ焼きを食べながら呑気に言った。
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