1:落日

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***  軽く身震いするほど寒いのに、発車時刻を三分過ぎても電車が来ない。そういえばすっかり忘れていたけれど、終電というものはいつも大幅に遅れるのだ。仕方なく、温かい飲み物を買いに自動販売機へと向かう。  早番は通常夜の十時まで。けれど今日はお店が大盛況で、終電までの二時間残業。お金は一円でも多く稼ぎたいから、残業はありがたい。  でもさすがに疲労困憊だ。ホットミルクティを指が勝手に押したのは、身体が糖分を欲しているからに違いない。  七分遅れでようやくホームに滑り込んできたみかん色の鉄の塊は、この時間なのにそこそこ混んでいた。残念ながら空席はなく、温度差で曇ったドアにもたれかかる。  居酒屋なごみがある本宮下から私が住む西桜台までは、電車でたった二駅。でも今日は座りたかったな、と思いながら甘いミルクティで疲れを癒す。久しぶりにゆっくり湯船に浸かりたい。 『お風呂のお湯ためといて』  スマホを取り出して夫にそう送ったものの、既読がつかないまま西桜台に到着した。駅を出て歩き出しても返事が来ないから、もう寝てしまったんだろう。  寒さで白いため息が暗い夜道に溶けた。電車の中が暖かかったせいで余計に寒く感じる。この冷え込みの中、疲労困憊で歩く道のりは十五分強。やってられない。  見上げた暗い空に、雲に覆われた鈍色の半月が浮かんでいた。あっちは東だからきっと下弦の月だ。まるで私の『今』みたい、と詩人ぶった皮肉を心の中で零す。  夫が仕事に行かなくなって、半年が経った。
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