プロローグ

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 もしもここが水平線煌めく海辺だったなら、砂粒のようにほんの小さなそれを、すぐに波がさらってくれるのかもしれない。あるいは潮風が、あっという間に遠くへ運び去ってくれたかもしれなかった。  けれど、ここは閉じられた世界。どこにも逃げ場がない。だから、ゆっくりと時間をかけて積もり溜まっていく。まるで砂時計のように。 *** 「じゃ、行ってくる」 「うん、いってらっしゃい」  目の前の茶色いドアがバタンと閉まったのを見届けたら、小さなため息が零れて玄関にぽとりと落ちた。でも拾い上げたりはしない。無意識のため息に、わざわざ理由をつけるなんてバカげている。もう一度軽く息をついてから、私は踵を返した。  素足で歩く廊下はひんやりとして気持ちいいけれど、なんとなくベタついている。きっと昨日の晩に、リビングの扉を開けたまま焼肉をしたせいに違いない。  けれど、頭に浮かんだ「拭かなくちゃ」は、キッチンの換気扇の下に着く頃には「あとでいいや」に変わっていた。今日も一日は長い。さて何をして過ごそうと考えながら、とりあえずIHコンロの上の赤い箱に手を伸ばす。  タバコは換気扇の下だけ、これが我が黒川(くろかわ)家のルールだ。非喫煙者の夫が決めた。この家は賃貸マンションだし、それでなくても世の中は嫌煙ムード、喫煙場所すら奪われつつあるこのご時世に贅沢は言えない。吸わせてもらえるだけ幸せだ思うようにしている。
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