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平日の朝は喧騒だ。
結婚七年目、三十二歳の快大は、今朝も自宅の階段を走りながら、あべこべにネクタイを締めていた。とりあえず形になればいい。
リビングのドアを勢いよく開けて、快大はスライディングをかました。
「ママー、牛乳こぼれたー」
四歳の娘、茉莉の呑気な声が聞こえた時には、快大のテーブルの下の靴下は濃い色に変わっていた。コップの端からポタポタと垂れてくる牛乳は、快大の足を表裏ともにみるみる牛乳まみれにした。
スライディング先の運が悪すぎる。
「あー、もう。だからよそ見しちゃだめって言ったでしょう。毎朝、毎朝全く」
キッチンにいた三十四歳の深優は、ため息をついた。仕事着を身につけた深優は、雑巾と布巾を手にして、快大と茉莉の元へやってくる。
「今日はテーブルの上だけで済んだの。よかったわ」
深優が倒れていたコップを起こして、テーブルにこぼれた牛乳を拭いていく。
「ちがうよ。俺の靴下が吸い取っただけ」
快大が片足だけ色の濃い靴下を指さす。
「ああそう。床を拭く手間が省けてよかったわ」
深優はちらりと一瞥を寄越しただけで、朝だというのに疲れた声を出した。
ニュースからは、アラーム代わりのアナウンサーの声が聞こえてきて、快大は慌てて靴下を脱いだ。足からも、摘んだ手からも生臭い匂いがして、思わず顔を顰める。
「え。もうこんな時間じゃない。茉莉、もう朝ごはんはやめて歯磨きしてきなさい。遅れるわ」
深優が急いで牛乳を拭き取った。
「ママ、ママ、牛乳ー」
茉莉が抵抗して頭を激しく振る。
「帰ってきてからね。今は終わり」
深優が茉莉を子供用の椅子から下ろして、行儀が悪いと嗜める。
「やー! ママ、ママ」
抱えられた茉莉は、手足を無差別にばたつかせた。せっかく可愛らしく三つ編みにされていた茉莉の髪型は崩れて、時々深優の体に打撃を与えている。
「もう!! 終わりだって言ってるでしょ。早くしなさい! 」
深優がついに怒鳴って、リビングにはアナウンサーの声だけが響いた。
「ママ、きらい! 」
茉莉はむう、と拗ねた顔をすると大きな声で放った。
「はいはい。嫌いでけっこうよ。いいから、早くしなさい」
深優が茉莉のお尻をポン、と叩けば、茉莉はぐずぐずと洗面所に向かって行く。
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