でも、それだけで。

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「深優、俺の朝ごはんは? 」  深優が茉莉の後を追ったのを見ながら、快大は言った。 「トーストが中にあるわよ。後は適当になんか食べて」  深優は快大を振り返ることなく声だけ寄越す。  朝からまともに顔も見てくれない。  洗面所では、小さな手で不器用に歯ブラシを動かす茉莉の横に座って、「裏もちゃんと磨きなさい」と言う、深優が見える。  茉莉は「きらい」と放ったことは忘れたのか、「ママやって」と、子供用歯ブラシを深優に掲げている。  それを尻目に、快大はキッチンで立ったまま、味気ないトーストを咥えた。硬くなったトーストを咀嚼しながら、無意識にシャツにこぼれたパン屑を払った。  ふと前を見ると、カゴの中にはミニサイズのバナナが一本入っていて、ついでにと快大は雑に皮を剥いて口に放り込む。 「あ! パパ、それまつりの! 」  歯磨きを終わらせて、すっかり髪も直された茉莉が目の前にいて、地団駄を踏んでいる。 「茉莉、下の階の人に響くからやめて」  快大は最後の一口を詰め込むと、隣にあったゴミ箱に皮を捨てた。 「まつりの゛ー」  まずい。快大がそう思った時にはもう、茉莉は顔をくしゃりと歪ませて、瞬く間に鳴き声をあげた。  ちょっとバナナを食べただけで、この世の終わりかのような凄まじい絶叫である。  朝から勘弁してくれよ、と快大は頭を()いた。 「ちょっと、何泣かせてるのよ」  深優が口紅を持ったまま、洗面所から飛んできた。  なんで自分が泣かせた前提なんだよ、と快大はむっとしてしまう。 「ママー。パパがとったぁー」  茉莉が深優にバンザイをして訴える。抱っこして欲しい時の茉莉の仕草だった。  深優は白いブラウスが汚れるのも(いと)わずに、泣きじゃくる茉莉を抱き上げた。  茉莉は深優の肩口に皺を作りながら、怪獣の如く叫んでいる。  深優の鋭い視線が飛んできて、快大は何度かポリポリと頭を掻いた。  やっと自分を見たと思ったら、そんな視線か。 「そこにあったバナナ食べただけだよ」  快大が指さした先のカゴには、もう透明のビニールゴミしか残されていない。 「あー。昨日全部食べたがったから、最後の一本は今日のおやつねって残させたのよ」  深優が泣き喚く茉莉を見て苦笑した。 「また買ってあげるから泣かないの」  深優が茉莉の背中を優しく叩いてあやす。  それでもまだ泣いている茉莉の姿に、快大の良心は痛んだ。知らなかったとはいえ、楽しみにしていたものを勝手に食べたのは自分だ。 「茉莉、ごめんな。パパがとっちゃって」  深優の肩に沈めている茉莉の頭を、快大はポン、と撫でた。 「パパやだ」  茉莉は泣き腫らした声で、快大の手をペシリと叩いた。  そんな。四歳児にとって、バナナは宝物なのだろうか。快大の心は痛んだ。 「コラ。パパを叩いちゃダメでしょ」  深優の声がすぐに怒りを帯びて、茉莉の泣き声が一瞬止んだ。 「あー。ママもや゛ー」 「わかったからもう行くわよ」  ぐちゃぐちゃの茉莉を抱いた深優は、諦めたように口紅のキャップを閉めた。そのまま、深優手作りの白いうさぎのブローチが付いた茉莉の保育園バックと、自分の出勤用のカバンを手にした深優は、快大に顔は向けずに言った。 「バナナ食べたならビニールのゴミくらい捨てておいて。それから、床にパン屑転がしたままにしないで。茉莉が口に入れちゃったらどうするの」  深優がスタスタと玄関に歩いていく。 「あと、バナナの皮はちゃんと生ゴミのところに入れて。腐るでしょ。昨日もお菓子のゴミの分別間違ってたわよ」  茉莉に言う時とは違って、深優の声はしっかりと尖っている。 「ごめん」  快大はバナナの皮を生ゴミ用のゴミ箱に移しながら、少し項垂れた。  深優は本当に細かいなあ、と快大は口に出したくなってしまう。それくらい、黙ってやっておいてくれてもいいだろう、とも。 「まったく。それくらい、きちんと自分でやって」  深優は呆れた声を残して、玄関を閉めた。  ガチャン、と遮断された音を聞いて、快大はため息をついた。いってきます、すらない。  茉莉が生まれる前ならば、深優はそれくらいのこと、何も言わずにやってくれていたのに。靴下が汚れたら何も言わず新しいのを用意してくれたし、朝も起こしてくれた。自分のことだけを見てくれていたのに。 「やば」  快大は深優の代わりに、ケータイのアラームに時間を知らされて、急いで靴下を変えて家を出た。  
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