でも、それだけで。

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「ただいまー」  快大が仕事でくたくたになった体を引きずって自宅のドアを開けると、珍しく応答の声がなかった。明かりはついているから、深優も茉莉もいるのだろうけれど。  いつもなら、茉莉が最高の笑顔で「パパ、おかえりー」と、飛び込んできてくれるのに。深優はそれを後ろから微笑んで見ているのに。  快大は違和感を覚えながらも、玄関に座って革靴を脱いでいると、 「おかえりなさい」  と深優の声が聞こえた。響きが暗い。  快大が振り返って、深優を見れば、いつも通り鎖骨までの艶が光る黒髪に、年々ふっくらとしていく血行のいい頬が目に入ってきた。  落ち込んでいる気がしたのは、気のせいか。 「ただいま。茉莉は? 」  快大が茉莉の名前を出すと、深優の顔は沈んだように見えた。 「テーブルに座ってるわよ」  でも、そう答えた深優の声はいつも通りで、もう顔の(かげ)りも消えていた。スタスタと、他の部屋へ消えていってしまう。  快大はリビングに行って、深優の言う通り子供用の椅子に大人しく座る茉莉を見た。  午後八時。大抵自分が帰ってくるこの時間の茉莉は、ご飯もお風呂も深優と終わらせて遊んでいる時間だ。大抵は深優にひっついて、はしゃいでいるのに。今日は下唇を噛んで、黙って椅子に座っている。 「茉莉、うさぎの絵本見てたの? 」  快大はかがんで、優しく声をかけた。 テーブルの上には、有名なうさぎのキャラクターの絵本が置かれている。茉莉が一番好きなキャラクターだ。  茉莉はゆっくりと頭を左右に振った。 「茉莉、どうかしたの」  深優もなんだかおかしいし、二人に何かあったのだろう。 「うさぎさん」  茉莉がボソリと、絵本に向かって呟いた。 「うさぎ? 」  快大が茉莉の顔を覗き込んだ時、深優が戻ってきて言った。 「茉莉、今日はもう寝なさい」  茉莉は俯きがちに頷いた。  子供用の椅子を自力で降りた茉莉は、寝室へ歩いて行く。その後をついて行く深優の背中までどこか寂しそうだ。  その姿に、久々に深優と付き合い始めたばかりの頃を思い出した。    
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