秘密の花園-きざはし-

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 すうっと、風が、頬を撫でた。 「ふ・・・」  目を開くと、人工的な明かりが網膜を突き刺す。  遠くで、獣の鳴き声が聞こえる。  なんとも、頼りない声だろう。 「おめでとうございます。元気な、男の子です」  せわしないざわめきと、医療器具の音、病院独特のにおい、そして、耐え難いほどの生々しい感触。  ずるりと、身体の中から、塊が流れ落ちた。  不快な感覚に、僅かに眉を寄せてしまう。  力が、入らない。  身体が、自分の物でないようだ。 「後産もつつがなく終わってなによりです」  素早く下肢の処理を終え、ベッドで足を伸ばすことを許された。 「これで・・・」  ふう、と大きくため息をつく。 「はい?」 たまたまそばにいた若い看護師が首をかしげた。 「・・・これで、もう、あの男に抱かれずに済む…」 「・・・っ」  ひゅっ、と、息を呑むのが聞こえたが、構わない。  事実を言っただけなのだから。 「光子さま、こうこさま!!とても美しいお子さんですよ」  付き添いの龍江が興奮気味の声で割って入ってきた。  視線を上げると、姑の真神絹が白い布にくるまれたちいさな包みを抱いて歩いてくるところだった。 「光子さん、お疲れ様。あなたによく似た、本当に綺麗な赤ん坊よ」  あの人と、同じ空気をまとったこの姑は、好きだ。  素直にその腕の中を覗き込むと、ちいさな、ちいさな生きものが、焦点の定まらない瞳でじっと見つめながら、ちいさな息をついた。  ちいさな頭に、ちいさな手足。  驚いたことにその細い指先の一つ一つにはきちんと桜色の爪がついている。 「・・・ちゃんと、人の形をしているのね」  あのケモノの、息子なのに。  一瞬、ざわめきが止まった。  不自然な沈黙に怯えたのか、赤ん坊が、小さく声を上げはじめる。  やっぱり、ケモノのような泣き声だ。  すると、絹の華やかな声が部屋に広がった。 「あら、言うわね。惣一郎だって、ちゃんと人の形をした赤ん坊だったわよ」  くっくっくっと、笑いながら、軽く腕を揺すりながら、差し出してくる。 「ほら、ちゃんと抱いてごらんなさい。あなたが産んだ、あなたそっくりな息子を」  受け取ると、頼りない重さの生きものがむずがるように身じろいだ。 「にんげん、でしょう?」 「そう・・・。そうよね・・・・」  真神でもなく、桐谷でもなく、この、私に似てしまった赤ん坊。   この子は、義務を果たした、証だ。 「お義母さん・・・。無事に息子が生まれたことだし・・・」 「・・・もう、行くの?」 「ええ行くわ。約束ですもの」  桐谷との約束。  真神に嫁ぐならば、パリの十六区にある桐谷所有のアパルトマンを譲り受けられる。  生活拠点は絹子とともに東京邸宅、本家には披露宴と祭祀の時のみ足を運べばよい。  そして跡取りを産みさえすれば、その後何処で生活しても構わない。  惣一郎が離縁を言い出さない限り、別居という形をとり続けること。  独裁者だった養父の庇護をなくして桐谷の荷物となった自分に対する、最大限の譲歩だと理解している。  あのアパルトマンは、思い出の詰まった部屋だ。  まだ、「あの人」の存在を感じられる気がする。  早く、懐かしい香りに包まれたかった。 「・・・仕方ないわね。貴女が今、この時、そうしたいなら」 「荷物はとっくにまとめてあるわ」 「まったく、あなたらしい・・・」  赤ん坊の額に、唇で触れてみる。 「私の仕事は、終わったもの」  優しい感触、甘い匂い。  すみきった綺麗な瞳に、愛らしい唇。  心地よい産毛に頬を寄せて、目を閉じた。  それでも。  この子は、私の世界を変えてはくれない。  冷えきった指先が、暖まることはないのだ。  あの人に似た子だったなら、もっと違う感情が生まれたのだろうか。 「お前も、いつか、解るわ」  魂の渇きを。  そして、けっして埋まらない、空白を。 「見つけたら、手を離してはいけない。何があっても、ね」  母親として、二度と会うことはないだろう。  だから、許せとは、言わない。  お前は、お前を大切にしてくれる人に出会うはずだから。  そして、その中に愛があることを、願う。  これは私からの、最初で最後の贈り物。  ちいさな唇が、動いた。  まるで、解ったというように。  あり得ないのに、そんな気がした。  そう、思いたいのかもしれない。 「葉巻が、吸いたいわ」  姑が駆けつけた親類たちに披露するために子供を抱いて部屋を出ると、ふわりと身体が軽くなってきた。  柔らかな枕に頭を預け、広い清潔な天井を見上げる。  思いっきり、白い煙で霞ませてみたい気分だ。 「まあ、光子様ったら」  龍江が共犯者の笑みを浮かべる。  彼女は私を甘やかすのが、好きだ。 「いま、吸いたいの」  たとえ、それがどんな要求であろうとも。 「・・・秘書に買いに行かせますわね」 毛布を整え直した後、静かに退出した。  そろそろ潮時だ。  龍江との関係も。  過ぎた忠臣は、時には暴走する。  忠義が独占欲へと変わった時、その牙が何処に向くかわからない。  だいぶ前から、重荷に感じ始めていた。 「新しい宿主が必要か・・・」  あとで、姑にでも頼むとするか。  彼女なら、上手くやってくれるだろう。  重いと言えば、あの男の始末をどうするか。  息子を得たらますます増長しかねない。  熱くて、乱暴で、我慢を知らない獣。  おそらく、簡単には出国させてくれまい。 「でも・・・」  それらの全て、どうでもいいことだ。 今は、独りで眠りたい。  この十年あまり、深く眠れたことは一度もない。  しかし今なら、心地よい眠りにつけそうな気がした。  視界が、だんだんと霞んでいく。  瞼の中で光が乱射する。  風が、頬を撫でた。  息子の肌より優しい、何か。 「光子」  誰かが、名を呼ぶ。 「ヒカル・・・。ヒカルコ」  ただ一人しか、呼ばない名前。  彼が与えてくれた、私の命の呼び名。  あの人の、声がする。 「私のヒカル・・・」  確かな声。 来てくれた。  ふいに、指先が浮く。  何もかもが軽く頼りなくなった身体に、覚えのある力が包み込む。 「迎えに来るのが遅すぎて、くたびれたわ」  私の、大事な、あなた。 「あなたのいない世の中は、やっぱり退屈だったわよ?」  色も、音も、味もない、無意味な世界。  ようやく、抜け出せる。   「ひかる」  抱き上げられたとたん、少女の姿に戻って両腕を首に回した。 「お養父さま・・・」  羽が生えたように身が軽い。  心もまた、暖かく、火が灯る。 「あいしてる」  あなただけを、いつまでも。 「光子?こうこ!!」  獣の遠吠えが聞こえた気がした。  必死な、呼び声。  だけど。 「ひかる」  優しい唇が降りてきて。  強く、強く抱きしめられて、抱きしめて。  愛しさだけでいっぱいになった。 「あなた」  わたしは、しあわせよ。  きざはしを、のぼる。
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