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七 「二人の河」~幼き頃・智也編~3
智也が転んだあとのシーンが続いた。
智也を嘲る中傷がマウンドから投げられた。
「ホームベースを踏んで転げるなんて鈍いなあ。早よせえよ。日が暮れるやろが。次のバッターは誰や」
鶴田は憎々しげに笑い、ボールを上空に投げては受けて、靴でピッチャーマウンドを蹴る。主導権は俺にあるというようなふてぶてしい態度を露わにした。
そのあとはほとんど野球の試合にならなかった。
鶴田はファーストやサードを守る者に投げれば余裕でアウトにできるものを、守備の者にボールを投げようとはせず、必ずランナーにボールを投げつけた。とにかくボールをぶつけてアウトカウントを稼ごうとした。いや、むしろ試合なんかどうでもよく、人にボールをぶつけて楽しんでいた。
事件はその時に起こった。
二年生の萩野義典がバッターボックスに立った。
鶴田がボールをソフトボールのように下手でゆるく投げ、義典にわざと打たせた。
常識的な見方をすれば、下級生と一緒に遊ぶ時には敵味方関係なく手加減をする。という暗黙のルールがあった。
微笑ましい光景であるはずなのに、鶴田の行為は違った。
体が小さい義典の力では、打球が内野を越えることなどありえない。
鶴田が目の前に転がったボールを一塁ベース方向へわざと弾いた。義典がチャンスだと喜び勇んで一塁ベースを回ると、鶴田が全速力で義典を追いかけ、体にタッチをすると思いきや義典を追い抜き、三塁ベース上で立ちふさがった。義典は万事休すと三塁ベースの前で立ち止まった。鶴田は不敵な笑みを浮かべ、助走をつけておもいっきり義典の顔面にボールをぶつけた。誰よりも小さな義典が崩れ落ちるように倒れて泣き叫んだ。あまりの悪たれぶりに鶴田のチームメートも気が引いた。義典が顔を押さえて泣いている。
「鶴田。お前、小さな子に何てことするんや」
智也が起きあがり三塁ベース上へ駆けだした。
「これは野球のルールや」
鶴田は悪びれもせずに言い返した。
「何をっ。いくらルールでも限度があるやろ。やって良いことと悪いことがあるやろ」
智也と鶴田が取っ組み合いになった。
「智也~。思い知らせたれえ」
同級生の山田が戦う智也の応援をして叫んだ。
智也が鶴田の足を引っ掛けると、鶴田がバランスを崩して跪いた。
「いい加減にしろ」
智也は鶴田の背中にパンチを出した。
智也はこれでも多少手加減をしていたつもりである。
一瞬、智也は背中ならと本気で殴りつけた。そのパンチは、鶴田が反撃を試みようと立ち上がりかけた時、運悪く顔面にカウンターパンチとなった。
鶴田は苺をすり潰したような鼻血を出して泣いた。鶴田のTシャツに鼻血が落ち、胸元が見る見るうちに真っ赤に染まった。
「覚えとけよ」
鶴田は捨て台詞を残し、泣き叫びながら帰って行った。
智也は義典を抱き起こし、服とズボンの泥を手で払って綺麗にした。
「義典、もう泣くな。仕返しをしてやったから。あいつもこれで懲りたやろ。これから弱い者いじめもせんようになるから」
智也が義典を慰める。
「そうや。そうや」
みんなが口々に同意した。
智也が義典の頭をなでた。義典は泥と涙で汚れた顔を袖で拭いた。
その晩、里見が智也の耳を引っ張って鶴田の家へ謝りに行く。
里見の表情はいつになく厳しかった。手にも怒りの力が込められていた。
「痛い。お母ちゃん、この手をはなして」
「智也。お前、人様に怪我をさせて。一体何を考えているの」
「あいつが悪いんや。自分より弱い下級生ばかりいじめて。卑怯なのはあいつや」
「そんなことは関係ない」
「俺は悪くない。悪いのはあいつや。山田に聞けばわかる」
「理由は関係ない。人様に怪我をさせたお前が悪い。けじめを守りなさい」
里見には智也のけんかの原因など通用しなかった。
昔からそうだ。何か揉め事があると、智也の言い分など関係なしに、とにかく智也は謝らなければならなかった。智也はその扱いを充分知っていたから、今日まではなるべくけんかをさけてきた。
しかし、今日という今日は我慢ができなかった。
結局、「鶴田が日頃から弱い者いじめをした」と里見に伝えても、いつも通りに智也の方が謝った。智也は苦渋を舐めるしかなかった。
智也の人生は我慢の連続となった。
妹二人に弟一人。智也は長男として、いつも我慢のお鉢が回ってきた。兄弟げんかをすれば、「長男なのにどうして弟や妹を可愛がれないの」と里見に叱りつけられた。家出をしたいと思ったこともある。智也は弟と妹のために自分の人生があるんじゃないかと僻んだこともあった。
千恵が子供時代の智也を弁護した。
「正義感が強かったのね」
「えっ、ああ、ありがとう」
三十五年もの歳月が過ぎ、やっと自分のことが理解され、智也は初めて救われたような気がした。
今、一番の理解者が、今日の記念日を終えた時、この映画が終了した時、自分のもとから去って行く千恵だとは、智也にとっては最も皮肉な結末になろうとしていた。
最初からわかっていたことなのに、どこかで歯車の噛み合わせを間違えてしまった。一体どこでどう間違いを犯したのか、はっきりとは理解できない。でも、この映画を最後まで見届ければ、自分にとって納得できる何かがあるような気がしてきた。今更ながら気づくのが遅くとも、固い決心をさせた千恵の真意を、きっと知ることができる。原因がわかれば、やり直しができなくても、これから一人で生きていく糧にはなるはずだ。と智也は自分に言い聞かせた。
千恵は智也ほど深刻に考えていないようだ。既に踏ん切りがついているのか、全身全霊の気を映画に集中させて楽しんでいる。ぽつりと冷静に感想を述べる千恵の言葉がそう物語っていた。
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