49人が本棚に入れています
本棚に追加
七 「二人の河」~幼き頃・智也編~5
想い出の流れは野球部の夏季大会に辿り着いた。
運命の出来事まではまだ早かった。智也は今でも夢に見ることがあり、悔しい想い出となった最後の試合である。
状況は最終回裏の攻撃で一点差だ。智也がツーアウトから二塁打を打ち、次のバッターは四番の山田で一打同点のチャンス。智也は二塁ベース上でアキレス腱を伸ばしリードを取った。打順は山田のあと、吉井、笹本と続く。逆転のチャンスもまだまだ続く。無理をする必要はない。カウントはツースリー。山田が綺麗にセンター前ヒットを打った。三塁側のランナーコーチがぐるぐると腕を振り回す。指示を確認した智也がベースを強く踏みつけホームベースへと力走した。塁間の真ん中辺りで右足のふくらはぎに違和感を覚えた。まずい。智也の体に緊張が走った。
試合のあとでチームメイトから聞いた話では、既にその時点で足が縺れていたらしい。
智也は誰かに右足をつかまれたように足を前に出せず倒れてしまった。次の瞬間、智也が耳にしたのはホームベースを踏む同点の足音ではなく、ボールがキャッチャーミットを突き刺す音だ。智也は倒れたまま顔だけを上げた。近寄るキャッチャーが智也の背番号にタッチをする。審判がゲームセットを告げた。
最後の円陣を組んだ時、「みんな、ごめん」と智也がチームメイトに謝った。直ぐさま宮本史也監督が立ち上がり、智也の頬にびんたを張った。
「お前は自分だけで試合をしていると思っているのか。智也、うぬぼれるなよ。野球はな、試合に出れる者も、出られなかった者も、三年間苦しい練習に耐えた全部員で戦っているんだ。お前らはよくがんばったじゃないか。そうだろ智也」
監督が泣いていた。山田、吉井、笹本も含め、野球部の全員が泣いていた。そして智也も泣いた。
智也は高校の三年間、野球部のマネージャーを務めた。どんな形でも野球とは縁を切ることができなかった。
智也は最後の卒部紅白戦で代打に起用され、心おきなくフルスイングをした。智也の打球は華々しくレフトの柵を越えた。
ある晩、父親の恭司が重苦しい面持ちで智也に頭を下げた。
「智也、大学は諦めてくれ。父ちゃんの稼ぎでは、とてもお前を進学させてやる余裕がないんだ」
「学歴があると就職に有利だから、どうしても大学だけは出たいんだけど」
「お前の望みもわかるが、智也、無理を言わないでくれ」
恭司が初めて智也に頭を下げ、弱みを見せた。
智也には、恥を忍んで頭を下げた父親が大きく見えた。それでも智也は諦めがつかず、必死で頼み込んだ。
「奨学金制度やアルバイトをして、授業料や生活費は自分で稼ぐから。親には負担をかけさせないから。自分でがんばってみせるから。だから大学には行かせてくれよ。頼むよお父ちゃん」
智也が土下座をして頼み込み、自分なりの覚悟を伝えた。
「入学金と最初の生活費はどうにかする。それ以外のことは自分で生活をするというのなら」と恭司は条件をつけて納得した。
智也の大学生活は慌ただしかった。
毎日、勉強とアルバイトに明け暮れ、土曜日、日曜日などはなかった。親のすねを囓って自由な時間を過ごす。そんな優雅な生活など空想と夢の世界である。女性とのコンパで飲みに行く友人の誘いも断り、なんとか学生生活を保つため、時間に追われた日々を過ごした。
一ヶ月、半年、一年、二年と過ごす年月を、生活の不安や貧しさに我慢をしながら乗り越えた。
頼る人もなく、相談する相手もなく、支えてくれる人もなく、自分の意志で、自分一人の力で、生活を続けた。アルバイトの内容を選ぶような贅沢など許されなかった。まずは生活のために稼ぐことだけを考えた。一人の自立した大人として生きてゆくしかなかった。ただ必死で生きた。振り返る智也の感想はそれだけである。
智也が今の食品会社に就職し、アルバイトと学業の両立から解き放たれた時、やっと生活にも余裕ができた。
砂嵐がスクリーンに現れた。
画面が切り替わる時、同じ砂嵐のシーンが流れるけど、今回は少し長い間砂嵐が続いた。
智也と千恵が目を合わせた。
二人はもう終了したのかと、疑問を抱いた。なんとなく中途半端な終り方だと感想を持った。
千恵は残念そうな、困ったような表情を智也に向けた。
智也は館内を見回して、館長を捜した。
ふと館長の説明を思い出した。館長から話を聞くためにボタンを探した。智也が席を立ち上がると、スクリーンに色彩のある光が照らし出された。智也は再び腰を下ろした。
千恵は智也からスクリーンへと視線を移した。
二人は不思議な感覚を味わった。
スクリーンを眺めていると、映画の中へ溶け込んでいくような、魂だけがスクリーンに吸い込まれて行くような気がした。
きれいな映像がスクリーンに流れた。
最初のコメントを投稿しよう!