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八 「二人の河」~出会い~1
千恵と幸恵が落ち葉に敷き詰められたキャンパスを伸びやかな気分で歩いていた。
いつもなら大学の授業を終えれば、千恵は直行で家へ帰り、スーパーの手伝いをしなければならない。けれど、今日は最終の講義が休講となり、時間に余裕ができた。
両親に行動を束縛されない自由なひとときである。
幸恵との会話を考えれば、九十分間という限られた時間は、いつも足りないと感じてしまう。
幸恵と過ごす時間のやり繰りは、今日だけではない。
四回生になって、幸恵との時間をできるだけ作れるようにと、千恵は努力と工夫を凝らした。
卒業ができる単位修得に見通しをつけて、千恵は余裕を持って、講義を選んだ。
曜日によっては、一限目と三限目を履修し、わざと二限目を履修せず、空いた時間を作るようにした。また、お昼の前後を空けて、幸恵とゆっくり楽しめるように計画をした。
限りある大学生活だから、最後の一年間をできるだけ楽しむことにした。両親に対するカモフラージュである。罪悪感はなかった。箱入り娘なんて生易しい言葉では表現できない。それよりもっと強固で息苦しい真空パック状態から脱却するためには、今しかできないことだ。こうでもしないと、誰にもじゃまをされない、自分だけの自由な時間を作ることなど、一生できないと千恵は考えた。
しかし、今日だけは自由な時間を楽しむのではなく、はっきりとした目的があった。
千恵は自分の進路に思い悩んでいた。
幸恵は早々と就職先が決まっていた。昨年からアルバイトをしているリサーチ会社で、正社員の内定を取りつけていたのだ。
親の干渉もなく、自分の意志で人生を決めることができる幸恵を、千恵は羨ましく思った。
千恵にも夢があった。
今日はその思いを聞いてもらいたくて幸恵を誘った。
「幸恵、今日は時間ある」
「余裕はあるわよ。私はいくらでも自由な時間があるから。いわゆる『自由の女神』とでも言うのでしょうか」
「何を言ってんのよ」
「まあまあ、じゃあ喫茶店にでも行って、ゆっくり話でもしましょうか。それでいいでしょ」
幸恵は冗談交じりに返事をして千恵の誘いにつき合った。
二人は校外へ出て、駅近くの喫茶店に入った。
湯気がコーヒーカップから背競べをして立ち上り、二人の間を横断している。自分の方から幸恵を誘ったにもかかわらず、千恵は一向に重い口を開かなかった。
背伸びをする温かい湯気が、場の雰囲気に冷めて、千恵の視線よりも低くお辞儀をした。
幸恵がケーキを食べ終え、何気なく話題をふった。
「千恵はもう就職先が決まったの」
「実は私、ツアー・コンダクターになりたくて。英会話を活かしていろんな所へ行ってみたいし、いろんな人とも出会いたい」
「いい夢じゃない。それ、がんばれば」
「それが……。まだ両親には何も話してないのよ。きっと反対されるわ。そのことを考えると、毎日気が重くなって」
「千恵の家って、今時珍しく箱入りだもんねえ」
「どっちかと言えば真空パック」
「そっちの方が近いわね。呼吸困難になりそう。クリスマスには酸素ボンベをプレゼントするから。あっはっはっ」
幸恵が冗談を言ったあとで豪快に笑う。
「そんなに笑わないでよ」
「ごめん。ごめん。でも、事情を知らない他人が千恵を見れば、いい身の上だな。なんて無責任に思う人がいるかもしれないわね」
「たぶんそんな風に思っている人が多いと思う」
「でも実際の話は、千恵をそばで見ていると、あの環境じゃあ、大変だなあと思うわ。ほんと同情する」
「ご理解いただいてありがとうございます」
「他の人に相談なんかすれば、『気楽でいいじゃない。親のスーパーを手伝っていればいいんだから』とかなんとか、人の気持ちもわからずに、お気軽に言うだろうし」
「きっとそう言われると思う」
「でも、それって、半分は千恵にも責任があると思うよ」
「私にもって、どうして」
「だってもう二十歳を過ぎた大人なんだから、自分のしたいことくらいはちゃんと人に言えるようにならないと、自分に対して無責任だと思うよ」
「無責任って」
「だって自分の人生なんだから、自分で決めるのは一つの義務と責任だと思うけど。まあ千恵の気持ちもわからないわけじゃないけどね」
「私の気持ちって」
「だって千恵のお父さんも、お母さんも、二人とも怖いもの」
「やっぱりそうよね」
「うん。けっこうきついよね。だって、去年一度だけ千恵の家へ遊びに行ったけど、もう勘弁してって感じ」
「何か言われたの」
「何か言われたわけじゃないけど」
「じゃあどんなとこが」
「じろっと見られて、値踏みをされてるような感じが嫌なのよ。人がどう思おうと気にしない自由奔放なあたしでも、あの雰囲気は息が詰まるわ」
「値踏み」
「そう。値踏み。たとえて言うなら、どうしてこの家に二流品があるの。という感じで見下されている感じが、ひしひしと伝わってくるのよ。他のたとえ方をすれば、銀座へ買い物に来たのに、どうして安物のお店があるのよ。っていうような感じ。とにかく冷めた視線が痛いのよ」
「そんな感じなの」
「ごめんね、変なこと言って」
「うううん」
「千恵は好きなんだけどねえ、私、千恵の両親は好きになれないわ。悪いけど」
幸恵が紅茶を口に運んだ。一息を入れて、また喋りだした。
千恵は冷めたコーヒーを置き去りにした。
「でも千恵は好きな人ができれば、どうするつもりなの。どうせあの両親なら、千恵が選んだ人を素直に認めてくれるとは思わないけど。それとも戦時中みたいに、親の選んだ人とお見合いをして結婚するわけ」
「それは嫌だわ」
「えっ」
「いえ」
「何。何、その強すぎる発言は」
「何にも」
「千恵、本当は好きな人がちゃんといるんだ」
「うっ、うん」
「やっぱり。それで、その人はどんな人。教えてよ」
「スーパーに来る人」
「えええっ。もしかしてお客さん」
「違うわよ。スーパーへ納品に来る食品会社の人」
「いつから」
「二年くらい前から」
「二年もこっそりつき合っていたの」
「こっそりではないけど」
「ごめんなさい。言い方が悪かったわ」
「いいのよ。気にしないで」
「ありがと。それで、両親はその人との関係を知ってるの」
「まさかあ」
「だったらよけいに、そろそろ自分の意志で親の殻を破らないと、千恵が後悔することになると思うよ」
「どうして」
「たぶんだけど、千恵の両親はその人を出入り業者程度にしか思ってないわよ。自分より下の立場の人間として見てるって言う意味だけど。そんな人が千恵の恋人だなんて、もってのほかなんじゃない」
幸恵の言葉がいつまでも千恵の脳裏から離れなかった。
その晩、千恵は自分の夢について、勇気を出して話すことにした。
千恵は一時間もかけて必死で春を説得しようと試みたが、けんもほろろに反対された。
千恵の夢は破れ、家のスーパーを手伝うことになった。
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