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八 「二人の河」~出会い~4
智也が流暢な喋りで餃子の販売を始めた。
「お母さん、ちょっと寄って、試食をしてください。今日のおかずにはこの餃子! お母さん方が忙しい日にこそ、この商品がお役に立てます。今日のおかずによし。明日のおかずによし。時間がない時の一品によし。買って帰って冷凍庫! 急いで帰って、はい解凍! これで家族の夕食、一家団欒になります! あなたの食卓に色を添える一品になります。さあっ。前置きはいいから早く味が知りたい! そうですよね、お母さん。はい。では始めましょう。まずは六個の餃子をフライパンの中に一列に並べて入れます。そこで現れたのが、この魔法のヤカン。魔法のヤカンと言ってもエジプトで買ったわけじゃない。こすってアラジンのランプみたいに魔神が出て来るわけでもない。ヤカンの中に入っているのは、ただの水。お母さんの家で蛇口をひねるだけです。じゃあ、一体何が魔法なのか。そこが知りたいですよね。では、これからフライパンを見てくださいね。並べた餃子の周りに水を注ぎます。とくとく、とくとく、水を注ぎます。餃子が四分の一ほど水に浸かったところで蓋をしてください。あとは注いだ水が蒸発するまで蓋取るな。この水が餃子の中の食材を満遍なく調和させます。皮はパリパリ、中はジューシィー、お口にすれば幸せが! はい、みなさんどうぞ味見をしてください。ねっ、おいしいでしょう。あっ、奥さん、ありがとうございます!」
熱の入った販売を見て、千恵が智也に拍手を送った。
智也は少し照れて、こくっと頭だけを下げて礼にかえた。
千恵がスーパーの店員だと、勘違いをした智也の足取りは軽く、意気揚々とした日々を送った。
毎日、千恵と簡単なあいさつを交すだけでも、智也にとっては楽しみとなり、仕事にやり甲斐を感じ、幸せさえも感じた。時には二人で冗談も言い合えるようになった。
ただ、スーパーへ行くと、千恵の受け持ちが頻繁に変わっていることに、智也は若干の不思議さを感じた。
気遣いがあり、優しい女性だが、案外仕事覚えが悪いのではと、千恵の仕事ぶりを低く評価した。
千恵がこのスーパーを経営している一人娘だと、智也が知ったのはある日の会話からである。
智也が新商品のクリームコロッケ販売のために試食品コーナーを準備していた。
千恵が商品を並べている智也の後ろにまわり、そっと気づかれないように立って、ひそひそ話でもするように智也の耳元で囁いた。
「ここの社長さんって、とっても気難しい人でしょ」
智也がびくっとして振り向けば、千恵の唇が肩にまで近づいていたので触れそうになり、さらにどきっとした。
「どうしてそんなに驚いているの」
千恵が無邪気に笑っているから油断をして、智也は本音を打ち明けた。
「いやあ、気難しいって言う感じじゃないね。あ、れ、は」
「どんな感じなの。そ、れ、は」
千恵の目からは興味津々の笑みが漏れた。
「ちょっと強引かなあ。言葉の端々がきつくて、こっちはヘビに睨まれたカエルの心境だよ」
「ヘビって」
千恵が素っ頓狂な声を出し、店内に響く声で笑い出した。
智也は辺りを見回し、千恵の口を押さえるような仕草で両手を重ねた。
千恵はお腹を押さえ、屈み込んで笑い続けた。
智也は冗談がうけたと勘違いをした。
「おもしろい」と千恵は笑いながら涙を流した。
智也は悪乗りをして続けざまに本音を口にした。
「もっと怖いのは、社長の奥さんだよ。いつも目が怒っている感じだから、つい弱気になってしまうんだ」
「ふうん、そうなんだ」
「会社に帰ったあとで、『どうしてあのスーパーだけ交渉に弱いんだよ』とか言われて上司に叱られるし。それはもう大変だよ」
智也が満足げな表情で言い終えると、千恵が笑いながら慰めてくれた。
「父と母を許してあげてね」
「えっ、誰が」
千恵が軽い歩調でレジへ向かった。
千恵があまりにも楽しそうに笑っているので、智也はつい会話がうけていると勘違いをして調子に乗りすぎた。
あんなことまで言って、最悪の場合、お店の出入りを禁止されるかもしれない。せっかく今日までがんばってきたのに。
智也はうなだれて足下を見つめた。
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