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八 「二人の河」~出会い~5
しばらくの間、智也は千恵と会釈だけのあいさつを交した。
智也は軽率な発言をしたと、恥ずかしくて千恵と正面から向き合えなかった。千恵の表情もなんとなく曇っているように思えた。やはり怒っているのかもしれない。智也の心も曇ってきた。
他の店員には気づかれていないが、二人の間には気まずい雰囲気が流れた。
ある日、いつまでも気まずさを持ち続ける智也に、千恵がすたすたと軽快な足取りで近づき、小さなメモを手渡した。
「正直に父と母の評価を話してくれたことは、私には新鮮でした。嫌な思いはありません。逆に、うれしさを感じました。あなたとのお話は楽しいです。本当です。今度の土曜日、お昼前に会って、お食事でもしませんか。よければ、今すぐ両手で大きな輪っかを作ってください」
智也はラジオ体操の真似をして大きく輪っかを作り、レジ方向へ振り向くと、千恵が口元を押さえて笑った。
智也は千恵と待ち合わせた駅のホームに着き階段を降りていった。
千恵は改札口のところで待っていた。
眩しい肌に同化した白いワンピースがよく似合っている。下着がうっすらと透けて見え、どきっとして目のやり場に困ったが、智也は周りを気にせず、駅中に響き渡る大きな声で千恵を褒めた。
「いい! 最高にいい!」
千恵は二歩ほど後ずさり頬を赤く染めた。
千恵は、驚きのあまりどきどきしているのか、智也と出逢ってどきどきしているのか、理由はわからないが、とにかく胸を叩かれている鼓動の激しさを感じた。
智也が少しだけ腰を折り、顔を近づけて千恵に訊ねた。
「何が食べたいの」
「智也さんがいつも行くお店で食事をしたい」
千恵が素直に答えた。
「辺鄙な定食屋になるけど」
智也が返事に戸惑いを見せた。昨日、一晩中考えたデートコースが、最初からもろくも崩れ去った。
千恵はもう一度智也にリクエストした。
「今日はいつもの智也さんを見たい」
智也は初めてのデートで連れて行くにはためらいを持ったが、千恵の可愛い笑顔を見て、望んでいることを素直に受け入れた。
まず最初に足を運んだのが、駅近くの定食屋である。
暖簾を潜る智也の背中につれられて千恵が入って行く。
智也はすかさず空いたテーブルに席を取り、千恵が横に座った。
「ご飯は、大、中、小があって、みそ汁は、普通のみそ汁、貝汁、豚汁があるから、それぞれ最初に注文をするんだ。千恵ちゃんはどれにする」
智也が常連客としてお店のシステムを誇らしげに説明した。
「ご飯は小で、それとおみそ汁を」
千恵が選択をすれば、智也は慣れた注文をする。
「お母さん、小にみそ汁一つと、俺は大と豚汁」
店員の姿が見えないカウンターに向かって声を送った。
「はいよう」とカウンターの中から返事が届けられた。
智也が席を立って、一品料理が並べられている棚から、一つ、二つ、おかずを選んだ。
千恵も一品と小皿一つ分のおかずを手にした。
千恵が席に着くと、智也が重ねられた湯飲みを二つ手に取り、千恵の前に置いた。
智也が再び席を離れ、誰に断りを入れるでもなく、隣のテーブルから真鍮のヤカンを握りしめて戻って来る。
六十過ぎのおばさんがくすんだ白いエプロン姿で店の奥から二人のご飯と汁物を運んで来た。
「おやっ。今日はデートかい。珍しいねえ」
おばさんが智也をひやかしながら笑う。
「えっ、あっ、いやっ」
智也は顔を赤くして言い倦ねた。
おばさんは智也の返事も待たずに店の奥へ戻って行った。
千恵は奥に向かって、「はい」とだけ快く答えた。
智也と千恵が真っ直ぐに視線を合わせて微笑んだ。
千恵が肉じゃがに箸を伸ばした時、「肉じゃがとは、千恵ちゃんは通だねえ」と智也が感嘆した。
千恵は、「えへっ」と微かな声を漏らし照れた。
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