八 「二人の河」~流れの景色~16

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八 「二人の河」~流れの景色~16

 千恵は(いきどお)りを感じていた。  子供のことや両親のこと。智也にはやむにやまれぬ事情があった。それも理不尽な条件を突きつけたのは、紛れもなく目の前に、スクリーンの中にいた、自分の父と母だ。こんなことを知らされた私は、一体どのようにして、どんな風に言って、智也を責めればいいのだろうか。怒るに怒れない。そんな自分に千恵は怒っていた。  私たちは見えないところで、お互いを思いやり、陰から支え合おうとした。そのすれ違いが、思い違いが、間違った心遣いが、お互いの心の想いを少しずつ()がし、暗くて深い溝をつくった。勇気を持って、自分の想いのすべてを智也に伝えていれば……。  智也にだけ原因があるわけじゃなかった。智也だけが悪いんじゃない。心を静めて智也の声に耳を傾けていれば、ちゃんとそばで見てあげていれば、自分の寂しさばかりを埋めようとせず、智也をはげましていれば、智也が伝えようとした思いに気付いてあげられたかもしれない。今まで見えなかった智也の心が伝わっていたのかもしれない。出逢った頃の二人がそうであったように。  千恵の眼前に現れた想い出が鮮明であればあるほど、智也の隠していた想いが千恵に伝わってきた。その反面、自分にも原因があると、頭では理解ができても、伝えてくれなかったことに対して、まだ不満と(いきどお)りを感じた。千恵の心の中に、怒りと愛情といった相反する想いが交差した。千恵の心が揺れている。千恵は、智也と両親との確執を見定めて、今、初めて智也から愛情ある告白を受けた気がした。    智也が先に席を立ち、座ったままの千恵と向き合った。 「知らなかったとはいえ、弟のことでは申し訳なかった。あの時、俺がちゃんと話を聞いていれば、あんな迷惑をかけることはなかった。嫌な思いをさせた。すまない」  智也が千恵に深々と頭を下げた。  千恵は智也の行為に目を見張り、戸惑いを隠せなかった。  千恵はありったけの想いを、すべて打ち明けずにはいられない衝動に駆られた。  千恵がゆっくりと席を立ち、毅然とした面持ちで智也と真っ正面から向かい合った。 「あなたはいつだって自分勝手なのね」 「急にどうしたんだ」  千恵の真っ直ぐな視線が智也の目を貫いて外さない。  おそらく千恵は浮気したことを責めているのだろう。それはどんな言い訳をしても、自分を正当化する理由など何一つない。どんなに(ののし)られようが謝るしかないと智也は覚悟を決めた。 「いろいろすまなかった。今は謝る言葉しか思いつかない」 「そうじゃないわ。謝る前に、私が何を考え、何を思い、何をしたいのか、ちゃんと向き合って聞いて欲しかったのよ。あなたはいつも大切なことを心に仕舞って、どうして大事なことを私に伝えてくれなかったのよ。私たちは夫婦なのよ。たった一組の夫婦なのよ。父の身勝手な条件を勝手に自分一人で受けて、あれじゃあ父の思う壺じゃない。どうして父の家庭観しか見ないのよ。あなたは父に振り回され、(あやつ)られた人生を黙って歩んだのよ。親は子供より早く死んでしまうものなのよ。そのあとの人生は、本当に私たち二人だけで作り上げていくものなのよ。あなたは誰と家庭を作り上げようとしたのよ。あなたは誰と過ごしていたのよ。目の前にいる私を見ずに、誰を見ていたのよ。あなたは誰と……生きていたのよ。地位なんかなくったって、静かな幸せがあればいいじゃない。人の家庭観は、誰が決めるものなの。私たち自身の問題なのよ。子供のことだってそうじゃない。子供のいない夫婦なんて、世間ではいくらでもいるじゃない。どうしても子供が欲しければ、養子だって、里親制度だってあるじゃない。ねえ違う」  今まで感情を表に出さなかった千恵が、一気に自分の思いを吐き出した。意志のしっかりとした声が智也にまっすぐ送り届けられた。  智也は心の震えを感じ、目頭が熱くなり、何も言葉にできないでいた。  千恵の人生観が智也の心に深々と染み込んできた。
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