千冬さんちの母の味

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千冬さんちの母の味

 思春期とは、親にも子にも大変な時期であると、つくづく思う。 「千冬ちゃん、お帰り。今日はトンカツ揚げたんだけど――」 「部屋で食べる」  あ。  娘は目を合わせることもなく脇を通り過ぎて、自室に入ってしまった。  バタンと閉められたドアを千尋はしばらく見ていたが、やがてキッチンに立つと千冬用のご飯をお盆に乗せる。 「ああああ……、トンカツでも駄目かあ……」  腹の底からため息がもれる。  千冬ちゃんの好物なのになあ。ちょっとは機嫌よく、一緒にご飯を食べてくれるんじゃないかと期待したのに。 「もう、せっかく揚げたのに、私、頑張ったのにい、もおおおおお……」  高校生になった千冬は、この頃一人で食事をするようになった。娘の変化に気づいたとき、  ――こ、これが思春期……!  と千尋は雷に打たれたものだった。  思春期なら、ある程度は仕方ない。大人になるために必要な時間だ。だが、それにしても……、寂しいものは寂しい。加えて、この頃は夫も仕事が忙しいようで帰りが遅い。食卓には、いつも自分一人。  寂しいから、机の上をいっぱい広々と使って食事をするなんて抵抗もしてみた。余計寂しいだけだったから、やめた。  昔はみんなでご飯を食べたのになあ。  と、そのとき千冬がキッチンに顔を見せた。 「あ、千冬ちゃん、もうご飯の準備できて……いだっ!」  お盆を持って千冬に歩み寄ろうとしたとき、机の角が腹にめりこんだ。思わず「うう……」とうなるが、娘は「なにしてんの」と目で訴えるのみである。心配しろとは言わないが、せめて声をかけてくれないと恥ずかしい。 「お、おかわりあるから、食べたかったら言ってね」  なんとか気を取り直して言っても、千冬は無言でお盆をもって背を向けただけ。 「――ひとことくらい、喋ってくれたっていいのに。喋ったら死んじゃう呪いにでもかかってるのかしら」  ふうっと息を吐いて、傍らに置いてあったA4のノートを手繰り寄せる。忘れっぽい千尋が料理のレシピを書き溜めた、自作の料理帳だ。これを書き始めたときは、まだ夫も千冬も、みんな笑顔で食卓に座っていた。懐かしい。 「……ううん、負けるな、私!」  きっとそのうち、この食卓にも笑顔が戻ってくる。  だから明日も、美味しいものを作って、家族が帰ってくるのを待っていよう。 「よし!」    ――けれど、千尋は翌日の夕飯をつくる前に、死んだ。
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