オレンジの花束

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「おめでとうございます。あなたは、今回の人生やり直しチャンス!の対象に選ばれました。」 咲の目の前に、黒いパンツスーツを着て、額から右頬にかけてタトゥーを入れた、派手なオレンジピンクの髪の毛をした女性が現れた。 「もう、何回おんなじこと言った?」 「ああ、ごめん」  結婚してから7年。夕飯のあと、幾度となく繰り返されてきた言い争い。何度同じことを注意しても治らない夫の直人は、聞き流すようにとりあえずの謝罪の言葉を吐く。この人には、自分の言葉は響かないのかと咲は思う。 「また。とりあえず今謝っとけばいい、って思ってるよね。直す気ないじゃん。」 「そんなことないよ」 「なんでもそう。鍋に洗剤が洗い残ってるのも、靴下の脱ぎ方も、食器ふきんのかけ方も・・・私が注意したこと、全然直ってないじゃん。」 「そんな怒ること?・・・そんな文句いうなら、自分でやれよ」  カチンときた直人が言い返す。文句いうなら、自分で。これもいつもの常套句だ。直人は、全く家事育児をやらない人間ではない。むしろ声をかければ動いてくれるほうだと思う。ただ、咲からみると、詰めが甘い、のだ。 「・・・もおいい、直人にはもう頼まない。自分でやる。」 「・・・」  直人は、黙って家を出ていく。また、これだ。都合が悪くなると、直人は家を出て車で一人になってやり過ごす。咲は、台所でぶつけ先のない怒りにイライラしながら残りの家事を片付ける。なんども同じことの繰り返し。自分は、一人になれていいよね。私は、どんなに怒ったときだって二人の子どもの面倒を見て・・・。そして、咲のもやもやは晴れないなか、次の朝には、直人は何事もなかったかのように話しかけてくる。  時計をみると、もう8時を過ぎている。子どもたちを風呂にいれて、寝かしつけないと。 「お風呂入るよ~。」  深呼吸してイライラする気持ちを抑え、いつものように子どもたちに声をかけ、風呂に入る。あわただしく髪をあらい、体を洗い・・・。この数年、一人でゆっくり風呂に入ったのは何回あるだろうか。たまにはトリートメントもしたいのに・・・と心のなかで溜息をつく。  風呂から出ても、直人はまだ戻ってきていない。・・・あの人と結婚してなかったら、もっと違う人生だったのかな、と今度はリアルに溜息をついた。    オレンジピンクの髪の女性が現れたのは、子どもたちを寝かしつけ、心を落ち着かせようとリビングでホットミルクを片手にクッキーを一枚、口に入れているときだった。  一瞬、死神が現れたのかと思った。 「今まであなたが生きてきた人生のなかで、あるタイミングに戻ることができます。戻ったあとは、これまでの記憶はすっぱり綺麗に忘れることになります。記憶を持ったまま戻ることはできません。その時点から、キレイに人生をやり直すことになります。どのタイミングに戻りますか?」 いきなりそんなことを言われて、ああ、夢なのだと思った。 「夢だと思ってくださってもよいですけど・・・これからいう話をよく聞いて、決めてください。」 どういうこと・・・?咲は残りのクッキーを口のなかに入れた。 「私たちの組織では、年に一度、人生のやり直しをする機会をプレゼントしているのです。ああ、ご心配には及びません。見返りは、その時点以降の記憶をすっぽりいただくだけです。」 咲が理解できずに黙っていると、彼女は続ける。 「今回、ちょうど対象者を選定しようというタイミングで、あなたの感情が私たちに訴えてきたわけです。もっと違う人生だったのかな、と。運がいいですね。」 彼女は指をくるくると回しながら、にっこりと微笑む。 「さあ、どこがいいですか?ああ、一つだけ条件があって、ご自身の記憶があるところにしか戻ることはできません。なので、産まれてすぐの記憶があるのであれば可能ですが、産まれた時というのは無理です。ほとんどの人はないので・・・、いままで取り扱った方のなかでも、一番若くても園児、小学生くらいまでですね。」 そういって、彼女は一歩、咲に近づいてくる。 「例えば、受験で失敗した経験がおありでしたら、それを回避できるよう・・・といっても、結果はご自身の実力にはなるのですが、受験前ですとか。この選択をしなければ・・・、もしこうしていたら・・・といった点があれば、その選択をする直前に戻ることは可能です。・・・ただし、記憶はないので、また同じ選択をする可能性はあります。」 それを聞いて、咲は口をはさんだ。 「それじゃあ、意味がないじゃない。」 「ちょっとした、気づくきっかけだけ、差し上げます。決断する前に、ふと我に返るような・・・。流れ星が見えたり、大きな音がしたりとか。」 「それで、気付く?」 「気づかなければ、それまでのことです。」 また、彼女はにっこりと微笑む。 「意思確認ののち、入眠していただくと、朝、起きたら戻っているという段取りになります。少しの間、よく考えてみてください。」 そう言い残して、彼女は去った。 どこがいいだろう。 受験?入社?転職?結婚・・・?  受験・・・は、高校も、大学も、志望校に受かっているし、学生生活はとても楽しかった。そうか、あの楽しかったころをもう一度経験できるのは、いいかもしれない。  会社だって・・・今の会社は、福利厚生も充実していて、子育てしながら働くには、わりといい環境ではないかと思っている。そりゃあ、不満が全くないというわけではないが、今の会社よりもいい環境を、とは現状思っていない。  じゃあ、結婚・・・。 直人と結婚する前に戻してもらえば、今みたいな思い、することなかったのかも。もっと手際のよい、気配りの聞く人と一緒になっていたら。  30歳を目前にして、咲は5年間付き合った彼氏に振られた。しかも、自分よりも若い子に乗り換えられた。プロポーズを待っていた咲は当然大きなショックを受けた。20代の5年間は大きい。若くて、パワーもあって、一番エネルギッシュな年齢の5年間を棒に振ったようなものだと思った。  彼氏との付き合いは、うまくいっていると思っていた。一緒にいると楽しかったし、相手もそう思ってくれていると思っていた。 だけど、違った。相手は、自分とは違う子を求めた。  ショック過ぎて、次の日は会社を休んだ。一日休んで次の日、出社したけれど、ひどい顔をして暗いオーラをまき散らしていたらしい。  そんなひどい顔をしていた咲を、直人は気遣い、仕事のフォローもしてくれ、愚痴にも付き合ってくれた。泣きはらした目をした咲に、 「俺が幸せにする。俺にしときなよ」 と言った。  咲は冷めたミルクを温めなおし、口に運ぶ。体のなかから温かさが染み渡った。 寝室のドアを開けると、彼女がいた。 「心は決まりましたか?」 咲はふうと息を吐いた。 「じゃあ、あなたと会う前・・・直人と喧嘩する前までに戻してもらえる?もっと、落ち着いて話し合えるようにやり直してみるから。」 「本当に、それでいいのですか。」 「うん。だって、どこに戻ったって、結局ここにいるのよ、多分。それに・・・」 子どもたちの寝ている姿に目を移す。 「やっぱり、この子たちと出会えたのは、あの人と出会って、結婚したからだし。」 咲は彼女の方を見て笑う。 「それに、忘れてた。あの人、私のことが大好きなんだった。」  カチャカチャと料理をしているような生活音で咲は目を覚ました。時計が8時過ぎを差している。 しまった、寝過ごした・・・と慌てて子供たちを起こそうと見渡すと、もういない。 リビングに向かうと、子どもたちと直人が、朝食の準備をしていた。 「ママ、おはよー」 「今日は、パパのお手伝いしたんだよ。」 「保育園の用意しないと・・・」 台所から、直人が顔を出す。 「今日は、土曜日だよ。会社、休みだよね。」  直人が用意してくれたフレンチトーストとコーヒーで朝食を終える。子どもたちは休日の朝のテレビタイムだ。咲はその様子をコーヒーを飲みながら見つめる。直人は食べ終えた皿を持って席をたった。 「咲・・・」 直人が小さな花束を持って戻ってきた。 「あの、昨日は、ごめん。今までも・・・いつも、咲に甘えてばっかだった。咲は子どもたちのことも、仕事も、いつも大変なのに・・・。」 咲は黙って花束を受け取る。 「俺は、車にいって一人になって、お互いに頭を冷やす時間になればとか思ってたけど・・・それをしたって、咲は一人には慣れないんだよね。子どもたちのことを見てくれてて・・・。それも、悪かったな、って思ってる。」 直人が咲の手を取る。 「もっと、自分で考えて動くようにするよ。咲に言われたことも、忘れないようにする。悪いけど、もし忘れてたら、言ってほしい・・・。」 咲は、ふっと微笑む。 「私も、もっとやさしくお願いするようにするよ。で、目をつぶるっていうか・・・あんまり細かいところまで気にしないように、なりたい。」 「咲・・・」 「けど、靴下は、丸めたままじゃなくて、ちゃんと広げて?」 咲は上目遣いに直人を見つめる。直人は苦笑いをして頷いた。 直人がくれた小さなガーベラの花束は、やさしいオレンジ色をしていた。
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