それはそれ

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 こうして、2人の関係は深まった。どのように深まったかを測る尺度がある。それが、おセックスだ。女の痛みを伴う神妙な儀式が、無邪気な戯れに変わり、部屋の明るさも気にならなくなれば、本物だ。おセックスは、相手の気性や気持に入り込む。100%は無理だが、やっぱり入り込む。朋子と純哉の間の紙一枚は情熱で燃え、燃えカスはハラリと落ちていた。 『選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我に在り』とはフランスの詩の一節だ。恍惚。恍惚は肉体的な事ばかりではない。世界が薔薇色に輝く、とは陳腐な言いようだが、実際そう言う事はある。生活や気持の輝きは、愛の噴霧器で艶めき恍惚を実感させる。そして朋子が感じていた恍惚を、箇条書していたら、何行になるか知れない。それに、欠伸の出るような語彙が続くだろう。ならば、不安の方を語ろう。恍惚が引き立つかもしれない。……、不安は3つ半あった。詩にあるような不安とは趣が異なっていた。  不安の1つ目は、オナラの事であった。朋子が純哉の部屋に行っても、純哉が朋子の部屋に来ても、どちらの部屋も狭かった。ワンルームの部屋と言うのは、薄い壁で居間とトイレが繋がっている。状況によれば排泄音が居間に轟(とどろき)渡(わた)る。多少の音は、豪勢に水を流せば掻き消せる事もあろう。しかし、オナラは情け容赦ない。純哉のトイレ音がどうなのかと言えば、水を流しながらではないので、ジャージャーとプリプリは、聞こえていた。朋子は聞きたくて耳をそばだてていた訳ではなかった。自分のトイレ音が、どう聞こえているかを、純哉のそれで探ろうとしていたのだ。しかし、オナラの音は聞こえなかった。 思い出せば、祖母のオナラも聞いた記憶がなかった。誤魔化し方が上手い人だったのかもしれない。「朋子、おばあちゃんのきれい好きには、何か陰があるズロ」朋子は母親が口にした言葉を思い出した。そして、少し不気味になった。 話を戻そう。朋子のオナラの話だった。純哉はまだ我慢をしているだけの事かもしれなかった。それに男だ。気が緩んで『ボアッ』と発しても、笑って済ますだろう。また、朋子も一緒になって笑うだろう。では朋子自身は? 朋子の純情は、オナラを許してくれないのだった。音だけではなく、臭いの問題もあるのだ。朋子は気が抜けなかった。そして、しばしば体調を悪くした。笑ってはいけない。朋子にとっては大問題だったのだ。これが1つ目の大きな不安であった。まだ2人の間の、紙一枚は完全に燃え切っていなかったのだろうか。  不安の2つ目は、おセックスの事だ。なるほど、皮膚と皮膚の重なりは、生クリームが溶けるように甘く、表に出ている内臓、つまり口同士と陰部同士の接触は、豪華なパフェが崩れるような衝撃だった。種の保存と進化のために、神様はこんな御褒美を用意して、七面倒くさい行為を、夢中に変えてくれたのだ。素晴らしい仕掛だ。ただ朋子には、快楽の最中にも拘わらず、その仕掛けに引っかからず冷静になる瞬間があった。 例えばこうだ。純哉は1つの行為から次の行為に移る場合、あるいは執拗な愛撫の最中、自身の陰茎を頻りに擦っていた。純哉は、瘦身で色白であった。しかし体毛が濃かった。特に陰部は真っ黒であった。そこに突き出た陰茎を擦るのだ。その行為は、純哉のマスターベーションを想像させた。そんな事はどうでもいい。現に、朋子もやっていた。彼女は、その気配をおくびにも出していないだけの事だった。もし女が、やっていないと言い張れば、それは、嘘をついているか、マスターベーションと認識していないか、認識しようとしないかだ。聖女だって怪しい。女のマスターベーションは曖昧なような気がする。 話を戻そう。純哉がおセックスの合間にする行為の話だった。深く考えれば、マスターベーションの事など、拘るに値しない事かもしれなかった。ただ確認しておきたいが、朋子の気質は、真面目で神経質。そんな彼女には、純哉の行為はおセックスがマスターベーションの延長線上にあるような印象を与えた。目の前でやって欲しくはなかった。見たくもなかった。不潔で不快。それにその瞬間、彼女は取り残されたように不安を感じた。些細な事ではあったが、純哉のこの行為は、朋子の気質に馴染まず、快楽の最中に冷水を掛けられたような気分にさせ、ちょっとした不安を残した。 おセックスついでにもう1つ。つまりこれが3つ目の不安だ。純哉は愛撫が上手過ぎた。時間のかけ方、丁寧さ、徹底ぶり。純哉は朋子の微細な反応も見逃さなかった。何処を如何したら一番反応がいいか学習していた。ここぞの時、ここぞの事をする。舌と指の技。焦らし、緩急、タイミング。全てが絶妙だった。これが不安を煽ったのだ。これは天性なのだろうか、それ以外のなにかなのか? 朋子はこの疑問を、『気のせいだ』『考え過ぎだ』と、線引きして向こう側に置いた。ただ、純哉への愛は、独占欲の満足と、母性的な衝動であった。となれば、このおセックスの精緻な術は、線引きしてもなお、彼女の不安材料だった。  3つあった不安とは、まあ、この程度の内容だ。あと半分の不安の話が残った。もっともっと些細な内容だ。何かひっかかる、何かちょっと気になる、その程度の内容だ。この半分の不安を、書き留める必要があるか、微妙だ。しかし、そもそも、朋子の無上の恍惚を引き立てるために書き始めた不安だ。すべて記す事も、大事かもしれない。では話そう。それは、留守番電話のライトの点滅であった。あの赤い点滅だ。2人の週末は、基本、朋子の部屋で過ごしていた。それを純哉が好んだからだ。しかし、映画やコンサートで遅くなった時、交通の便がいいと、純哉の部屋で過ごす事も、稀にあった。そうして、2人して外出から帰った時に、留守番電話のライトの点滅がある日もあった。それは、3度ほどだっただろうか。純哉は、2人の時間の邪魔になると、いつもコンセントを抜いて、おセックスを始めた。純哉の言葉通りに違いないのだが、卵巣が産む女の勘に従えば、朋子は、なんとなく、ちょっと、それに不安を感じていた。  ところで、先程から、セックスに接頭語の『お』を付けているが、これはある人物の口癖である。その人物の名前は北沢(きたざわ)勝彦(かつひこ)、通称カッチャン。朋子の学生時時代からの、唯一の異性? の友人であった。カッチャンは、17歳の時、長野県佐久地方から、青雲の志を抱いて、家出同然の形で、上京して来たそうだ。高校は、中退だと聞いている。朋子が、カッチャンと知り合ったのは、女子大生の時のアルバイト先であった、新宿の蟹が名物のとある和風レストランで知り合ったのだ。朋子がお店に入った時には、カッチャンは働き始めて4年目で、アルバイトをまとめるチーフ格であった。同じ長野県出身の同郷の誼、奇しくも同じ歳という親近感から、この2人はウマがあった。そして何よりも朋子がカッチャンに気が許せた理由は、カッチャンが、おとこおんな、ホモ、おかま、GAYであったからだ。初心で奥手の朋子であったが、カッチャンには、異性として臆(おく)する感覚はなく、違和感や畏れも抱かなかった。何でも言い合った。何でも相談した。カッチャンから、ズバズバズバと、歯に衣を着せない助言が出た。それがまた、目から鼻に抜ける快刀乱麻。朋子と相性が合うのだから、根は真面目。しっかり者で、レストランの宴会の残り物など、包んで持ち帰るようなしまり屋でもあった。そしてカッチャンは、女子高を出て、女子大を出て、都立の民族博物館の事務員になり、お茶を趣味とする、籠の中の鳥の朋子にとって、下世話な言葉の教師であり、下卑た世間との唯一の窓口でもあった。 カッチャンは、25歳の時、たまたま手伝いで入った、新宿2丁目のとあるゲイバーがキッカケとなり水商売に足を踏み込んだ。そして、しっかり貯めたお金で、27歳の時、お店を持つまでになった。お店の名前はゲイバー『コッコ』 朋子は『コッコ』には行った事はないが、カッチャンとはよくランチなどを共にした。  さて、愛の恍惚の絶頂期であった朋子は、人にのろけたくて、ウズウズの毎日。かと言って、この手の話し相手は、選定に注意を払わなければ、痛い目にあう。親にも姉たちにも話していなかった。カッチャンはしかし、その相手として申し分のない恰好の人物だった。 「いいわねぇ。うらやまシコ。トモコにもできたんだぁ、彼氏が。奥手のあんたがねぇ。ブス子のあんたが、きれいになったはずよ」カッチャンは、デザートの白玉あんみつを崩しながら言った。このおとこおんなの声は、劣化した粘着テープのようで、朋子以外には、神経にさわる種類のものだった。 「それで、どうなの、あっちの方は?」カッチャンは、今起きたばかりのような腫れぼったい目で朋子を見た。その目はいつも濡れていて目力が強かった。 「あっちって?」 「おセックスよ。何、カマトトぶってんの」 「ああ、そうね。それがね、ちょっと気になる事があるのよ。カッチャンに聞いてもらいたくって」 カッチャンは、急に眼を輝かし、身を乗り出して来た。このおとこおんならしい好奇心が顔を出した。 間違わないで欲しい、根は真面目なおとこおんななのだ。 だが、特定のおとこおんなには、占い師のような、物事を見透かす能力のある者がいる。どのように見透かしているかと言うと、意外にも直感に頼ったりしていない。コンプレックスと言うパンナイフで刺身を鋸挽くように、グニャグニャと手間取った思考で見透かしている。思考と言うより手探りしている感じだ。見透かしながら、攻撃と防護を同時に練っているのだ。つまり、怯えながら戦おうとしているのだ。だから、口から出る言葉は、茶化しの鉄壁と、自虐の鎧に包まれ、計算高く、遠回りしていて、真実、核心、痛い処をグリグリ抉ってくる。これを『意地悪』と呼ぶ人もいる。ただこれは癖であって。真面目さとはまた別のもの。 さて話を戻そう。ここで身を乗り出したカッチャンの好奇心には、そんな特定のおとこおんなの気迫があった。 朋子は、カッチャンに話した。下半身を、舌まで使って執拗に愛撫する彼氏に、その下半身の臭いを気付かれたのではないか、などなどを。 「あんたの、マン臭餃子、きつそうだからねぇ」 「シャワーを浴びていなかった、最初の夜のことが、気がかりなの……」 「最初のイメージって、気持ちの上で後引くからねぇ」と言った時の、腫れぼったい目の上目使いは、その言葉以上に朋子の心に入り込もうと意図した表情だった。これが、意地悪と誤解されるものだ。 「そうなの、実はそれが、一番気がかりなの……。生理後の臭いって、そんなに強くないけど、流石にシャワー浴びていないとね。わたし、ちょっと、あれなの……」 「あれって?」 「人より、臭いが強いかも……、カッチャンが『きつそう』と言う通りで……」 朋子の声は小さかった。 「フフフ、大丈夫よ、男はみんな、そんなものだと思っているし、分かっているわよ。あたしは、例外よ。マン臭餃子は勘弁よ。あれ、キツイわぁ!」 「男って、そんなものなのかしら……」 「だいたい、あんた神経質だからねえ。異常に自分の臭いに敏感になり過ぎるのよ。気を付けた方がいいわよ。ところで、あんた、御返ししてあげてんの?」 「……」 「おフェラ、してあげてんの?」 「いやだぁ。やめてよ。出来ないわよ」 「あんたのことだから、やっていないでしょうね。どうせ、女がしたって、気持ちいい訳じゃあないけどね。でも、喜ぶわよ」 朋子は、それは違うと思った。多分、純哉は、朋子がそんな事をすれば、相当嫌がるだろうと思った。しかし、それは口にしないでいると、 「やり方、教えてあげようか……」とカッチャンは舌で結んだサクランボの枝を、指で摘まみ出した。 「その内、お願いするわ。授業料取らないでよ」 「でも、あれね。マン臭餃子がふやける程、ペロペロするのは、あれよ」 「なに?あれって?」 カッチャンは、外の景色を見ながら、あんこを啜った。この間(ま)は、おとこおんな独特の勿体付けだった。「あれ」についてなかなか口を割らない。朋子は知っていた。やがてカッチャンに我慢の限界が来て、「あれ」について話し始める事を。カッチャンのお根性をとっくの昔に知っていた朋子は、こう言う場合のいつもの手で、興味なさそうにケーキをフォークで崩した。 カッチャンは、わざとらしく、別の話題を振って来た。 「あんた、太らないからいいわねぇ。あたしなんか、飲みたくもない酒太りで、お腹周りぶよぶよ」 確かにカッチャンは、店を出してから急激に太り始めていた。2人は、しばらくデザートに集中していたが、 「あれってね」とカッチャンは、「あれ」を催促しない朋子に根負けして口を開いた。ここで、朋子が興味ありそうに身を乗り出せば、また勿体付けの沈黙が始まる。彼女は気のない振りを装い、カッチャンに顔を向けた。 「Mね」 「エム……?」 朋子の頭に、なぜか、純哉の卒論『マルキ・ド・サドの文章構成における幾何学性についてとその考察』と言う題名が浮かんだ。 「あんた、また、ペロペロされて、キャキャしているでしょう? それが嬉しくてやるのよ。ご奉仕ね。マン臭帝国の皇妃様万歳よ」 「そうかしら……」 「十中八九、当たっているわよ。だいたい人間って言うものはねぇ」 カッチャンの粘質の声が高くなってきた。おとこおんなは、ストレートに対して、尤もらしい事を言う時に、やや高圧的な高揚感を滲ませる。 「だいたい、SかMなのよ。人間は、どっちかの傾向を持っていてね、それがまた、年齢で変わってきたりするのよ。日よって変わる馬鹿もいるかもね。だから、どうしたって言うダニ。関係ないわよ。みんなそうなんだから。S極とM極があってね、その間は、SからMへグラデーションになっていてね、みんな隙間なく、どこかに当て嵌るのよ。あんたの彼氏が、鞭で叩けって言う訳じゃあなきゃあ、どうでもいいのよ」 朋子は黙って頷いた。 「トモコも、Mね」 それも当たっているかもしれない、と思った。MとMのカップルなのわたしたち? とも空想した。その空想の翼に乗って、気持ちが大胆になった朋子は、思い切って知りたい事を、カッチャンに切り出そうと思った。首の皮一枚でも、まかりなりなりにも男なのだからカッチャンは、と。 「あのね、カッチャン。わたし、男の人の気持ちが分からないから、教えての欲しいのだけど……」 「あら、あたしに答えられるかしら」 「彼がね、わたしの下の処をね、口で愛撫する時ね、彼、自分のアレを頻りに擦るの。何だか不潔っぽくって、わたし、嫌なのね。Mって教えてくれたけど、関係あるのかしら。男の人って、あの最中も、やっぱり相手だけに集中している訳ではないのかしら?」 「面白い質問ね」 カッチャンは、白玉をつるりと口に入れると、おもむろにクチャクチャと噛み始めた。朋子は、何を言われるかと、ドキドキした。カッチャンにドギツイ事を言われても、なぜか腹立たしくなかった。それは、おとこおんなの存在そのものが、王侯貴族を取り巻く侏儒(こびと)や道化師のように感じられるからだ。正直な心の奥底では、見下しているのかもしれない。ひょっとすると、朋子が、茶化しの鉄壁と、自虐の鎧のマジックに、かかっているだけなのかもしれない。とにかく、腹がたたないのだ。それに、何を言われても、純哉を愛する気持ちに変わりはない。その事を、朋子自身が一番よく知っていた。 「男なんてものはね」 例によって高圧的な高揚感を伴って話が始まった。 「頭でおセックスしてるって、よく言うでしょ、トモコ。でも、それがどうしたって言うのよ、トモコ。彼が何考えて、ヤッていても、いいじゃない。女って、ロマンチストで、気持ち悪い動物ね。男ってさぁ、一応、あたしも、ソレだけどね、オシッコ出すみたいに、精子出さないと、オツムが変になっちゃうのよ。あんたもヤッてるでしょ、オナニー。男は、女なんて比じゃないのよ。だからね、男は昂ぶるとね、つい出るの。一番身近で、一番気持ちのいいところを知っている自分の手がね。そうなれば、相手に集中しているかどうかは、謎ね」 「そうなのね」 「でも、器用な男ね、トモコの彼って。片手は自分のお股シコシコでぇ、それでもう片方は……。でも片手で、あんたのお股を広げる事は難しいから…、って事は、トモコ、あんた、お股、相当、おっぴろげているのねぇ。ひょっとして、自分でひろげてんの!」 朋子は顔を赤らめた。 「アラ、赤いペンキ、ぶっかけられたような顔になったわよ、トモコ。でも、おセックスの最中に、アレ扱(しご)く人は少数派だとも思うけどねぇ。ズーっと、扱いてんの?」 「そうではないの、時々、手がアソコに行っているって感じ、だと思うの、多分」 「そうだったら、そんなの、普通よ」 「そうなの。わたし、他の人との経験がないから、びっくりしたのよ」 「あら、トモコ。そんな事で、びっくりしてたら、おねんねよ。男の頭の中身を、かち割って覗いてみてご覧よ。と言っても、覗けないけどね。神様は、アラ、誤解しないでよ! あたし神様なんて信じていないから。方便で神様使っているだけよ。神様は、他人のオツムの中が見えないように、都合よく人間を作ってくれたものだわ。平和で呑気に生きられますようにってね。ありがたや、ありがたや」 「純哉さんの頭の中も、凄いってこと?」 「変態かもよ」 カッチャンは、黒目を真ん中にして、ギョロッと目全体を大きく開いた。 「純哉さんが、変態? あの真面目を絵に画いたような人が」 「真面目だから、よけい怪しいのよ。ビデオデッキに、見終わったエロビデオが残っているかもよ。それも射精したところで終わっているテープよ。あんた、今度、確認してみたら」 さすが、おとこおんなだ。気が付くところが細かく、そそのかす言葉が甘い。 「GAYビデオが入っていたりしてね」 「あら、やあね」 「あんた、男とも女ともデキる変態が、この世にはごまんといるダニ。これもアレよ、男と女の趣向の極(きょく)と、男と男の趣向の極(きょく)があってね、その間は、グラデーション。S極M極の話と同じよ。疑ってんの? あたし、金かけないで遊ぶでしょう」 朋子は頷いた。 「伝言ダイヤルでね、ひっかけた男がいるのよ。久しぶりに喰ってやろうと思ってね。それで蜘蛛の巣を張ってたら、引っ掛かったのよ餌食が。新宿の西口のトイレの前で待っているって伝言が残ってたから、店に行く前に、覗いてみたわけよ。そうしたら、そこに、さえない感じの30がらみの男が立っていてね、合図したら、それなのよ」 「あら、その人、コッチじゃないの?」と言って朋子は掌を頬の横に立てた。 「あんた、話はこれからよ。トイレの個室の鍵をしたとたんに、ファスナーを下げてきてね、あたしの目の前に、お宝ポロンよ。その男、あたしに何て言ったと思う?」 朋子は首を横に振った。 「『今、女房とヤッてきたところだけど、出し足りないんだ。それに、やっぱり男の方が、コツ分かってていいや。マンコ臭いけど、咥えてくれよ』ってね。トモコ、アレ、臭いわねぇ。オェって。あんな臭いもの、上の口も、下の口も、ツルカメ、ツルカメ」 朋子は、純哉はカッチャンの言う「男とも女ともデキる変態」にもGAYにも該当しないだろうと思った。朋子に対する執拗な愛撫もそうだが、時には、彼女のお尻の穴にまで興味を示す純哉だ。GAYがここまで、女性を愛撫できるだろうか? それに、例えば街を一緒に歩いている時なども、純哉の視線は、しばしば女性の脚を追っていた。男に視線が行くことはなかった。これからして「男とも女ともデキる変態」でもないと思った。 さてさて、それはさておき、朋子は、他の女の脚に目線をやる純哉を、いやらしいと思っていた。ちょっと哀しいとも思った。しかし、恋愛には忍耐と寛容が必要だ。朋子は、男とはそんなもの、目くじら立てる程の事ではない、と固く固く目を閉ざしていた。朋子にしては上出来だった。 朋子自身はどうなのか。同性に興味があるのかないのか。女子高時代に、女子同士の恋愛を間近に見た。ただ、朋子には全く理解の出来ない恋愛だった。では、他に何か、自分の奥底に、隠されている性癖があるだろうか? ジッと、深く深く、客観的にジッと深く、自分を見つめてみた。敢えて言えば、敢えて言えばだが、アレだろうか、と心当りがあった。それは、マスターベーションの空想の内容である。女子高時代は、憧れの男子や芸能人に優しく愛される空想だった。それが、いつの間にか、見も知らずの男性に無理やり犯される空想になり、時には、泥棒、夜道、電車、トイレなどなどと状況を設定するようにもなった。そんな空想は興奮を昂めた。カッチャンが指摘するまでもなく、わたしはやはりMかもしれない。しかし、それ以外に何が隠されていると言うのだ。鬼も蛇も出て来ない。 純哉もM……、「鞭で叩けって言う訳じゃあない」Mとカッチャンは言ったが、じゃあ、そのM以外に、純哉に何が……。 朋子がそんな思いに耽っていたら、 「トモコ、あんた、そんな事より、他に不安なこと、あるでしょうに?」と、カッチャンが眉間に縦皺を寄せ、腫れぼったい目を三角形にして言った。 「他って?」                「コレよ」カッチャンは小指を立てた。 「あんたの話を聞いていると、あんたのコレ」と親指を立てて、「おセックス、上手そうじゃない。AVの見過ぎか、他のオンナに叩き込まれた成果ね。大丈夫? 他にいない、オンナ?」と言って黒目だけを朋子に残し、顔を横に動かした。 確かにそうなのだ。純哉のおセックスの精緻な術は、彼女の独り占め感を不安にさせた。女のプライドから口にしなかったその不安を、おとこおんなはグリグリ見透かし、鼻歌でも歌うように口にした。 「そんな人じゃあないのよ。地味な男で、モテたりなんかしないわ。ご心配なく」 「あら、人は見かけによらないものよ……」 カッチャンの声は、のろけたい朋子に水を差し、幸福な気分を面白がって転がし、そして少し妬み、あくまでも粘り付く、そんな感じの音だった。 「二股なんて、そんな器用なことができる人じゃあないわよ」朋子は、自分に言い聞かせるようだった。 「ハハハッ。初心なトモコに意地悪言い過ぎたかしらね。おセックスが上手いのは、あんたに喜んでもらおうとしている気持からよ。まあ、他のオンナと同時進行でなかったら、あんたも上手い相手の方がいいでしょう? 万歳、万々歳よ。もしね、もしよ、他にオンナがいるか不安になったら、いつでもご相談ください。あたしに一晩貸してくれたら、正確なご報告ができるわよ。ご検討あれ。フフフ」 おとこおんなの粘度の高い含み笑い声が、朋子の顔に貼り付いた。  朋子の顔に貼り付いていた、カッチャンの含み笑い声は、1週間経っても剥がれなかった。カッチャンに、ウズウズ溜まったのろけのガス抜きをした積りが、思わぬ宿題を彼女に課したのだ。精緻な術のおセックスは、卵巣が産む女の勘に従えば、ただならぬ不安をやはり醸成する。『気のせいだ』『考え過ぎだ』と線引きして済ますのは、甘い考えだったかもしれない。朋子は、そう思うようになってきた。おとこおんなの含み笑い声が、純哉の地味な容貌の幕のコッチ側から、朋子の背中を押した。不安はこの際、すべて払拭しておかなければならない、と思った。幕の向こうに、何もない事を祈りながらだ。何しろ、おセックスにまで進んでいる2人なのだ。……、 幕の向こうに留守番電話のライトの点滅があった。赤い点滅。 コンセントを抜く純哉。 不自然な行動。 実しやかな言い訳。 あの3つ半の、その半だった不安は、彼女の不安そのものに化け始めた。 よく考えてみれば、純哉の希望で朋子の部屋で過ごす事が多い。すべて悪い方で辻褄が合う。そんな思考連鎖をしていたら、居ても立っても居られなくなってきた。彼女の弱点・不幸のひとつは、裏切りに免疫がない事だ。裏切り、嘘、欺瞞。彼女がこれらに,全く縁のない生活だった訳ではない。しかし、そんなものを仕掛けられても、気が付かなかった程に、穏やかな日々を過ごしてきたのだ。  さて、どうやって、あの留守番電話のボタンを押すかだ。まさか彼女が押す訳にはいかない。純哉に押させる事も無理だ。となれば、偶然に押すチャンスを作る以外にはない。女の緻密な計画が始まった。  朋子は、化粧ポーチを、あのボタンの上に落としてみようと思った。偶然、落ちたと装ってだ。何度も、自分の電話機で試した。なかなか思ったようにはいかなかった。重さが足りないのだと思った。観葉植物に敷きつけていた小石を洗って、化粧ポーチに詰めてみた。そうすると、10回の内4回は成功した。今度は、落とす力加減を色々試した。その結果、10回の内8回は成功するようになった。  次の課題は、純哉の部屋に出来るだけ行くように仕掛ける事だ。土曜の昼に会って、朋子の部屋で過ごし、日曜の夕方に純哉が帰る、それがいつものパターン。これを、何かと理由を付け、池袋で会い、その流れで雑司ヶ谷に行くように仕向けようと画策した。その際、ビデオデッキの中身も確認しよう、と朋子は思った。  さて、この危険な冒険を実行しようと、純哉の部屋で過ごす日は増えた。ただ、留守番電話のライトが点滅している事は、こう意識してみると無かったのだ。朋子は、やはり、『気のせいだ』『考え過ぎ』だったと思った。付け加えると、ビデオデッキの中も、いつも空っぽだった。  クリスマスイヴは、純哉の提案で、池袋の東京〇〇劇場でバッハの『クリスマス・オラトリオ』を鑑賞した。イヴを2人で過ごすこと自体、他にオンナがいない証拠だった。やはり、『気のせいだ』『考え過ぎ』だったと朋子は確信した。コンサート後、遅い夕食を済まし、雑司ヶ谷の純哉のマンションに向かった。  空気の澄んだ無臭の純哉の部屋は、留守番電話のライトで赤く点滅していた。朋子は、純哉からプレゼントされたカシミヤのストールを脱ぎながら、ライトの点滅を見つめた。そして、あの危険な冒険を試みようと決意した。ストール以外に、恐ろしいプレゼントが待っているかもしれない。イヴだけに、リアルで、怖い。朋子はバッグを電話機の台の下に置き、震える手で、化粧ポーチを取り出した。そしてライトの点滅に鋭い視線をやって、「あら、」とポーチを落とした。 ポーチはボタンを掠り、床に落ちた。 ボタンは押されなかった。 「ごめんなさい。手が滑って」朋子はポーチを拾うと、洗面所に行き、化粧直しの真似をした。 今日こそは確認しよう。どう言い出せばいいのだろう。言葉の小細工はしない方がいい。そのまま、自分の愛している気持を伝えれば、純哉は分かってくれる筈だ。  純哉はソファーに座っていた。テーブルに飲み物が2つ用意されていた。ヴァイオリンの音楽が流れていた。純哉は朋子を見ると、薄い唇の口角を吊り上げて、白い歯で微笑んだ。あどけない笑顔。可愛い人。 「この曲、何?」朋子は純哉の横に座った。 「バッハだよ。無伴奏のソナタだよ」 「純哉さんって、本当にバッハが好きなのね」 純哉が唇を求めて来た。朋子は素直に応えた。 「ねえ、純哉さん。今まで何人の人とお付き合いされてきたの?」 「えっ、突然! イヴに変なこと聞かないでほしいんだよね」 「ごめんなさい。でも、わたし、純哉さんのこと、本当に好きだから、知りたいの」   「嫌だよ。こんな夜に」 「お願い、教えて。拗ねたりなんかしないわ」 「……」 「わたしは、純哉さんが、お付き合いする初めての人よ。信じて」        「信じているよ」 「3人ぐらい?」朋子は妥当な数を口にした。 「それぐらいだよ」純哉は白い歯を見せて笑った。この歯に、オンナ3人の細菌がいるのかと思った。でも、許そう、過去の3人。 「最初はいつ?」 「もう、いいだろう。」 「お願い」 「最初は高校生の時。次は大学の四年の時。それから26歳ぐらいの時。以上、報告終わり。」 朋子は、その3人に、やはり軽く妬んだ。純哉を理解したオンナが3人いたのだ。純哉にも妬みを感じた。朋子は分かっていた。むしろ、誰とも付き合わなかった自分の方が変わっている事を。だから、やっぱり、3人を許せた。許せないかもしれないのは、赤い点滅。純哉がコンセントを抜く、あの赤い色。 「純哉さん」 「なに?」 「どうして、留守番電話のメッセージを聞かないの?」 純哉の顔色が変わった。 「ごめんなさい。本当に許して。わたし、本当に、心から純哉さんのことを愛しているの。だから、わたしの不安を払って欲しいの。分かって、お願いだから分かって」 朋子は涙目になった。純哉は、朋子の涙を指で拭いた。 「お願い。ボタンを押して」 純哉は、白い歯で薄い下唇を噛むと立ち上がり電話機の方に歩いた。そして、躊躇わずボタンを押して、キッチンの方に行った。 「2件の新しいメッセージをお預かりしています。最初の新しいメッセージ。12月24日午後9時3分。『ガチャリ』。」朋子の鼓動の状況描写は、作者の力量では無理である。朋子は、キッチンで冷蔵庫を探る純哉の背中に「ごめんなさい」と心で言った。 「次の新しいメッセージ。12月24日午後9時34分。「純也さん、メリークリスマス」それは、若いオンナの声だった。……、と言うのは嘘だ。その声は、年齢で言えば60歳手前かと思われる女性の、高い、澄んだ、上品なものだった。そしてこう続いたのだ。「お仕事、毎日遅いのね。大変ね。ところであなた、今度のお正月は帰ってくるのでしょうね。お盆は、なんだかんだで顔見せてくれなかったけど、お正月はお父さんも楽しみにしているのだから、必ず帰って来てね。お願いよ。お仕事、頑張ってね、だけど、無理をすると、身体がもたないからね。ほどほどにね。じゃあね。おやすみなさい」  何度も言うようで、恐縮なのだが、現実とは決して期待するように、ドラマティックなモノではないのだ。びっくりするようなコトが、生身の人間に、そう簡単に襲い掛かって来るようでは、純哉の母親が心配するように、身体がもたない。主人公朋子の隣には、いつの間にか、キッチンから戻った純哉が座っていた。テレて、キッチンへ行ったのだろう、手ぶらで戻って来た。 朋子さん、良かったね。 すべて、『気のせいだ』『考え過ぎだ』だった訳だね。めでたし、めでたし。    年が明けて、1月4日の夕方、純哉と朋子は目白駅で待ち合わせをした。大晦日を一緒に過ごし、元旦の朝に、千葉と長野に切り裂かれた2人だった。その4日間の寂しさを補うように、2人は手を繋いで、目白通りを歩いた。  部屋に入ると、抱き合い長いキスをした。 純哉は、「ちょっとシャワー浴びてもいいかなぁ。気持ち悪かったんだ」と言って、郵便受けから取り出した年賀状の束をテーブルに投げた。 「ええ、わたしも後で、シャワー浴びさせて」 「一緒に浴びようか」 「バカ。エッチ」 純哉は、コートとジャケットを脱ぎ、クローゼットのハンガーに掛けていた。 「ねえ、年賀状、見てもいい?」 「ああ、いいよ」 朋子は束の輪ゴムを外した。分厚い束だった。純哉の交友関係の広さに驚いた。バスルームから、シャワーの音が聞こえて来た。  年賀状は、月並みな挨拶ばかりだったが、中にはチラホラ、写真付きで、結婚報告の幸福や、赤ちゃんが出来た喜びなど、家庭的な暖かみが伝わる言葉も混じっていた。読む朋子は、他人事とはいえ、自分の未来の空想が広がり、明るい幸福な気分に浸っていた。  そこへ、差出人のない年賀状が出てきた。裏返すと、黒の縁取りがしてあり、上半分にベターッとカラー写真が貼ってあった。その写真には、箱根の案内板の前に立っている男女が映っていた。男をよく見ると、それは純哉だった。 ドキリンコ。バク、バク、バク、バク……。 朋子の心臓の鼓動だ。上手く書けない。擬音語でまた誤魔化してしまった。こう言った場面こそ、気の利いた一行を挿(さ)したいところだ。まま悩まないでおこう。物語の先を急ごう。 横のオンナは、幸せそうな笑顔で頬を純哉の方へ傾け、その手は純哉の手と繋がっていた。美人とは、お世辞にも言えなかった。白い蛾のような化粧をしていた。流行の赤いタイトなワンピースから細い脚をむき出しにして、微笑んでいた。微笑んでいても、性格と意志の強さが滲み出ていた。写真の下に、次のように書かれていた。 『恨んでいます。でももういいです。ここまであなたに無視されたら、私にもプライドがあります。あなたの事は、きれいさっぱり忘れます。年末にあなたとの思い出はすべて捨てました。最後にこの写真が残りました。これは差し上げます。そしてこの写真が新しい恋人の目に留まるよう念じて投函します。お幸せに。謹賀新年』。写真の日付を見た。2か月前の11月6日だった。 朋子は、年賀状をベッドに投げ捨てた。そして、コートとバッグを手にすると、クリスマスプレゼンのカシミヤのストールは置いたまま、純哉の部屋を出た。速足で歩く目白通りは風が強かった。 めでたし、めでたし、ではなかったのだ。  「まあ、おめでとうございます」 「おめでとうございます」 岡本先生のお宅で『初釜茶会』があった。 朋子は、お手伝いで、台所と点心席を忙しく行き来した。 点心席では、半オクターブ高い、取り澄ました女性客の挨拶が「おめでとう」「おめでとう」と幾重にも交わされていた。 朋子はその中を、膝をにじらせながら働いた。 あの1月4日から2週間が経っていた。 どんな2週間であったか、簡単に話そう。 1月4日。朋子が自分の部屋に着いたのは、夜の8時だった。留守番電話のライトが点滅していた。彼女はなぜだか、留守番電話の点滅に振り回わされている。 朋子はコンセントを引き抜いた。 それから、年賀状のオンナの細菌がなくなるまで歯磨をした。 夜の10時前、就寝しようとしたら、玄関にベルの音とノックがあった。朋子は照明を落とし布団を被った。 10分後にまたベルがなった。 今度は耳を塞いだ。 翌朝、玄関のドアーに紙袋が置いてあった。カシミヤのストールが入っていた。 ストールの上に紙が一枚。紙には『ゴメン。許してください。話をきいてください』と走り書きがしてあった。 朋子はためらわず、それを袋ごとゴミ箱に捨てた。 週末は松本に逃げた。 驚く両親に、急におばあちゃんが心配になって、と無理な理由を繕った。 2週間の間に手紙が5通。その内、1通は玄関へ置手紙。手紙は封を切らずに、すべて捨てた。 電話はコンセントを抜きっぱなし。 玄関先に人がいる気配が2度あった。気配があっても、ドアーの覗き穴には行かなかった。 朋子は、会いたくて、会いたくて、会いたくて、顔も見たくなかった。 憎くて、憎くて、憎くて、やっぱり好きだった。 可愛くて、可愛くて、可愛くて、卵巣が泣いた。 それでも、恨んで、恨んで、恨みの匙が卵巣の未練を抉(えぐ)った。  『初釜茶会』のお客様がみんな帰り、朋子はひとり、台所で片付けをしていた。流しの隅の、ガラスのコップに、紅白の椿が一枝ずつ挿してあった。床に飾られなかった椿だ。彼女は洗い物の手を止め、その白い一枝を鼻に持っていった。匂いは薄かった。 朋子は虚ろを見ながら、椿で首筋を撫ぜた。  「朋子さん。」 ハッとした朋子。 「あっ、はい、先生。今日はいろいろ勉強になりました。ありがとうございます」 岡本先生が朋子の後ろに立っていたのだ。 「こちらこそ、助かりました。ありがとう。ところで、〇〇先生がね、帰りしなね、八寸の、海の物山の物(茶懐石での八寸の食材)の位置が逆さまだったって、おっしゃっていたわ。他のお客様からも、海の物山の物を付ける時、両細箸を使い分けなかったって、ご指摘いただいたのよ。朋子さんらしくないわね。ホホホ。後のお片付けは、私がしますから、お茶室で、一服いかが。私が点てます」 「でも、先生。もうすぐ片付け終わりますから」 「いいの、いいの。私がやります。お茶を頂きましょう」 朋子はエプロンを外し、茶室への廊下を歩いた。  釜からは、しーしーしーっと松風が聴こえた。 床柱に掛かった青竹の花入れには、紅白の椿一輪ずつ、そこから畳に、結び楊が滝津波。軸は、先代お家元の筆で『寿』一字。 楊の枝の切り口から水が一滴、ポタリと畳を打った。  「はい、どうぞ」 朋子は膝行して茶碗に寄り、茶碗を持って座に戻り、茶碗を回してひと口。 「結構なお福加減で」 岡本先生は、頬骨を上げ笑顔でお辞儀をした。そして、仕舞茶碗に湯を注ぎながら、 「この前の日曜日に、うちに、色川さんがいらっしゃったのよ」と一言。 朋子は、茶碗を口にしたまま手が凍った。 「全部、伺いました。お辛いでしょう。可哀想にね。私と須藤先生とがお合わせしたのだから、責任があります。本当にごめんなさいね。気持ちはまだ、落ち着いていないでしょう。分かります。分かりますとも。本当に、ごめんなさいね。私、ううんと色川さんに、お灸を据えておきましたからね。純情な貴女を裏切るなんて、許せませんからね。でも、朋子さんね。もし、もしよ、貴女に、色川さんを思うお気持ちが、ほんの少しでも残っていたら、色川さんを許してあげて欲しいの。ごめんなさいね。泣かないで、泣かないで、朋子さん」 「……」朋子は言葉なく、頷いて泣いていた。 「男の人は、色々あります。色々ありますとも。だからと言って、色川さんのした事は、許される事ではないわよね。分かっていますよ。分かっています。でも、許してあげる事は出来ない? あの方は、根は良い方よ。私と須藤先生の目を信じてね。ただ、ちょっと、男の人の弱さに負けたのね。私は、貴女より、長生きしているから、分かるのよ。亡くなった主人も、色々ありました。ありましたとも。今では、あれも、ただの思い出、笑い話です。笑い話で過ぎ去っていく事に囚われて、大事な物を失ってしまうのは、とても残念な事よ」 「……」 「私がね、はっきり言える事はね、色川さんは、貴女の事を、それはそれは大切に思っていらっしゃる、って、その事よ。太鼓判を押すわ。心底から愛していらっしゃるのよ。だって、考えてご覧なさい。そこまで思っているから、須藤先生に私の住所を聞いて、わざわざお訪ねになったのよ。中途半端なお気持ちでは、これは、出来ない事よ。色川さんの、畏まった、切実とされたご様子、朋子さんにお見せしたかったわ。丁度、貴女が座っているその場所に、縮こまっていらしたのよ。貴女、色川さんからのお手紙とか、読んでいらっしゃらないでしょう? 当たり前の事です。当たり前の事ですとも。でも、今日は、少し落ち着いて、もう一度、考えて頂きたいのよ。お願いします」 岡本先生は、畳に手を突き頭を下げた。 「先生。先生が、頭を下げられる事ではありません。それに、須藤先生の事も、岡本先生の事も、まったく責める気持ちなんて持って いません」 「いえ、責任があります。ありますとも。お合わせしたのは、私達なのですから。ただ、少しは色川さんのお話も、聞いてあげて欲しいのね。あのね。実は、色川さんからのお手紙を預かっているの。そんなに、びっくりなさらないでね。これなのよ」と懐から抜き出す封筒。たじろぐ朋子。 「今、ここで、封を開けて読んで欲しいの」岡本先生は、朋子ににじり寄り、封筒を差し出した。 「家に帰って、読ませていただきます」 「いいえ、ここで読んでいただきたいの。どうしても、ここでは、読めませんか?」 岡本先生は、俯いている朋子の顔を、優しい目で見上げた。 「……」 「……」 「先生……」 「どうしても無理なら、いいのよ。本当にいいのよ。どうしても無理なら……」 朋子は、封を銀の菓子切りで開けた。岡本先生は点前畳に戻り、お点前の仕舞の所作を始めた。 朋子は、三つ折りの便箋を開いた。そこには、次のように書かれていた。 『封を切ってくれてありがとう。 まず謝らせてほしい。ごめんね。 許してもらえないだろうけど、本当にごめん。僕が全部いけない。あなたのように、純粋な心を持った人を傷つけてしまった。最低の男だ。この最低の男が、これから言い訳を書く。続けて読んでほしい。 年賀状の女性は、あなたに初めて会ったお茶会の3週間前に、友人の紹介で知り合った。仲間内でやった多摩川のバーベキューパーティーで紹介されたのだ。 須藤先生から、お茶会のお誘いをもらったのは、バーベキューパーティーの2週間後だ。須藤先生は、そのお茶会で、あるお嬢さんを紹介したいと言われた。それが朋子さん、あなただ。 お茶会の日、僕はあなたに惹かれた。この話はもう何度もしているね。繰り返さなくてもいいよね。 お茶会の日は、土曜だった。その日の夕方、年賀状の女性から電話があった。 今、目白駅にいるから夕飯を一緒にどうか、と誘われた。僕も、夕飯前で、丁度タイミングがいいと気安く承諾した。本当に気安くだった。友達として紹介された女性が、たまたま近くにいるから声を掛けてきた、とそう思った。 彼女は、僕より2つ年上だ。いろんな意味で、積極的な女性だった。僕は、彼女の押しに負けてしまった。僕はその時、あなたとこんなに深い関係になるとは、想像していなかった。電話番号まで聞いていて、想像していなかったとは、情けない言い訳だが、正直なところだ。 僕が、一週間近くもデートの誘いの電話をあなたに出来なかったのはこのためだ。電話番号は間違っていなかった。ついてはいけないウソだった。ごめんね。 彼女と別れたのは、あの年賀状の写真を撮った箱根の帰りだ。だからその間、二股を掛けていたと責められれば僕に言葉はない。でもこれだけはハッキリ言える。 僕はあなたが好きだった。あなたは優しい素敵な人だ。あなたと過ごす時間は、とても楽しかった。 あなたは、僕からの優しい言葉を待っていたね。手に取るようにわかっていた。いじらしくて、可愛くて、1日も早く彼女との関係を切ろう、切って身も心もきれいになって、僕の気持をあなたに伝えようと思っていた。僕は、その機会を作ろうと必死だった。でも僕は弱い人間だった。彼女の強さに引き摺られた。あなたを裏切ったまま時間だけが過ぎた。本当にごめん。 あなたと初めて一晩を共にした時、僕は決意した。今後こそ絶対に関係を絶つと。 別れは箱根の帰り、新宿駅で告げた。一生懸命に話した。でもなかなか理解してくれなかった。不意にマンションに訪ねて来ることさえあった。僕は徹底して彼女から逃げた。週末をあなたの部屋で過ごそうとしたのは、そのためだ。やがて、彼女は訪ねて来なくなった。 イヴの夜、あなたは留守番電話のボタンを押して欲しいと言ったね。僕は、彼女の声が流れるのではないかと恐れた。もし流れたら、どう説明すればいいのか分からなかった。分からなかったけど、これ以上の誤魔化しにも耐えられなくなっていた。僕は、言い訳の言葉も整理できないままボタンを押した。 2つメッセージが残っていたよね。最初のメッセージは、多分、彼女からのものだったと思う。しかし、そこには僕を罵る言葉なく、無言だった。彼女はイヴの夜、本当に別れてくれたと僕は思った。 あの年賀状に書いてあったとおり、彼女との関係は本当に終わっている。自分勝手な事を言うようだが、もう一度、僕のもとに戻ってきて欲しい。 僕は、生涯、あなただけを愛し、大切にする。 それでももし、あなたが許しくくれないのなら、その時は潔く諦めるつもりだ。 僕は今また、あなたに決断を求め、あなたを苦しめているかもしれない。 でも、あなたを失いたくない。 僕のもとに戻って欲しい』  岡本先生は、水指に水を注いでいた。そして、水次薬缶の口を閉じると、朋子の方に身体を向けた。 「お読みになりました? 私は、お2人の間の細かい事は分かりません。でも、だいたいの事は、色川さんからお聞きしましたし理解します。生きていると、色々あります。ありますとも。でも、朋子さん、色々あっても、それはそれ、です」 岡本先生は、頬骨を吊り上げて微笑んだ。  通夜が明けた火曜日の朝、朋子は6時に目覚めた。白っぽく乾いてひび割れた午前6時だった。蚊取り線香のような香は、まだ、おっとり燻(くすぶ)っていた。純哉はと、棺を覗いたら硬い強張った表情のままだった。 朋子はその硬い表情に「おはよう」と声をかけた。 排泄物の臭いが鼻を突いた。 純哉の気難しそうな顔は、このせいだろうか? 朋子は、自宅マンションに戻る身支度を始めた。祭壇を見上げると、遺影の優しい眼差しが寂しそうだった。 「ちょっと留守にするだけよ」 朋子は、実際に口にして言った。 一階のフロントには誰もいなかった。 朋子はベルを押した。チン! 「おはようございます」 眠気(ねむけ)眼(まなこ)の男性従業員が出て来た。 「おはようございます。2階をお借りしております色川です」 「色川様、何かご用でございますか?」 「朝早くから申し訳ございません。一旦、自宅に戻ろうと思いまして、タクシーを呼んでいただけませんか?」 「畏まりました。今、すぐお呼びしても大丈夫ですか?」 「はい、お願いします。あと、それと、今朝、主人が臭いますの。排泄物が漏れているのか気になったのですが、確認していただくことは可能ですか?」 「畏まりました。申し伝えておきます」 「すみません。朝早々に変なお願いをして……。主人は神経質な人だったので、お願いしますね」 「承知いたしました。ドライアイスの確認もさせておきます」 朋子は、「よろしくお願いします」と頭を下げた。  神経質な夫色川純哉と、神経質な妻朋子が営んだ愛の巣は、豊島区護国寺の近くのマンションだった。その、不忍通りに面したその3LDKのマンションを購入したのは、結婚10年目の、色川純哉が41歳の秋(とき)であった。神経質同士、付け加えれば理屈っぽい者同士、更に付け加えればこだわり屋同士の生活が、似た者同士で円満に営まれたか、あるいは、角突合せで険悪に始終したかは興味あるところだ。それは次のような次第であった。 神経質の度合い、きれい好きのレベルを語れば、朋子は純哉の足元にも及ばなかった。朋子は結婚当初、純哉の流儀に合わせる事に、相当、困惑した。しかし、純哉は朋子を専業主婦に落ち着かせ、家庭生活の秩序維持のみに専念させた。労働と言う手枷足枷のない境遇にお膳立てされ、純哉の希望とする生活を守る事は、妻としての道義だと、納得も出来るものだったのだ。それに、純哉の意向に従えば、衛生的で、合理的で、美的な生活が送れた事も事実だった。 純哉ほどではなかったが、朋子も神経質できれい好きだ。オナラを夫の前で出来るようになるには、10年以上かかったぐらいだ。この、ややもすれば浮世離れした生活は、2人の間に子供がいなかった恩恵とも言えた。人工授精も試みたが上手くいかず、2回目の失敗の時、夫婦は子供を諦めた。これは既に語っている。やはり子供を育てない生活と言うのは、生き方に花見遊山の趣を添える。人並み以上の服を着て、外食や観劇、コンサートなどの娯楽を定期的に愉しめば、いつまでも見た目が若い。事実、夫婦して見た目が若かった。つまり、2人の生活は幸せだったのだ。  さてここで、2人の花見遊山の生活ぶりを、少しだけだが覗いてみよう。純哉の意向がどれだけ生活に影響を与えていたか、分かっていただけると思う。 3LDKのすべての壁には、生成りの壁紙が貼ってあった。細かいオレンジ色の縦線が入っている布の壁紙だ。純哉が、線が曲がっていると何度も貼り直しさせた壁紙だ。純哉は、この壁紙に油滴の飛沫が付く事を嫌った。妻の朋子は、油を使う料理の際には、真冬でも換気に細心の注意を払った。しかしその反面、これが不思議なところなのだが、壁紙に自然な色艶が出ることを喜んでいた。純哉は、色艶を出すため、ふんだんに線香を焚いた。生活と遊興の色艶は違うと、純哉は不思議な言分を譲らなかった。 リビングルームのテーブルの上には、綿棒で溝を掃除したリモコンがいくつか並んでいた。決まった位置に真っ直ぐに並んでいた。純哉は、テーブルにはリモコン以外の物は絶対に置かせなかった。棚の上も、飾り物ひとつぐらいで、何も置かせなかった。所帯じみて嫌なのだそうだ。 純哉の下着の着替えは、1日2回、夏場などは3回になる日もあった。洗濯となると、下着・靴下、タオル類、その他と細かく分けなければならなかった。タオルと下着靴下を一緒に洗う感覚が分からないと純哉が言った。そして最終的には、洗濯機そのものを2台用意して、下着靴下類とそれ以外とで洗い分けるようになった。 仕事で着るスーツなども、朋子に水洗いさせた。これはクリーニング代金を節約したためではない。かつて、クリーニングで仕上がったスーツが臭(にお)い、それ以来、他人の衣類と一緒に洗うクリーニングを気持ち悪がるようになったのだ。 衣類は、何処に何があるかキッチリ分かるように仕舞わなければならなかった。新婚当初には、シャツ類を一定の大きさに揃える下敷まで用意されていた。ただ2人の生活となると、四角四面の形態で衣類を保管し続ける事は困難になった。純哉の独身時のようにはいかない。結婚生活とはそんなものだ。いくら整えても、いつの間にか崩れた、その崩れる事に我慢が出来なくなった純哉は、下敷を泣く泣く放棄した。 料理の材料は、魚以外はスーパーのありものでもよかった。漁業が盛んな町に生まれた純哉は、魚にだけは妥協がなかったのだ。ただ、スーパーの材料でもよかったが、出汁には煩く、鰹節は枯節・荒節と使い分けさせ、昆布はどこそこのあれ、煮干はこの料理のこの時、鶏ガラの灰汁はああだと細かく注文した。また、同じ食卓に出汁を重複させると機嫌が悪かった。重複と言えば、味や歯応えが同じものばかりが並ぶと嫌がった。料理と食器の組み合わせも細かく指示してきた。有田はコノ系統の料理、備前はアア言った料理、ガラスはコウあるべき、などなどだ。 ただこの花見遊山の生活に、散財を伴う贅沢は感じられなかった。何かと近道を嫌う面倒な生活であっただけなのだ。面倒な生活が出来たのは、子供のいないため、妻が専業主婦であるため、そして少しだけお金に余裕があったためだった。  3LDKの各部屋は、購入当初、1つは2人の寝室、1つは純哉の書斎、1つはお客様専用であった。純哉が52歳の時、マンションのローンは完済した。11年で完済出来たのは、潤沢な頭金を積んでいたからだ。そして完済を期に、客室は必要ないと朋子の部屋になり、2人の寝室は茶室に改造した。 朋子は、結婚後もお茶を習い続けていた。それと関係あるのか、毎年2枚か3枚、着物を新調していた。朋子の道楽だ。幸せな専業主婦だ。彼女の部屋には、立派な桐の和箪笥が2棹あるが、その中で着物は呻っていた。 純哉の部屋を覗いてみよう。まず、彼の部屋はリビングに次いで広かった。その広い部屋の壁四方には、同じ規格の棚が8つ並んでいた。そして棚には、本とCDがギッシリ2重3重となって詰められていた。本は古今東西の文学。CDはクラッシク音楽。 部屋の1番奥に鎮座していたのは、スピーカーにアンプとプレイヤー。その重厚感、威圧感、圧倒的な存在感はスタジオ並みだった。純哉はこの護国寺のマンションに越してからも、オーディオセットの買い替え、買い足しを繰り返した。今ここに鎮座しているのは、純哉なりの究極のオーディオセットだ。純哉の小遣いは、ほぼこの方面に消えていたようだ。朋子同様に、お茶も続けていたが、休み休みで、文学や音楽程の執着は持っていなかった。井戸茶碗を、ああまで偏愛していたのに、茶杓の一本も持っていなかった。 茶室は、朋子の希望で作ったのだ。  朋子は、セレモニーホールからマンションに帰るとバスルームに向かった。やはりそうだろう。夫が死んだ場所に、まず行ったのだ。そこに倒れていた純哉を、今でも見るようだった。記憶は鮮やかだった。まだ生々しかった。 朋子が、初めて純哉の心筋症の症状を目撃したのもこのバスルームだった。それは純哉が47歳の冬の出来事だ。12年も昔だったかと、朋子はその日その時を思い出した。  その日その時も、日曜日だった。朋子は、夕飯の支度でキッチンに立っていた。何かを俎板で切っていた。何を切っていたのだろうか。そうだ、レンコンを切っていた。ハッキリ思い出した。サクサクとした手の感触も思い出した。 突然、ズド、ズド、ズド、と何かを叩く異様な音が聞こえてきた。何の音か? どこから聞こえて来るのか? 朋子は手を止めて耳をすました。ズド、ズド、ズド。異様な音だった。まさか純哉がいるバスルームから、と思い足を急がせた。 「あなた、どうしたの?」 脱衣場に裸の純哉が、胸を押さえて芋虫のように転がっていた。ズド、ズド、ズドの音は、彼が扉を蹴る音だった。 「ムネガ……、クルシイ。ムネが……。キュウキュウシャ、頼む、キュウキュウシャ……」 朋子はリビングに走り、119番に連絡した。そして毛布を手にバスルームに戻ると、純哉の身体を包んだ。 「救急車は、すぐ来ますから。今、電話しましたから。大丈夫? 大丈夫? 苦しい? 胸が? 我慢してね。我慢してね」 朋子は、来るべきその日が、ついに来たかと怖気付いた。  来るべきその日を恐れていたのは、朋子だけではなかった。純哉の母親もその日を恐れていたのだ。  朋子が初めて純哉の故郷、千葉県の漁業が盛んな町に行ったのは、結婚の3か月前の春であった。両親への挨拶で行ったのだ。純哉が育った家は、青い瓦屋根を乗せて、こぢんまりと小さな庭を抱えていた。一昔前の作りだった。堅実な一家の住処(すみか)らしい雰囲気だった。 純哉が、玄関の戸を横に滑らした。引き戸の音に反応した初老の両親が、奥から駆け出て来た。出迎えのその笑顔は、朗らかで、嬉しさが滲み出ていた。一人息子をどれ程にいとおしく思っているのかがよく分る笑顔だった。純哉とその両親、そして朋子の4人が玄関に揃った。4人が4人とも銀縁の眼鏡をかけていた。  父親は、快活で社交的、そして何よりも真面目そうだった。純哉の父親なのだ。血は争えなかった。父親の動作には校長先生らしくない小回りの良さがあった。それは町工場の社長のようだった。しかし眼鏡の向こうの視線には、流石にインテリ臭があった。 母親は、細い目に薄い唇。純哉はあきらかに母親似であった。知的な喋り方、上品な笑顔、几帳面そうな身嗜み、どこをとっても校長先生の奥様と言えた。  台所で、母親が昼ご飯の準備をしていた。 「何か、お手伝いすることはありませんか?」朋子は台所の入口に立った。 「まあ、朋子さん、居間でゆっくりなさっていて。今日は、大事なお客様よ」 母親は、俎板で小気味よい音をさせていた。ネギを刻んでいたのだ。 「お父さまと純哉さん、お2人で話に夢中で、わたし、置いてけぼりです」 「それはいけないお婿さんとお舅さんね。でも、2人して、きっと照れているのね。滅多に口をきく2人ではないのよ。可笑しいわ。手伝っていただくにも、何もないの。今日はチラシ寿司に、お刺身とお野菜の煮物、それと蛤のお吸い物。簡単な献立なのよ」 テーブルには、きれいに刻まれた、卵焼き、椎茸、さや豌豆が盛られた皿が並んでいた。卵焼きの色を見ただけで、どれだけ細やかな料理が出来る人かよく分かった。今、母親が刻んでいるネギも吸い物の薬味として絶妙な大きさだった。朋子は微かな緊張を覚えた。朋子は台所を見渡した。シンク、ガスレンジ、吊られた鍋など、使い古しされた感じはぬぐえないが、見事に手入れされ艶があった。台所は生きていた。 「では朋子さん、桶のお寿司を、その皿に盛ってくださる? そうその伊万里のお皿に」 母親は、朋子の手際を見ながら、洗い物を始めた。洗い方は丁寧を極めていた。包丁と柄の境目、俎板の持ち手の穴の内側、皿の高台の裏側など撫ぜ洗っていた。その白い手は赤くなり血管が浮いていた。寿司を盛りながら、朋子は母親に試験されていると思った。寿司の天辺に、紅生姜、木の芽を置くまで気が抜けなかった。4枚の皿にチラシ寿司を盛り終わった。 母親はまだ洗い物を続けていた。 「お母さま、洗い物は、わたしにやらせて下さい」 「そう。ありがとう」 母親は吸い物の味付けを始めた。片付けをしながら、料理をする人だった。 「あの子は、出汁に煩くて……。口を奢らせた私たちが悪いのですけどね」 愚痴に聞こえるように、息子の嗜好を、未来の嫁に伝えていた。 「朋子さん、聞いています? 純哉の心臓の事」母親は鍋を見ながら言った。 「はい。弱いって聞いています。だから、お酒も、あまり飲まないようにしているって、聞いています」 「そう。小さい頃から、心臓が弱くて。原因はよく分からないそうなの。遺伝かもしれないって言われているのよ。朋子さん、それ承知の上で結婚して下さるの?」 「はい」 「まあ、嬉しい。ありがとう」 母親は、尚も鍋を見つめたまま頭を下げた。 「小学生のころまでは、時々発作が起きて、無事に大人になれるだろうか、心配で……、もし遺伝だったら、あの子に申し訳なくって……。でも、だんだん発作が起きなくなってきたのよ。あの子自身も、発作が起きそうになると自覚があるようで、その場合、どうすればいいのか、よく分かっているようで……。薬と定期検査だけは、朋子さんからも、よろしくお願いします。血圧や糖を上げたり、肥満するといけないらしいの。食事の方も、気を配ってやって下さいね。いえ、本人は、その辺りもよく分かっています……。朋子さんには、母親として、申し訳ない気持ちと、感謝でいっぱい」 母親は鍋を見つめたままだった。その声は涙声だった。 「お母さま、ご心配なさらないで下さい。わたしがしっかり純哉さんを支えますから」 母親は何度も頷き、 「ありがとう。本当にありがとう」と言って吸い物の味見をした。そして、火を止めると鍋に蓋をしてこう言った。 「あの子が、歳をとっていき、身体が弱くなったその時が一番心配で、時々、夢を見てハッと目覚める事もあって……。朋子さん、お医者様へ定期検査だけは、重々よろしくお願いします。この通り、よろしくお願いします」 母親は、朋子に頭を深々と下げ、最後に合掌までしたのだ。  純哉の母親が心配した、息子が歳をとって身体が弱くなったその時とは、純哉47歳の冬のとある日曜日の夕方であったのだ。 搬送された緊急病院で、まず応急手当が行われた後、採血、レントゲン検査、心電図、心エコー検査、心臓cT、心臓MRI、放射性同位元素を用いた心臓シンチ、また心臓カテーテル検査で心臓の筋肉の一部を取るなど、徹底的な精密検査が行われた。その検査の結果、純哉の心臓について次のような事が分かった。  病名は、閉塞性肥大型心筋症。これは左心室の一部の心筋が肥大化し、左心房から左心室に血液を送り込む流出路が狭くなり、左心室の拡張機能に障害を起こす心疾患である。原因は、心筋細胞の中の、収縮に関わるサルコメア蛋白質の変異によるもので、遺伝的要因が高いとされている。症状としては、心拍数を上げる運動等何らかの要因をきっかけとして、不整脈を伴った動悸やめまいが生じ、状況が悪化すれば、拡張相肥大型心筋症に移行し、呼吸困難と重い動悸を発症する。純哉は、まさに、この拡張相肥大型心筋症への急性な進行によって、息切れと胸部の痛みに苦しんだのである。ただ、純哉の病状はすぐに収まり、心臓カテーテル検査も含めて、3日で退院し、通常の生活に戻る事が出来た。医者からは、日常生活に支障がないのなら、ペースメーカーを植え込む程の事でもないと判断された。そして、注意事項を示され、一先ずは、交感神経から心臓を守るβ遮断薬と、心不全の進行を予防するACE阻害薬が処方された。  で、その後の心臓の経過であるが、朋子を狼狽させた事故が、死去するまでに、2回だけ発生した。ただそれ以外は、平穏な日常生活が維持出来ていた。それは純哉自身が、幼少時からの身体感覚として、危ないラインを分かっていたからであった。  では、過去2回あった、朋子を狼狽させた事故とは何であったか。主人公色川朋子の許しを得ないままに、その1つ目を書き記す事に抵抗を感じる。若干、主人公に都合が悪い内容なのだ。だからと言って、文字で仄めかした事を、そのまま放置するのも読者への無礼かと思う。ここは、物書きの倫理に照らし、厚顔無恥の誹りを甘んじて受け、筆を進めさせていただく。 その1つ目は、夫婦生活の最中に危機的状況が訪れたのだ。純哉が49歳の冬である。五十路を前に夫婦の営みの回数は減っていた。月に1回あるかないかだ。すでに1000回に近いであろうその行為は、何に始まりどう終わるか、決まりきった流れの繰り返しであった。当然、心臓への気配りは、朋子もさることだが、当の本人の純哉が一番心得ていた。だから彼なりに、緩急の入れ方や、動静の間合いなども分かっていて、年相応に合わせて手加減はしていた。それが、あの冬の日、箍(たが)が緩んでしまったのだ。 朋子は、カッチャンから『カップルでエステとマッサージ』のクーポン券を貰っていた。朋子はエステに興味あったものの、保守的な気質が仇で、まだその敷居を跨いでいなかった。しかし、カップル、拡大解釈して夫婦、つまり2人してなら敷居を跨げるように感じた。朋子は、面倒くさがる純哉を、マッサージだと騙しながらサロンに引っ張って行った。 そこでの施術は、2人して紙パンツのような物を刷き、2人して蒸気ボックスでスチームを浴び、2人して白いタオルを敷いたベッドに横たわり、2人してホホバオイルで全身のマッサージを受けるものだった。マッサージをするのは、ショートパンツで生脚をさらした若い韓国の女性であった。朋子は、韓国の女性の、白く、滑らかで、すらりとした脚に見とれた。 そして、その日の夜の夫婦の営みで、純哉の箍が緩んだのだ。『まず』などと、何を何してなどは省略するが、2人はしばらく忘れていた、妙な一体感に酔っていた。その時、純哉の身体に異変が起きたのだ。息切れ、胸の痛み、咳込み。朋子は「しまった」と焦った。救急車を呼び、服を着せ、緊急病院に急いだ。まさか夫婦の営みの最中で、とは説明出来ず、突然夫が……、と誤魔化した。緊急病院での手当が功を奏し、事なき状況で翌日には退院出来た。ただ、その夜を境に2人は、セックスレス、カッチャン風に言えばおセックスレスの夫婦になったのだ。純哉49歳、朋子47歳の冬から。 以上が1つ目の事故の顛末である。では2つ目の事故とはどう言うものであったか。これは夫婦のプライバシーの埒外の事故であったので、遠慮なく書き進める。それに厳密には心臓が原因の事故ではなかった。舞台は名古屋になる。純哉51歳の冬の出来事だ。どうやら純哉にとって冬は災難の季節であったようだ。 東京都生活文化局文化事業課の課長であった当時の純哉は、東京都と愛知県との文化交流の打ち合わせで、名古屋へ出張した。彼が出張する事は極めて稀な事だった。愛知県庁での会議の後、席を変えての交流会となった。が、純哉には火急にまとめなければならない報告書があり、その誘いを断っていた。 朋子に、純哉の部下D氏から、次のような電話があったのは、出張の翌朝であった。 「色川課長が、宿泊されている、ホテルで酷い下痢と嘔吐におそわれまして、名古屋の病院に運ばれています。奥さん、大至急、こちらに来ていただけませんか。課長は心臓の事もありますので、是非とも奥さんに来ていただきたいのです」 朋子は、おっとり刀で名古屋の病院に向かった。  病室前の廊下の椅子に、D氏は座っていた。D氏は朋子を認めると、青い顔で駆け寄って来た。そして、色川課長はノロウイルスに感染している事、昨晩の食事は別々であった事を伝え、朋子にマスクを渡した。 「吐瀉物と排出物に、ウイルスが混入しているので、感染予防のためです。あと、あまり長時間、病室にいない方がいいと思います」D氏は言い添えた。  病室内は吐瀉物と排出物の異様な臭いで充満していた。純哉は、ものものしい装置を付け、枕元に吐瀉用の容器を置き、フウフウと浅い息を繰り返していた。顔は真っ白、少し浮腫(むく)んでいた。苦しみで硬く閉じた目を薄く開き、妻の朋子の姿を認めると、 「すまない、すまない朋子」と声を絞りながら詫びてきた。詫びる事でもないのに、もう1度「すまない」と重ねた。心臓を警戒する心電図が細かく波動を描いていた。装置は心電図以外にもありそうだ。機械に縛られ、身動き取れない純哉は、紙オムツを当てていた。きれい好きで神経質な純哉には、耐えられない状態だろうと思った。妻は濡れティッシュで夫の顔を拭いた。そこへ、「奥様ですか? 先生が病状を説明されますので、診察室にお越しください」と看護師に声かけられた。 主治医は、純哉と同じ年格好の赤ら顔の不健康そうな男性だった。朋子を、頭の天辺から足元までスキャンした後、手で椅子を勧めてきた。 「既にお聞き及びかと思いますが、ふん便検査の結果ノロウイルスの陽性反応がありまして、はい、昨日のお食事のことなども、お聞きしたのですが、問題となるような原因がなかなかもって、はい、見当たらず、もし食中毒なら区から報告があってしかるべきなのですが、今のところ、はい、そのような連絡もありませんでして、ですから、経口感染の可能性は低く、吐瀉物や排泄物などから浮遊したウイルスを吸い込んだのではないかと推察しております」 「主人は、非常に清潔好きで、汚物など、目にすることも出来ない性格で、まして、近づいたなどは、ちょっと想像できないのですが」 「不(ふ)顕性(けんせい)感染と申しまして、ノロウイルスの症状の発症しない人が、ホテルに前日など宿泊されておりますと、はい、トイレ付きバスルームなどに、ウイルスが残留しておりまして、それが浮遊して、吸い込んでしまった可能性も、否定出来ない訳です」 「主人は、それは神経質で、ホテルにまず着くと、自分でバスルームを掃除するような人間なのです。先生、信じられないでしょうか、本当にそうなのです」 「さようですか……」 「わたしが、ここまで気にしますのも、主人は心臓が悪く」 「はい、それも伺っておりまして、呼吸心拍監視装置で、瞬時も気を抜かず観察をさせていただいておりまして、はい、ノロウイルスの方は、あと半日もすれば収まると思われますが、それまでにご主人の心臓に重大な事態が発生せねばいいと、厳重に注意を払っております次第で、はい」 「先生、さようでございますから、同じようなことが再発しますと、わたくしどもも困りまして……。感染した経路ですが、何か他に考えられることはございませんか?」 「はて、これは困りました、私はご主人の付き人ではございませんので、はい、『あなたココで感染しましたよ』など、言えない訳でして、それにウイルスは何分にも目に見えない相手でして、はい」 「先生、それでも、何か他に可能性は……、」 「ご快復されましたら、ご主人に直接お聞きになってください。ヘンなものでも舐めて、経口感染されたのかもしれませんので、はい」と主治医は言うと机の方に身体を向け、話はこれで終わりとパソコンを打ち始めた。朋子は、廊下を歩きながら、主治医の不親切さ、不誠実さ、不熱心に苛立っていた。あの先生は、純哉がドアノブでも舐めた、とでも言いたいのだろうか。怒りとともに独りごちた。  さて、純哉は、不熱心な主治医の言葉通りその日の夕方には、それまでの苦しみがウソのようにケロリと回復した。朋子の痩身が細るほど怪訝していた心臓にも、重篤な問題は発生しなかった。これが2つ目の事故の一切合切なのであった。  3LDKのマンションは午前9時になっていた。朋子は、バスルームに佇み、夫の心臓疾患の思い出に時間を費やし過ぎた。今日は、池袋のデパートに買い物に出かける予定だ。純哉が特にお世話になった人達に、気の利いた物を送りたい。それも告別式から日が経たない内に届けたい。そのためには、今日中に注文を終わらせておきたい。妻としての最後のケジメだ、そう彼女は思っていた。 朋子はキッチンに行き、冷凍庫のピザを解凍し、インスタントのコーヒーで朝食をとった。朝食をとりながら、2人してローンを完済した部屋を見渡した。まだ2人暮らしの活気の残滓(ざんし)があった。しかし、やがては生気の薄い静寂になる。きっとなる。そう思うと、朋子の朝食は味気なかった。純哉は、岡村先生の稽古場で読んだ手紙通り、妻朋子を愛した。『僕は、生涯、あなただけを、愛し、大切にします』嘘ではなかった、この3LDKで。 その3LDKを、夫婦の店じまいに合わせてどうするか、夫が死去して3日目の妻にそんな思いが去来したからと言って、不謹慎とは言えないだろう。朋子はこれからも生きる。生活があるのだ。幸い経済的に困窮するような境遇ではなかった。保険金もそれなりに入って来るだろう。3LDKを手放さす必要はない。しかし1人には広すぎた。どうすればいいか。それを考えるのは、先延ばししてもいい事だ。ただ、片づけする遺品はある。ピザを口にしながら、もう一度、活気が剥がれつつある部屋を見渡した。 純哉の父親も、風呂で急死した。心筋梗塞だった。死の翌日、碁を打ちに来た友人に発見された。今から11年前の、純哉48歳の晩秋の事だった。 純哉に瓜二つの、細い目に薄い唇の母親は、その2年前に他界していた。一人っ子の純哉は、1人暮らしとなった父親の事を、心配し尽くし、気が抜けない日々を過ごしていた。純哉は責任感の強い男でもあった。当然、護国寺のマンションで一緒に生活しようと何度も誘った。だが父親は馴染み深い千葉県の漁業が盛んな町を、動こうとはしなかった。電気ポットの反応で生存を確認する装置も、宥(なだ)めすかして設置した。また、緊急の連絡が入るかもしれないと、映画やコンサートなど携帯電話の接続が切れる場所には、決して足を運ぼうとはしなかった。傍から朋子は、そこまで気を張らなくてもと思っていた。そんなある晩秋の早朝に、父親の死は突然知らされたのだ。 49日も終わり、納骨も済ませた。純哉と朋子は話し合いの結果、実家を売り、墓も東京に移す事とした。実家の片づけは、少しずつだが週末ごとに進めていた。主人公の色川朋子は、朝食のピザを食べながら、千葉の家を片づけた、ある日の出来事を思い出した。 小春日和と言っていい日だった。父親の部屋は、縁側廊下の内側に、庭を正面に眺めながら客間の隣にあった。雨戸と障子戸を全開して片付けは進んでいた。片付けと言っても、純哉の父親も整理好きであった。遺品を捨てるか残すか決めるだけの作業だった。箪笥の中を片付けながら、純哉が言った。 「朋子、考えようによったら、僕たちに、子供がいなくて、よかたんじゃあないかと思うんだ」 「何なの、突然に……」 「いや、正直言ってね、オヤジが亡くなって、ホッとしたと言うか、解放されたような、そんな気がするんだよね」 「……」朋子は、机の整理の手を止めて純哉を見た。 「僕は、オフクロもそうだけど、オヤジのことも、大事に、孝行をし尽くしたと思っているんだ。後悔なんてないんだ」 「後悔ないでしょうね。あなたほど、親孝行はいないと思うわ」 「その孝行息子が、真実を吐露するんだよ。僕は、オフクロが死んでオヤジが一人暮らしを始めた時、オヤジのことが心配だった。転ぶんじゃあないか、食事を喉に詰まらせるんじゃあないかとね。そんな情景が、つまりオヤジ一人で七転八倒している情景がだなあ、頭に浮かぶと、それから逃れられないんだ。一度、その情景に囚われると、もう居ても立ってもいられないんだ。親って、そんな割り切れない存在なんだよ」 「親ですもの。当たり前だわ」 「でも、それは、とても辛いしがらみなんだ。苦しいんだ。苦しいから、解放されたいと思うんだ。でも解放は、親の死以外にはないんだ。そんなことが頭を過ると、自分で自分が嫌になっちゃうんだ。親の死を想像したと言うだけで、その背徳感に悩むんだ。逆にオヤジにしてみたらどうだろう。息子に心配をかけたくない、負担になりたくない、そんな気持ちで一杯だったと思うんだ。それはそれで、辛いことだ。こうして、お互い情に縛られて苦しむんだ。親子って、切ない関係で結ばれているんだよ」 「だったら、思い切って、子供はいない方がいいってこと?」 純哉は、黙って頷いた。 「でもね純哉さん、もしわたしがひとり残されてしまって、死ぬ時に、悲しんでくれる人が、誰もいないわ。純哉さんが残っても同じよ。寂しくない?」 「悲しみなんて、すぐに遠のくよ。親子でも夫婦でもね。ただ、遠のくと言う事、遠のかれると言う事、それが悲しい」 小春日和の空気は乾いていた。部屋の中は、少し温く埃っぽかった。 「朋子、えらいものが出てきたよ」 箪笥の一番下の抽斗の中を整理していた純哉が言った。朋子は、机の整理の手を止め純哉の後ろに立ち、抽斗の中を覗いた。そこには、夥しい数のエロ本とエロDVDがあった。それも、安房の小藩の殿様の脈を取った家系の末裔らしくキチンと整理され、抽斗の隅に、角を合わせて、ひっそりと積み重ねられていた。若い女の媚びが、男物の衣類の中で微笑んでいた。 「オヤジも男だったんだな。改めて思うよ。寂しかったんだよ」息子は照れ笑いした。「この町じゃあ、校長先生で通っていたから、遠くの町に買いに行ったんだろうなぁ」 純哉は、立ち上がり、縁側に行き、障子の桟に片手をついて庭を眺めた。父親が丹精込めた庭だった。池があり、石があり、庭木があり、盆栽棚には20近くの鉢が並んでいた。 「オヤジも、その本を見ている時は、オフクロのことは忘れていたんだよ、きっと」 朋子も立ち上がり、純哉の手を握った。 「この池を掘ったのは、僕が小学5年生の春だ。この池の水、濁っているだろ?」 確かに、グリーンの入浴剤を振ったような池だった。 「これ、わざとなんだよ。オヤジは、この池に、わざと藻やプランクトンを発生させているんだ。池の中には、緋鯉がいる。赤い鯉がね。それが、ホラ、ああやって」と純哉は指さした。池の面に泡が立ち、緋鯉が口をパクパクさせながら浮き上がって来た。 「緑の水の中から緋鯉が、浮き沈みするのを見るのが好きだったんだよね」 浮き上がった緋鯉の赤は、また緑の水に濁って消えた。 「あいつらも、何とかしてやらないとね」 純哉は朋子の手を握り返した。  朋子は、冷凍ピザとインスタントコーヒの朝食を済ませると、洗面所に立ち入念な歯磨きを始めた。鏡に映る、化粧をしていない顔は正視できなかった。それ程に、疲れ果てていた。ソロバン尽(ず)くめの生活や、労働の煩雑な人間関係から距離を置いたお蔭で、人様より若いと過信していた肌も無残。朋子は、盛大に冷水で顔を叩き、大きく溜息をついた。純哉の部屋に行こう、丁寧にタオルで顔を押さえた。  夫の部屋に行く途中に茶室があった。もともとは夫婦の寝室であった。朋子の我儘が許されて茶室に作り替えていたのだ。床を上げ炉を切った6畳の本格的な茶室だった。火灯口の太鼓襖が半分引かれていた。朋子は、茶室の中を覗いた。床の無双釘に錆竹の花入が掛けてあった。花入に白い椿が一輪、今が満開と寂しく一輪。朋子は茶室に上がり花入を外した。すると椿の首がポタリと畳に落ちた。落ちた花を拾うと、朋子は床柱を背に、その場に座り込んだ。 この錆竹の花入は、朋子の茶名『色川宗彩』の披露茶事で使った。朋子、53歳の初夏の事だ。純哉は、妻の披露茶事に贅沢な支度をしてくれた。場所は高輪の高級料亭の茶室。絵羽模様の黒留袖を誂え、金糸銀糸を織り込んだ帯も奮発してくれた。この花入も黒田正玄だ。購入出来る道具は揃った。しかし、晴れの道具である茶入と茶碗には困った。舞台を盛り上げるだけの茶入茶碗となると、気安く手が届く道具ではないからだ。そこで須藤先生のお嬢さん、あの純哉と朋子を取持った須藤先生は他界されていたので、そのお嬢さんに相談した。須藤先生の道具を引き継いでいたのだ。お嬢さんは、気持ちよく蔵から道具を出してくれた。 茶入、古瀬戸肩衝。三代宗匠書付。銘『残(ざん)香(か)』 茶碗、井戸。二代宗匠書付。銘『青(せい)苔(たい)』 朋子、一世一代のお茶事だった。今、彼女の手元で撫ぜられている竹花入には、浦島草が入れられていた。お茶事は無事に終わった。 無事に終わったとは、ご招待のお客様が笑顔でお帰りになった事と、『残香』と『青苔』に粗相がなかった事、この2つであった。朋子は、お茶事が終わった後、この茶室で、純哉と2人だけの茶会をした時の事を思い出した。  2人は、お茶事の片付けをしていた。 「朋子、お薄が一服飲みたいなぁ、この茶碗で」と純哉が井戸茶碗『青苔』を杉箱から取り出し畳の上に置いた。 「いいわね。夜、夫婦ふたりで跡見の茶会」 2人してお茶会の準備を始めた。 妻が炭火を並べた。 夫が伊賀の水指を据えた。 妻が釜に湯を注いだ。 夫が香木をくべた。 妻が浦島草に霧を吹きかけた。 釜が鳴き始めた。 蓋から湯気が曲を描いて揺れた。 夫が床の前に座った。 妻が太鼓襖を開いた。 夫婦2人、互いに頭を下げ挨拶した。  お点前は淡々と進んでいた。妻のその手元を見ていた夫は、 「僕が定年退職したら、朋子にここでお茶の先生をやってもらって、食わしてもらおうかなぁ」と呟いた。朋子は手を休めず、チラッと夫を見た。 「おいおい、冗談じゃあないんだよ」 「よくってよ。今度は、わたしが純哉さんを養うわ」 「岡本先生は、いくつになったんだ。今日、久しぶりお会いしたけど、ヨボヨボになっていたなぁ」 「確か、89歳じゃあないかしら」 岡本先生は、もうお茶の先生をやっていなかった。朋子は家元直門先生に師事していた。 「そうか、そんなお歳になっていたか」 「あなたを養うのはいいけど、ヨボヨボのおばあちゃんになったら、お茶の先生なんかやりませんからね。はいどうぞ」 妻は点てた茶を出した。 夫はにじりながら、井戸茶碗『青苔』を自分の座に寄せた。そして「お点前、ちょうだいいたします」と茶碗を押し頂き、正面を回してひと口、「結構なお服加減で」 お茶を飲み終わると、肘を畳に着け茶碗を鑑賞し始めた。 妻は「ご相伴します」と言って自服の茶を点て始めた。 「須藤さんにはお礼をどれぐらい包んだらいいんだろうか?」純哉が井戸茶碗『青苔』を撫ぜながら尋ねた。 「お茶入もお借りしたから10万でどうかしら?」 「そうだな。台はどうする。気の利いた菓子でもあるか?」 「純哉さん。あなた何かいいお菓子、知らない?」 「須藤先生は、日本橋の『若紫』がお好きだったんだよな」 「では、それにしましょう」妻は夫の方を向いて、自分で点てたお茶をひと口。 「朋子も、この井戸茶碗で一服どうだ。久しぶりに、僕もお茶を点ててみるか。なまけているから、旨い茶は点てられないぞ」 夫婦は座を交換した。妻は床の浦島草に眼をやった。浦島草は、披露茶事の床を飾ったものだった。夫は妻の視線を追った。 「朋子、その花は、きれいか?」 2人が見ていた浦島草は、このような花である。花と見えるのは苞(ほう)で筒状の仏炎苞だ。カラーに似ている。が、カラーのように清楚な花ではない。蛇が立ち上がり口を開いたように見える。平たく言えばこうだ。涙型の紙を巾の広い方を下にして漏斗(じょうご)のように筒に巻き、それを茎に差し込む。すると、涙型の尖った一端が突き出る。その突き出た端を前に倒すと蛇の顔のようになる。花の、この倒れた部分は舷部(げんぶ)と呼ばれる。舷部と筒の間、蛇の口のように見える隙間から、浦島草の名前の由来となった花序(かじょ)の先端が、釣り竿釣り糸のように長く伸びている。苞は濃い紫色で白い筋が走っている。つまり、浦島草は、紫色の蛇が針金のような舌を長く伸ばしている姿に見えるのだ。 妻は答えた。 「きれいとは、単純には言えないかもしれないわね」 「その花を茶人は、茶花として愛でるんだよね。その花に寄り付く虫にも、蠱惑的に見えているんだよな。僕にも、蠱惑的な花なんだよ。妙に惹かれる」 「確かに、妙に惹かれる花だわ。『グロテスク』なのに目が行ってしまう。目が行ったら、縛られたように逃げられなくなってしまうわ。不思議な花ね」 「浦島草は、性転換するんだよ」 「えっ」 純哉は、ぎこちなくお茶を点て始めた。なにせ、暫らくぶりのお点前なのだ。点てながら純哉は話し続けた。 「浦島草は、小さい時は雄花を苞に隠し、大きくなると、それが雌花になるらしいんだ。虫は小さな時の雄花の花粉を、大きな時の雌花に受粉させるそうなんだよ。受粉させた虫は、苞から出られなくなり、その苞の中で死んでいくらしんだ」 「変わった植物なのね」朋子はボソリと呟き、釜から立ち上る湯気を見た。釜から立ち上る湯気を見ていたら……。  「夏(か)炉(ろ)冬扇(とうせん)って言うのよ」 そう言ったカッチャンの声を思い出した。 思い出の中の思い出の話だ。 口の中が、甘さに重たくなる思い出。 だから、どこかでケーキか何かを食べながら、カッチャンの声を聞いたのだと思う。 観覧車の下のカフェテリアだったような……。カッチャンが、セモタレーヌ・カツコの源氏名で芸能人のバックダンサーをやり始めた頃だったと思う。新宿2丁目『コッコ』のママには変わりないのだが、酔狂で始めたドラッククイーンが、その頃は目新しくて当たったのだ。バックダンサーと言っても素人だ。腰を振りながら手を上下させるだけ。それでNHKの紅白にも出たのだからスゴイ。源氏名のセモタレーヌ・カツコの由来は「楽ダニィ~」と購入した背凭れの座椅子でやるおセックスがお気に入りだからとか。甘いものが大好きなカッチャンの前歯は、いつの間にか差し歯になって、大きく口を開けて笑うと、その黒い裏側が見えた。 「ギャ、ハハハハハ……、なにきょとんとしてんのよ、トモコ」 「だって、カッチャン、難しい言葉使うから……。カロトウ……、何、それ?」 「オカマも、夏炉冬扇。夏炉冬扇とは、この世に不必要なものは何一つないって言う意味の禅語よ。オカマも、不必要な存在じゃあないって、いいたいの、あたし」 「……」 「意味、分かんないでしょう……」 「教えてよ。どう言うこと?」 カッチャンは、例の、おとこおんなのお根性丸出しで勿体付け、なかなか教えてくれない。 朋子は、カッチャンの性格を知っていた。 だから、深く尋ねようとしない。 やがて、口から生まれたカッチャンが、根負けして喋り出す事を知っていたのだ。朋子は話題を変えた。 「見たわよ、紅白。目立っていたわよカッチャン。大出世ね。その内、わたしなんか相手してくれなくなるかもね」 「あんたは、大親友よ。いつまでも、相思相愛のレズ友。紅白よね……。後で録画を見たのよ。お墓の贅肉がプルンプルンで恥ずかしかったわよ。ダイエットしなくちゃあねぇ」と言いながら、その日もカッチャンは、何か甘いものを口にしていたと覚えている。新宿の蟹が名物の和風レストランで働いていた頃のカッチャンは、スマートと言うより、痩せ過ぎで頬も窪んでいた。それが、目の前の顔は、パンパンに膨れ、今起きたばかりのような瞼には、詰め物をしているかのようだった。眼力は相変わらず強い。ただ、いつも濡れているその目は、少し充血していた。 「ギャラ無しなのよ。あたしも、お目出度い人間になったものよ、ギャラなしで働くんだからね。焼きが回ってきたかしら。ギャ、ハッハハハ」 裏が黒い差し歯は、赤黒い歯茎に不自然な境界線を描いていた。 「トモコ、アイドルの〇〇子、いるでしょう?」 「『レモンの感じ』を歌っているあの〇〇子チャン?」 カッチャンは頷いたあと、眉間に縦皺を寄せ、腫れぼったい目を三角形にし、こう続けた、 「それと、『海に見られて』を歌っている△△子。あの2人は、手に負えない性悪ね。紅白のラストで『蛍の光』をみんなで合唱するでしょ? あの時、あたしの前に立った〇〇子と△△子が手を繋いで、あたしを舞台の前に出させないように、バリケードを作ったのよ。ッでね、『蛍の光』に合わせて、その繋いだ手で、あたしのお腹を、ドスン、ドスンと叩いくのよ。『引っ込んでなさいよ』と、言わんばかりの感じでね。意地悪いでしょう。猫撫ぜ声で、清純気取った歌を唄うくせにね」 カッチャンは話し終わると、甘いクリームのようなものが乗ったスプーンを、しばし休んでいる口に運んだ。 確かに、観覧車の下のカフェテリアで過ごした時間だった。 ゆっくり動く観覧車が、地面に影を落としていた。 天気がいい日。半袖だったと思う。 「熱いわね」カッチャンが言った。 「こんな暑い日に暖炉って事はないでしょ?  寒い日に扇子って事もないわよね。夏(か)炉(ろ)冬扇(とうせん)って、そんな意味よ。このちょっと、必要に見えないものも、やがては大事なお役目が回ってくる。この世には、不必要な物は、何一つない。そう言う禅の有難い言葉ダニ。あら、誤解にしないでよ。オカマも紅白に出て、枯れ木も山の賑わいになります……、って事が言いたい訳じゃあないのよ。あたしたちは、子孫繁栄そっち除けの、まともなおセックスをしていないように見えているでしょう? でも、長い目で見たら、深い意味のある事をやっているのかもしれないのよ。トモコみたいに大学出のインテリじゃあないから、あたし難しい事は分かんないのよ。でもあれでしょ、黴菌なんかは、無性生殖とか言って、分裂して、それで増えるのでしょう?」 朋子は頭の中で、大学時代やった、黄色ブドウ球菌やサルモネラ菌の培養を思い出した。シャーレの寒天の上で、みるみる内に増殖していくのだ。あれは、おセックスで増殖しているのではなかった。 「一番古い生物は、みんなああやって増えていったのよね。それから何十億年もかけて、どんな環境の変化にも負けない、強い別のものに進化しようとして、他人様? いや他菌様とチョメチョメした。こうやって、別のものを生み出す方法、凹凸を思いついていったのよね。つまり有性生殖ってこと……。無性生殖の菌から見たら、有性生殖のヤツらは、変態にしか見えたはずよ。まあ菌は、オツムが悪いから、そんな余計なこと思わないかもしれないけどね。トモコ、聞いた話じゃ、地球って何が起こるか想像出来ないって言うじゃない。変な宇宙線が降って来たり、オゾン層とかって難しこと分かんないけど、〇〇子や△△子のバリケードみたいなものでしょう。あれで地球は守られているって言うじゃない。でも、ひょんな事で、オゾン層が破れたりするかもしれないじゃない。それで、男と女を分け隔てている染色体っていう脆いヤツが、壊れるかもしれないじゃない。他にも、どんな災難がね、地球に降りかかってくるか、分かんないじゃない。その時の用心、マン万が一、転ばぬ先の杖、あんなことがあっても、こんなことがあっても、生物って生き残るように、試行錯誤しているのよ。凸同士、凹同士もそのひとつよ。だから、オカマは、神様……、あら誤解しないでよ。あたし神様なんて信じていないから。方便で言っているのよ神様ってね。神様は、オカマもこの世に送り出して、実験なさっているのよ。ッて訳でオカマが、夏の暖炉や、冬の扇子のようにいらないものに見えていたって、必要なものなのよ。これが、セモタレーヌ・カツコの『変態進化論』よ」  「やっぱり手順を覚えていないんだなぁ。しばらく休んでいたからなぁ。また、お茶、始めてみるか」と言って純哉は井戸茶碗『青苔』を畳の上に置いた。朋子は膝行して『青苔』を座に運んだ。茶碗の中を見た。泡だった薄茶より、粘った濃茶の方が、井戸茶碗には似合う。朋子は改めて納得していた。 「お点前、頂戴いたします」茶碗を押し頂き正面を避けてひと口、そして。 「結構なお服加減でございます」 朋子の掌に、茶碗の大きさ、肌触り、暖かさが溶け込んだ。茶碗と一体化する心地の良さがあった。朋子が茶碗の不思議に酔っていると、 「浦島草に惹かれるのは、その『グロテスク』さからなんだよ。何かを連想しないか、その花に?」夫が尋ねた。 妻の唇は茶碗から離れた。妻は花を見た。 「女性器に似ていると思わないか?」 妻は夫を見た。 「もともと花は、人間で言えば股の部分だ。いろいろな花の形状はあるよ。ただハッキリ言い切れるのは、どの花も、そこが生殖の舞台なんだよ。人にも虫にも蠱惑的に見えるのは、そんなことが理由なんだろうなぁ。薔薇の花、百合の花、チューリップ、コスモス。全部、工夫を凝らして演出している。蠱惑、誘惑、混乱、陶酔、淫靡、破壊の演出をね。この浦島草の『グロテスク』も、その演出のひとつなんだよ。性器って、客観的に思えば、『グロテスク』以外の何物でもないんだ。しかし人は、その『グロテスク』に惹かれようにプログラミングされている。そもそも、『グロテスク』を求める気持ちがなければ、性交は成立しないんだよ。つまり『グロテスク』は、スイッチの入れ方ひとつで、エロスになるんだ。浦島草に不思議な魅力を感じるのは、生殖器を見て、ハッとする感覚に似ているんだ。『美』に執着する茶人は、『グロテスク』にも敏感なんだ。そして『グロテスク』の本質にも、気が付くんだよ」   作者の疋田レンです。 何か、悪い予感がする。この流れのまま話が進めば、主人公の夫純哉は、また下らない美学論を喋り出すに違いない。作者は、アッカンベーまでして、彼の美学論に決別をした積りだ。しかし、あれから20年以上が経っている。東京都生活文化局で日々煩雑な業務に追われている純哉が、疋田レンの20年も昔の嫌悪感など覚えている筈はない。今、改めて明らかな不快感の秋波を、純哉に送っているが、どうやら彼には届いていないようだ。平然と、こう続けた。  「『グロテスク』なら何でもエロティックか蠱惑的かと言うと、それは違うんだなぁ。まず、『グロテスク』に『浪漫』が見え隠れしていなければ、蠱惑的ではなんだよ。『物語』と言ってもいいが、ニュアンスが少し違う。ここはやはり『浪漫』の方が、シックリくる。アワビやナマコは、エロティックだろうか? 我々人間には、そうは感じられない。でも、ヤツらには、ヤツらしか感じない蠱惑が、プログラミングされているはずなんだ。日本猿が赤いケツに発情するようにね。ところが、蜥蜴や蛇となると『グロテスク』も、微妙にエロティックさを帯びてくるんだ。蜥蜴や蛇には怪しい『浪漫』が見え隠れするからね。ハンドバックや財布に使われるのも、道理だ。この浦島草も、花だと言う『浪漫』がバックにある。浦島草は花なんだと言う認識のスイッチをオフにしたら、床にこんなもの、飾りたくはならないんじゃあないだろうか? 次にね、『グロテスク』に『美』が見え隠れしていなければ、エロティックではないんだ。性器は自分の好みにあった人間のものでないと魅力はない。例えば性器だけの写真をチラッと見せられたとする。そこには好き嫌いを認識する顔はない。でも、人間は、チラッと見たその瞬間に、心理の奥底で、それを魅力的に感じる『美』やそれに類似する何かを補って、エロティックに感じることができる。無理にセックスする時も同じだと思うんだ。最後にね、『グロテスク』に『同化』がなければ、エロティックではないんだ。ほとんどの人間は、猫や犬の生殖器に魅力は感じない。感じてしまえば、感染症になったり、変わった脆弱な生物を作り出すかもしれない。危険な事なんだ。だから脳に『同化』できる同種の人間の生殖器にしか、エロティシズムを抱かせないようにプログラミングされているんだ。だたね、生物は自分に近い異種の生物とは性交を重ねて、進化してきた歴史がある。何億分の一の成功があって、この多種多様の生物が地球に充ちているんだからね。『浪漫』『美』『同化』このいづれかが『グロテスク』の裏側になければ、蠱惑的にはならないんだ」  妻には、夫の話の中で、心に突き刺さった言葉があった。 「無理にセックスする時も同じだと思うんだ」夫は、無理にセックスをする時、何かで補う、とも言った。事実かもしれない。彼女自身も経験がある。しかし、口にして欲しくなかった。『カップルでエステとマッサージ』の施術を受けたその日の夜の営みで、純哉が心臓発作の騒動を起こしたことは生々しい。それ以来この夫婦は、おセックスレスだ。だからと言って、妻に対して「無理にセックスする時」とは、簡単に口にする言葉ではない。夫にしては、無神経過ぎると妻は思った。 「『グロテスク』に見え隠れしている『美』の話なんだけどね、今度は『美』の方向から考えてみよう。朋子は、その昔、新宿喫茶店で、コーヒーにミルクと砂糖を入れたら、ブラックよりコーヒーの苦みが楽しめる、と言ったんだけど、覚えているかなぁ?」 「いいえ。そんなこと言いました?」 「そりゃそうだ、覚えているはずないよ。本当に大昔の話さ。付き合っていた頃かなぁ……。何でそんな話になったのか思い出せない。だけど、『美』について、あれこれ話をしていて、そんな話題になったことだけは記憶している。『美』と『グロテスク』は、相反するもの同士みたいだけど、相性がいいんだ。夜空で花火が開くような感じかな。お汁粉に塩昆布。コーヒーにミルクと砂糖だな。『美』に『美』を上塗りしたものは、崇高で高潔で、近寄り難い。つまり、面白くもクソもないんだ。すべての色の光が重なると無色透明になるらしい。あれと同じだ。無味乾燥だ。やはり濁りや陰がなければ面白味がない。『美』に『グロテスク』が溺れたとき、あるいは『グロテスク』に『美』が閉じ込められたとき、互いは悦びあい、恍惚とした輝きを見せるんだ。ハスキーボイスってヤツは、単なるガラガラ声ではなくて、音の周波数を分析すると、澄んだ高音域を含んでいるらしい。『グロテスク』に『美』この2つが絶妙に混ざり合うと、あわれ、叙情なんて言葉が似合うように色めくんだ。意外性の面白味もあるなぁ。満艦飾の姫君より、零落した姫君の方が惹かれないか?」  妻は、夫の話は、少し飛躍し過ぎていると思った。極端から極端に思考するこの人らしい話だとも思った。と同時に、ふと、こんな出来事を思い出した。 それは早朝の有楽町線の電車の中だった。何で、そんなに早く地下鉄に乗ったのか思い出せなかった。始発に近い電車だった。人はまばら。朋子は座席から、ある少女をチラチラ見ていた。色白で、髪の長い、子供なのに薄幸さえ漂わせた美少女を見ていた。少女は隅のドアー間近に立ち、ガラスに自分の顔を映しながら髪をいじっていた。朋子は、そのガラス越しに少女の顔を見ていた。濡れた大きな瞳や、まつ毛の長さまで、ガラスは映していた。ちょっとやそっとでは、お目に掛かれない美少女だった。朋子は、早朝、目の覚めるような思いで見ていた、その時だ。少女はガラスにキスをするほど顔を近づけた。本当にキスをするのかと朋子は驚いた。それ程の美少女だった。しかし少女は、人差し指を鼻の孔に突っ込み鼻クソを穿(ほじ)り始めた。確かに人影まばらな早朝電車だ。少女には、隅のドアー間近の自分を、誰も見ていないだろうと油断があったのだろう。美少女が鼻クソを穿る姿は、衝撃だった。もっと衝撃で目を疑った事があった。穿り出した鼻クソを少女はペロリと口に入れたのだ。 美少女のこの行為は、複雑で屈折した感情を朋子に課した。夢か幻か、エロスか『グロテスク』か。汚い行儀の悪い姿とは、単純に割り切れないものだった。薔薇の棘が肌を掠ったような、あの複雑な感受は何だったのだろう。  「朋子、その井戸茶碗の『青苔』は、きれいか?」純哉は妻の手元の茶碗と妻の顔を交互に見ながら尋ねた。 その昔、『井戸茶碗』の美術展の余波で語った内容に近づいた。あの時は、『鎖国』『奢侈禁止令』『粋』だ『野暮』などと、突拍子もない語彙を駆使しながら、目から鼻に抜けるような結論は出てこなかった。作者はシビレを切らし、色川純哉の美学講義をウンザリ顔で強制中断をさせた。あれから20年以上の年月が過ぎた。20年以上経っても、同じテーマを手を変え品を変え話せるなら、それはそれで立派な芸当だ。興味半分で拝聴する事とした。  「その昔、井戸茶碗の『美』について、2人して話したことがあったんだけど、覚えているかなぁ?」 作者は覚えていたが、主人公の朋子は覚えていないと首を横に振った。純哉は、口角に白い歯を覗かせて微笑むと頷いた。 「でっ、その『青苔』はきれいか?」夫は重ねて聞いてきた。 琵琶色の釉薬に、ちらほら緑が混じっていた。これが岩に付いた苔のように見えるので『青苔』と銘付けられたのだろう。苔の付いた岩は、この茶碗の肌。ヌメッとした釉薬。入(にゅう)が走り、そこからシミが広がっていた。 妻は答えた。 「きれいとは言えないわ」 「じゃあ、何でこんなに有難がるんだ、その茶碗を」 「仏像のように歴史的価値があるからじゃあない」 「つまり、『浪漫』『物語』か? だから汚れていても許されるし、有難いって訳か?」 「そうね。そうかもしれないわね」 「今日も、多くの客がその茶碗でお茶を飲んだ。だがもし、歴史的価値のある、古い汚れた菓子器にお菓子を盛って出しても、客は許してくれただろうか?」 「……」 「多分、汚い不衛生だと、敬遠されただろうなぁ。どうして茶碗なら許され、菓子器になると敬遠されるのだろう」 「不思議ね」妻は言った。 「多分我々は、茶碗を食器とは思っていないんだよ」 「食器じゃなければ、何なの?」 「人と思っているんだよ」 「人?」 「人は、ちょっと語弊があるなぁ……、言い過ぎだなぁ……、自分に属している身体の一部と言ったほうが、適しているかなぁ……。今、朋子が、撫ぜ擦っているその茶碗の肌合い、暖かさ、掌に包み込まれる形と大きさ、どうだ、心地よさに酔って『同化』を実感できないか? 朋子が、そうやって撫で擦ると、茶碗はグッと朋子に近づいてくる感じがしないか? 確かに、無機的な単なる器にしか過ぎないが、有機的な『同化』を感じてこないか? 色気さえ出てきたように感じないか?」 「……」妻は、夫にそのように指摘される前から、自分の体温と茶碗の温かみか馴染んで、一体化したように感じていた。 「朋子が撫で擦る動作と同じものを、その茶碗は、過去、何百年と受けてきたんだ。撫ぜ擦られると、その器は、命を吹き込まれるんだ。いや、そんな非科学的なことは、実際には起こらないが、人には、きっと、そう見えてくるんだ。どんな命を吹き込ませたと思う? 尊び敬愛すべき命だと思うか? そうじゃないんだ。茶碗としての使命を吹き込んだんだ。徹底して吹き込んだんだ。人のために尽くさせる、実際尽くす、そんな過酷な命を、これでもかと、吹き込んだんだ。それもだ、撫ぜ擦り慈しみながら、吹き込んだんだ。その結果は、あわれな残骸となった。目には無残なやつれが残った。何しろ人のために尽くしきった姿だからな。その姿を目にした人は、痛々しさを憐れむ同情がわく。かわいそうに、と心が疼く。そうなると、茶碗に自分が、自分が茶碗に、『同化』したような錯覚がおきる。触覚の『同化』と視覚の『同化』この2つの『同化』の恍惚に、残忍な征服感が縺れ合う。なにせそれは、人に尽くしきった成れの果てなんだからね。愛着のある鞄や財布。ボロボロのジーパン。あれらに固執するのも、同じ感覚だ。仏像だってそうだ。心と目で撫ぜ擦り、人に尽くしたあわれな姿に、『同化』する恍惚と征服感を抱いて、有難がっているんだ。ところで、『同化』という言葉は、何かをイメージさせないか?」 「……」妻は小首を傾(かし)げた。 「セックスと言う言葉を、イメージしないか? ジーパンは身に着ける。茶碗は唇を付けるんだ。それも、汚れた『グロテスク』な、非日常的な器にだ。その行為は、ハッキリ言えないが、深層心理に、何か自己破壊や死への憧憬がほのめいているようなんだ。『グロテスク』に『同化』する行為、それは禁断の、背徳の、禁忌を犯す魅力なのかもしれない。 ところで、井戸茶碗の中に『美』があるかと言えば、どうやら『美』はないようだ。ただ、井戸茶碗の『グロテスク』に『同化』しようとする人間を見て、陰でこっそり覗き見をしていた『美』が井戸茶碗の向こう側に、ギョッと浮かび上がってくるんだ。浮かび上がった『美』は恐れおののく。『美』は恐れおののいて嫉妬するんだ。涙するんだ。そして、その瞬間こそ、『美』が最も輝く時なんだ。人は、それも『美』に固執する人は、井戸茶碗を見たその一瞬に、自分が井戸茶碗に『同化』する、つまりセックスをするイメージが想像出来て、井戸茶碗の向こう側に、嫉妬し涙して輝いている『美』を目の当たりに出来るんだよ、きっと」 「……」妻は黙っていた。 「滅ぶ感覚、窶(やつ)れる感覚、錆びる感覚、綻びる感覚、破れる感覚、擦り切れる感覚、汚れる感覚に『同化』するのは、狭い島国で、ジメジメした気候の下で、発酵や激しい季節の移り変わりを繰り返した、日本人が特に共感できる感覚かもしれない。一言で言えば、もののあわれだ。ただ、もののあわれの本質は、エロティシズムなんだ」  何を言っているのだろう、と思った読者も多いと思う。作者もそうだ。これは、幼い頃から空想好きで、自分の部屋の四方を文学本で埋める男のディレタンティズムの挙句。戯言だと理解すればいいのではないだろうか。いずれにしても、これが純哉の井戸茶碗の『美』の秘密らしい。朋子も、理屈っぽい面を持っている。それに妻である。伴侶である。彼女は、なんとなく分かったのだろう、「そんなものかしら……」と一言もらした。  夫婦2人の、しめやかなお茶会は終わったようだ。 「さあ、朋子、茶碗をぬるま湯で濯いで乾かしておこう」 『青苔』は、純哉の手元に戻っていた。 「わたし、漂白したいくらい。やっぱり」 「馬鹿言うなよ」 2人の笑い声が、3LDKの一室、茶室に穏やかに揺れた。  笑い声の余波さえ残っていない茶室で、錆竹の花入を弄くりながら回想に沈んでいた朋子。ハッと現実に浮き上がった。今日は池袋に買い物に行かなければならないのだ。それに母親も上京して来る。あまり時間は無駄に出来ない。朋子は夫の部屋へ向かった。  ドアーに立って、ノックをした。長い習慣だ。誰もいないのに、いる筈もないのにノックした。この律儀な習慣が哀しかった。ドアーを開けた。椅子に座っていた純哉が、薄い唇の口角を吊り上げて微笑んで座っていた。「朋子、何か用か?」……、と続ければ、また変わった物語に展開するかもしれない。しかし、そんなあんなこんな引っ掛け遊びの手は休め、物語の結末に突き進もうと思う。  部屋の四方の棚には、ギッシリ、ギッシリだ、本とCDが並んでいた。地震が来ても、零れ落ちる本もCDも無いほどだ。朋子はこの遺品をどうしようかと、夫のベッドに座って眺め回した。片付けて処分する? いや、しばらくはこのままにして、寂しくなったらここへ足を運ぶ? それもいいかもしれない。ただ今はそこまで考えられなかった。朋子は、ベッドに横たわった。ベッドに夫の面影を探った。純哉には体臭がなかった。整髪剤もクリームも無香料のものしか使わなかった。しかし彼女は感じた。妻には、そして匂いに敏感な朋子には、微かな気配が感じられた。枕に顔を伏せた。呼吸は深く静かだった。 「寂しいわ、寂しいわ……」朋子は2度口に出して言った。また、泣いていたのだ。  「そんなに、泣かない、トモコ」 カッチャン、新宿二丁目ゲイバー『コッコ』のママ、源氏名セモタレーヌ・カツコの声だ。「そんなに、泣かない、トモコ」と言った時、『コッコ』のママの肩書きと、セモタレーヌ・カツコの源氏名は、返上していた。甘いものが大好物で、歳を重ねるごとに、肥満の度合いを増していたカッチャン。が、とうとう、糖尿病となり、水商売も芸能活動も出来なくなっていたのだ。糖尿病は、かなりの重度。目も霞んで、外出もままならない状態になっていた。朋子は、久しぶりの電話で、そのことを本人から聞いた。彼女は、頃合いをみてカッチャンを見舞おうと思っていた。そして、カッチャンが住む中野坂上の駅から、たまたま用事があって、と嘘の電話をした。カッチャンは、ウチに来ても、チラかっているから、駅前の喫茶店で会おうと、力ない声を出した。これは、純哉が死んだ丁度1年前の挿話だ。2人は、同じ歳。2人して56歳になっていた。  指定された喫茶店で、入口を凝視していた朋子は、カッチャンの変わりようにまず驚いた。ふくよかだった体形は、一削りされ、そんな筈はないのだが、身長も低くなったように見えた。サングラスをかけ、脇にラインの入った紺色のスエット上下にベージュのコートを羽織って登場した。つっかけ履きの足を引きずりながら、ヨロヨロと朋子の前に来て、 「トモコ、びっくりしたようね。あんたの顔を見たら分かるわ。目に刺激与えると、いけないそうだから、サングラスのまま失礼するわよ」と言って椅子に腰かけた。あの粘着テープのような声は、完全に錆び付いていた。 「わざわざ出て来てもらって、悪かったわ。これ、お見舞い」と言って、バラをふんだんにあしらった花束と、お見舞いの現金を包んだ封筒を渡した。カッチャンは、封筒を押し頂いた後、花束を抱きかかえ、香りを深く吸い込んだ。 「甘いものが食べられないから、バラの匂いが嬉しいわ」微笑んでそう言う口の、差し歯以外の歯は生気がなかった。  カッチャンは、カモミールティーを飲みながら、病状の報告をしてくれた。とにかく、内臓脂肪の数値が高すぎてインシュリンが効かない。その数値を下げながら、体重を落とす事を目下奮闘中だと言った。 「ほっておくと失明するらしいのよ」カッチャンは、サングラスをチラッと外して目を覗かせた。 「真っ赤でしょう?」 朋子は首を縦にした。 「足もね、水虫なんかに罹ると、切断しなきゃならないらしいの。だから、相当、気を張ってんのよ」 朋子は、唇を窄(すぼ)め、瞼を何度もしばたき同情を示した。 「身体中の血管が、変になっちゃてるのよ。もう、ボロボロ。ちょっと飲み食いし過ぎたかしらね」 カモミールティーを口に運ぶ指は震えていた。ティーカップを受け皿に置くと、その指でカッチャンは、頬をポリポリ掻いた。その肌は、荒れていた。顔色は悪くないのだが。 「こんな状態だから、仕事なんて出来やしない。貯金を崩し崩し、ここまで何とかやってきたけど、もう底つくのよ、あら、心配しないで、人様に縋(すが)ろうなんて、腐った根性はないからね。いざとなったら、生活保護ね。基本的人権、万歳ね」 「でも、本当に困ったことがあったら、声かけてね、カッチャン」 「ありがとね、トモコ」 カッチャンは、「お冷。おかわり頂戴」とカウンターに声かけた。 「佐久の田舎の両親は、もうとっくに死んでんのよ。弟が、佐久にいるけど、帰って来られちゃ迷惑だと思っているみたいで、電話も出ないのよ。誰が、あんな薄ら馬鹿に頼るもんか、あいつ、このあたしが泣きつくなんて、馬鹿勘違いしている」 朋子は、言葉が作れず黙ったままだった。 「こう見えても、あたし、親孝行はした積りよ。おカネが回っていた頃には、弟にも、ちゃんと義理は果たして来たわ」と呟いてから、上着のファスナーを下げた。 「これ、お母ちゃんが、死ぬ前に、あたしに送ってきたお守りダニ」と紫色のお守り袋を覗かせた。それは、紐で結んで首に下げられていた。無信心だったカッチャンは、いつの間に宗旨替えしたのだろう。 「ウチのお墓のあるお寺のお守りダニ。あたしね、これがね、気持ちの支えなのよ。肌身離さずこうやってブラ下げて、寝る前に『おかあちゃん』と『仏様』に手を合わせてんのよ。こんな、何の楽しみもない、線香臭い毎日よ。下の方も機能しないのよ」 「……」朋子は、小首を傾(かし)げた。 「ハッハッハ……」カッチャンは差し歯と生気のない歯を覗かせて笑った。 「使い過ぎたかしらね、勃たないのよ、股にぶら下げているものが……」と言って膝の辺りをボリボリ掻いた。 「仕事もない、おカネもない、友達、あら、トモコは大事なレズ友だったわね……、トモコ以外に友達も肉親もいない……」カッチャンは、切れ味の悪い剃刀で髭を剃ったのだろうか、口廻りの荒れた肌に、血の点々があった。 「その上、お下(しも)の楽しみもないとなったら、お先真っ暗」 朋子は、カッチャンの口元を見ながら、この辺で自分が言葉を継がなければと思った。このままでは、底知れない暗さで会話が途切れる。お見舞いの常套は、自分の災難を話題に挙げることだ。朋子は思いつくまま、 「わたしだって、似たようなものよ」と言った。 「えッ?」と答えたカッチャンに、朋子は語った。カッチャンから貰った『カップルでエステとマッサージ』のクーポン券を使った夜のおセックスで、夫が心臓麻痺になり、救急車を呼んだ事。そんな恐ろしい事があった後も、夫が求めてきた事。あの夜がトラウマの朋子は、夫の求めを2回拒んだ事。2回拒まれた夫に、3回目の誘いはなかった事。こうして夫婦は、自然におセックスレスになった事。などなど、などなどを話した。 「あやうく、腹上死になりそうだったの?」 朋子は頷いた。 「あたし、そんなクーポン券、あげたぁ? そぉ……。トモコ、あんたも寂しいでしょう? 女だって、性欲あるでしょう? 変なこと聞くようだけど、自分で処理してんの?」  そうなのだ、初老への坂道を、ゼイゼイ息切れしながら登っている朋子。5年前に閉経もしていた。しかし、閉経していてから、かえって性欲は強くなっていたようだった。初老の坂道を登る身でありながら、朋子はマスターベーションをしていた。頻繁ではない。確かに回数は相当減った。が、していた。事実だ。彼女の性器は、生キズのように色が深くなり、やはり生キズのように敏感になっていた。それは、女の業罪のようで、恥ずかしい。恥ずかしいが、「自分で処理してんの?」と尋ねたカッチャンに、素直に頷いた。 「そう……。わたしみたいに、糖尿病で、その気も萎えて、ついでに下も萎えっぱなしの方が、ある意味、割り切れて、救われるのかもね」 カッチャンは、「お冷。おかわりね」と、またカウンターに声かけた。 「わたしが、拒んで、純哉さん、やるせないんじゃあないかしら。ただ、心臓の件にかこつけて、拒んだと思って欲しくはないの。わたし、本当は、純哉さんの肌恋しいのよ。でも、不思議なもので、無ければ無いで、それが普通になるのよ。本音言うとね、もういいわ、って思ったりもするの。そして、陰で、自分を慰めているの。身体の弱い夫を思うと、気持ちが複雑よ。健康で、女の欲を、ひた隠している妻と生活させて……」 「ハッハッハ、いいじゃない。もうお互い、そんな純情は返上したでしょう」 「カッチャンね、女って、そう単純には吹っ切れない生き物よ」 「で、陰でこっそり、チョメチョメ?」 「……」朋子に返す言葉はない。 「それはそれ、ってこと?」 「だから、純哉さんに悪いって……」 「何を言ってんの、旦那も、しっかりやることは、やっているわよ。あんたの業欲と同じぐらいにね。お互い様よ。あんたたちのように子供がいないと、余計なことを考える時間がいっぱいあるからねぇ」 「他所に、オンナを作っているってこと? 心臓の病気があるのに?」 「オンナがいるかどうかは、知らないけど、そんなことを言っているんじゃあなくて、あんたがやっている、お一人様遊びを、ご亭主も、やっているって言ってんのよ」 「心臓が弱いのに?」 「ご亭主、あんたより、2つ上だったわよねぇ?」 朋子は頷いた。 「じゃあ、58歳ね。58歳ひく15歳として、43年ね。43年間やってきたんだから、自分の体調と相談しながら、お一人様遊びと上手く付き合っているわよ、心配しなくても。あたしは、身体に相談しようにも、勃たないんだから、どうしようもないけどね」 「……」 「トモコ、何びっくりした顔をしてんのよ。あんたもやっているんだから、同じじゃないの」 「でもね」 「でもじゃないの」 カッチャンは、カウンターにお冷のおかわりを催促した後こう続けた。 「男は頭で、おセックスをやるのよ。女房がいても、外にオンナこしらえても、満足なんて、してない、してない。特にあんた、何年も寄り添った古女房に、なんで今更、興奮できるのよ。脳ミソで補って、何とかカンとか、勃たせてんのよ。その延長線上に、お一人様遊びが、ないわけないじゃない。それにねぇ、あんたがオシッコを我慢できないと同じように、出すもの出すのが、男なのよ」 カッチャンは、「脳ミソで補って、何とかカンとか、勃たせてんのよ」と言った。かつて、純哉からも似たような話を聞いた気がする。いつどこで聴いたのか思い出す朋子。すると、カッチャンが次のように言葉を繋いだ。 「あたしが、今まで、男を観察してきてね、分かったことのひとつを教えてあげる。年齢を重ねるごとに、男は変態になっていくってことよ。ただし馬鹿は除外だけどね。頭でしてんのよ、頭でおセックス。何10年もね。その頭の中が進化しない訳ないじゃない。ロマンティックなインテリほど、内容が複雑よ。よく聞かない? ふんぞり返って偉ぶっている男が、鞭に叩かれて歓声を上げるとか、男ぶっている人が、夜な夜な女装して、女学生や娼婦になっているとか。あたし、大学出じゃないから、上手く言えないけど、真反対のものと交わる冒険に興奮するのよ。抑圧の開放ってことかしらね」 抑圧の開放はさておき、女だって似たものだ、と朋子は思った。現に、彼女自身のマスターベーションの空想も変化して来た。最初は、純愛ストーリーだった。それが、いつの間にか、見も知らずの男性に無理やり犯されるようになり、複雑な場面設定をするようになった。そして、それに飽きたら、と言うか人の頭は実に優れもので、飽きたら、飽きを埋める空想が広がる。朋子も、自分を、売り物、見世物にする空想もした。登場人物も様々、相手も1人とは限らない。なんとなく、嗜虐に傾いていた。これは、朋子も人並みに進化したと言う事だ。繰り返す。朋子も人並みに進化したと言う事だ。もう一度繰り返してもいいだろう。朋子も人並みに進化したと言う事だ。 ただし、どんなに進化しても、純哉がその空想に立ち入る隙はなかった。例えば純哉の前でとかだ。心の奥底で、結婚生活を汚したくないと忌避していたのだろうか? それとも単純にシラケると思い、汚れた舞台のオーディションに、夫を合格させなかったのだろうか? カッチャンは、3杯目のお冷を空にした。 「トモコ、旦那は拒否されて、肩の荷下ろしているかもしれないわよ」 健康な時のカッチャンは、この手の話をする時、コロコロ変化(へんげ)する表情と、気持ちを逆撫ぜる声の抑揚を使っていた。おとこおんなの本性丸出で。しかし、その影はすっかり鳴りを潜めていた。なぜか寂しい。カッチャンの肩周りに、白い粉が散らばっていた。フケだろうか? そうかもしれない。しかし、どうらや、頬の剥落した皮膚の残骸らしかった。 「肩の荷、下ろしていないと思うわ。むしろ、荷を重くしているわ」朋子は呟いた。 カッチャンは、持ち上げていた催促のお冷のグラスを、静かにテーブルに置いた。指が震えていたので、少しガタガタと音をさせて置いた。震える指の爪は、少し白く濁っていた。 朋子は続けた。 「そう言うものではないのよ夫婦は。いえ、少なくとも、わたしたち夫婦は。わたしたちは、いたわり合って生きてきたの。喜ばせる喜びと、喜んであげる喜びを噛みしめながらよ。芝居なのかもしれないし、嘘なのかもしれない。芝居だ嘘だと、分かっての演技かもしれない。それでも、その演技が、その嘘が嬉しいのよ。それが、いたわり合いと言う気がするわ。いたわり合いの手段は、いろいろあるわ。ただ、その思いが一番通じるのが、セックスよ。いたわり合う夫婦にしか、理解できないものよ。これは、他人には分からない領域。セックスがなくたって、夫婦は壊れはしないし、崩れもしない。でも、あるとないとでは、大違いなのよ」 「そうね、きっと、そうね」 催促した水がグラスに注がれた。沈黙して水が満ちるのを2人は見つめた。ちょっとだけ長い沈黙だった。その気まずい沈黙を誤魔化すように、朋子はカッチャンに昔話を始めた。新宿の蟹が名物の和風レストランに勤めていた頃の話だ。チーフ格だったカッチャンに、優しく仕事を教えてもらった事。朋子の失敗をカッチャンに庇ってもらった事。アルバイトが終わると2人して喫茶店で冗談を言い合って笑い転げていた事。などなど。カッチャンは、朋子の話す思い出の1つ1つに黙って頷いていた。 また沈黙に包まれた。 「それそろ、お開きとしましょう」カッチャンが言った。 「あっ、ゴメンなさい。身体が悪いのに、こんな長い時間」 「いいのよ」カッチャンは、テーブルの上の伝票に手を出した。 「会計は、わたしがするわ」朋子がバッグの口を開いた。 「いいの、いいの。ここは、あたしに出させて。トモコには、ずっと奢られっぱなしだったもの」 カッチャンは、伝票を手にして立ち上がると、 「トモコ、もう会わないようにしましょう。それが、お互いのためだと思うわ」と言った。 「カッチャン」 「元気で暮らすのよ」 「カッチャン」朋子の目に涙が溢れた。 「そんなに、泣かない、トモコ」 カッチャンは、コートを羽織り、1人レジへ歩いて行った。そして会計を済ますと、椅子に座ったままの朋子に顔を向けた。 カッチャンは笑った。 笑ってから、陽気な女の子のように手を振った。 朋子は、まだ泣いていた。 立ち去るカッチャンの後ろ姿を見ながら、泣いていた。 朋子は、純哉のベッドで泣いてばかりいた訳ではなかった。夫と擬(なぞら)えた布団を撫でながら、今日の段取り、明日の段取りと、思い巡らしていた。カーテンから漏れた光で、時間が昼に近づいた事を知った。朋子は、勢いよくカーテンを開けた。 朋子はリビングルームに戻り、サイドテーブルの抽斗を引いた。そこに今年届いた年賀状の束があったのだ。右手に年賀状、左手に彼女のスマートフォン、肘にバッグを下げ、純哉の部屋に戻った。そして椅子に腰かけ、机の上で年賀状を繰り始めた。今日、池袋に、夫が懇意にしていた人たちへの贈り物を買いに行く。夫の机で夫と相談しながら、その届け先を選び始めた訳だ。 こうやって、1つまた1つと、夫の人生の片付けを始めると、千葉の純哉の実家を引き上げた時の事を思い出した。あの時は2人だった。片付ける純哉の手は、静かで遅かった。区切りを付けていたのだ。この夫の部屋どうするか。妻にまだ決心はないが、片付けるのは1人だ。その情景を想像すると、無性に寂しかった。哀しかった。と、ふと、その悲しさを打ち消す記憶が湧き上がってきた。義父の箪笥の中から、卑猥な遺品が出てきた記憶だ。この部屋からも、何かが出てくるかもしれない。朋子は、本とCDがギッシリ並んでいる四方を見渡した。何かが出てきたら怖いと思った。 脳裏に、バスルームに転がっていた純哉のスマートフォンの動画が蘇った。 スゥーと消えていった画面。 3秒見たかどうかの動画。 本当は、見ていなかったのかもしれない動画。 朋子は自分自身に問うた。 見たとしたら、夢か幻だ。 夢か幻。 歌の文句のようだが、実際そう言う事はあるのかもしれない。 夢か幻なら、純哉はヒートショックで心筋症に起こしたのだろう。 しかし、あの動画が原因で夫は死んだのではないかと、ずっと疑っていた。 朋子は頭を激しく左右にして、夢か幻を振り払った。 そこに、スマートフォンが鳴った。朋子のスマートフォンがだ。 「もしもし」 「朋チャン」松本の次姉の声だった。 「大丈夫? しっかりしている? 今、新宿に着いたところ。ええ、ママも一緒。塩尻の叔父さん夫婦もご一緒」 塩尻の叔父とは、今は亡き朋子の父親の弟の事だ。父親は、この塩尻の叔父と、2人兄弟だった。次姉は続けた。 「わたしは、ダンナと来ているの。ママに、昼ご飯食べてから、朋チャンに会いましょうねって言ったズラが、ママが、朋チャンの顔が一刻も早く見たいって、聞かないの。これから、そっちに行っても、いいカヤ?」 朋子は、セレモニーホールのエントランスで待っていると答え、電話を切った。そして、その手で長姉に電話をかけ、13時に、みんなで合流したいと伝えた。  朋子は、急いで年賀状の選別を終えた。そして、この純哉の最後の贈り物を、純哉のお金から出すのもいいだろうと思った。財布は、机の左側に立てかけてある、ブリーフケースの中にあるかもしれない。朋子は、それを持ち上げ、中を探った。財布はあった。財布の口を開いた。キャッシュカード並ぶ次のポケットに、3万円の現金があった。これでは足りないが、足りない分は、自分が補おう。最初からその積りだった。現金があったポケットの次にも、またポケットがあった。そこには、数枚のカードが仕舞われていた。深い意味もなく、そのカードの束を取り出し捲(めく)ってみた。床屋やレストランなどのポイントカードだった。その中に、金文字で『ESMERALDA』と書いた黒いカードがあった。カードの裏を返すと、ポイント印が6つ押してあった。それぞれの印には、ボールペンか何かで、『R』と手書きされていた。朋子は、眉毛を寄せて、そのカードを凝視した。女の勘が卵巣で生まれる、などと作者が口を挟むまでもなく、あまりにもそのカードは、異質な雰囲気を漂わせていた。と言っても、朋子には、みんなと待ち合わせる13時まで時間がなかった。彼女は、カードを財布に戻し、その財布は自分のバッグに入れ、身支度を始めた。  久しぶりに家族が勢揃いした。まさか、夫の死で、こんな機会が来るなどとは、朋子は想像もしていなかった。昼食は、セレモニーホール近くのファミリーレストラン。食事を食べながら、朋子は、これから池袋に買い物に出かけるが、みんなはどうするかと尋ねた。2人の姉夫婦は、ホテルに戻ってから、近場をブラブラすると答えた。長姉が、夕飯は、またみんなで一緒に囲もうと誘ってきた。 「あんたたちは、あんたたちで、夕飯を食べてもらってもいいカヤァ? 葬式の前ズラ。ママは、朋子と静かに話がしたいズラ二ィ」と母親は2人の姉に言った。そして、 「貢さん(叔父の名前だ)も、わたしたちと一緒に夕飯を食べてもらえるカヤァ?」と叔父夫婦を誘った。 「義姉さん、2人だけの方が、いいズラ?」叔父が言った・ 「2人だけでは、なぁ、朋子。しんみりし過ぎるからなぁ、何だかズロ……」 と言う次第で、勢揃いした家族は、それぞれの約束をして、それぞれのホテルに解散した。  朋子は、池袋に向かうタクシーの中にいた。バッグを開いて、夫の財布から『ESMERALDA』のカードを取り出していた。エスメラルダと読むのだろうか? 朋子は、そのエスメラルダが何なのかを、スマートフォンで検索してみた。物品やら、店の名前やら、バレエやら、いろいろなものにヒットした。だが『ESMERALDA』のカードが放つ気配らしきものは、簡単に検索できなかった。とにかく、エスメラルダとは、スペイン語で、人名や地名らしいのである。 カードの裏の隅に、小さな文字で『1回のご利用で1ポイント進呈。10ポイントで10000円割引。03―××××―××××』と記載されていた。朋子は、03―××××―××××を検索してみた。グーグルは、1つの店を探り当てた。その店は池袋にあった。朋子は、その店の文字をタップする前から、強い衝撃に撃たれて、何もかもを放り出したくなっていた。純哉との28年の結婚生活も、朋子自身の人生も、過去の一切合切、そしてこのスマートフォンも放り出したくなっていた。文字をタップする前から、どんな店か分かった。おおよそのことは、そこに書いてあったからだ。 SMクラブ。 朋子は、『ESMERALDA』の文字をタップした。黒をバックに『ESMERALDA』の金文字。カードと同じものだった。純哉が、この店に通っていた? 彼が道端で拾ったカードを財布に入れる訳がない。人がこんなカードを譲る訳もない。まさしく、純哉が使ったカードだ。純也に発行されたカードだ。 6つの印。6回は使ったのだ。6回。そしてこの6つの『R』は、何を意味するのだろうか?  朋子は、窓外の景色を見た。首都高5号線の高架の向こうに、サンシャインが見えていた。『R』は何か? コースの名前? コースと言うところをタップした。レギュラーコースをイメージしていたからだ。しかしそんな名称のコースはなかった。そこで分かったのは、2時間が35000円もすると言う事だった。カスタマーコースは、更に金額が上乗せされるようだ。『R』は何か?  朋子の正面に池袋駅が見えてきた。人の名前? そうだ、サービスをした女性の名前かもしれない。スタッフの文字をタップした。アイマスクをした女性の顔が次々に出てきた。『亜里沙(ありさ)女王様』、違う、『栞奈(かんな)女王様』違う、『咲(さ)綾(あや)女王様』違う、『菜(な)衣(い)舞(む)女王様』違う、……違う、違う、違う、『麗(れい)香(か)女王様』『レイカ』『REIKA』『R』これだ。朋子は『麗香女王様』の文字をタップした。太腿を全面に晒した画面が出てきた。黒い網タイツから、白い菱形の肉が盛り上がっていた。黒い長い髪をしていた。真っ赤なルージュを差した唇が吊り上がっていた。不敵な笑顔がアイマスクの向こうから、朋子を睨んだ。朋子はひるんだ。ひるみながら、そこに書いてある、『麗香女王様』のアッピールの文字を読んだ。 『黄金プレイ可能。天下無双の女王様』 黄金プレイの意味が分からない朋子。 彼女の唯一の、下卑た世間との窓口カッチャンも教えてくれていなかった語彙。 早速、検索を始めた。 「お客さん。お客さん、780円です」 タクシーの運転手は、バックミラー越しに朋子に声を掛けた。 「お客さん、780円です」 朋子の耳に、その声が届かない筈はなかった。 「お客さん、着きましたよ」 「……」 朋子は、座席に金縛りになったように凍り付いていたのだ。  手間取った買物だった。すでに午後6時をまわっていた。母親と叔父夫婦との夕食は、7時半の約束。あと1時間半あった。池袋北口を、ときわ通りに向かって足を運ぶ朋子。『ESMERALDA』のホームページに載っていたアクセスの地図に従って、道を追っていたのだ。 道を追う朋子に、明確な目的があった訳ではない。子供が肝試しをするのに似ていた。 『ESMERALDA』はどんな処にあるのだろう。 夫が通っていたかもしれない、いや間違いなく通った『ESMERALDA』はどんな店なのだろう。 『R』はどんなオンナなのだろう。  午後6時。冬の陽は、早々に引き上げていた。黒色と紺色の間の夕暮れの空気に、ネオンがあった。ネオンはあったが、低いところを照らしているだけだった。光の豪奢には程遠かった。それだけに意味深げであった。淫靡があった。57歳の素人女色川朋子は、淫靡の歪みの中で、早足だった。 アクセスの指示どおりなら、このビルの4Fと5Fが『ESMERALDA』だ。朋子はその前に立っていた。ビルは、1Fが理容関係のハサミを扱う事務所。ビルに派手な看板はなかった。事務所の横手に、ビルを登る階段とエレベーターが見えた。朋子は、階段口まで行った。そこにビルに入っているテナントのプレートがあった。確かにあった。4F5F『ESMERALDA』と。通りに出て、ビルを眺め上げた。7階建ての老朽化したビルだった。黄色の安っぽい上塗りペンキ。通りを歩く玄人っぽいオンナを見る度に、その姿を追った。このビルに入るオンナはいなかった。が、銀縁の眼鏡を掛けた、真面目そうな中年のサラリーマンが入った。左右を見て消えるように入った。キチンとした身なりだった。だからと言って、何か特徴がある訳ではなかった。似たような男はごまんといる。純哉もそうだ。こんな、どこにでもいる、ごまんといる男だった。真面目そうなところも似ていた。男がエレベーターに消えたあと、どのフロアーで降りるか気になった。エレベーターの前に戻った。 「ちょおと、オバサン、何か用なの? 邪魔なんだけど」 振り返ると大柄なオンナが立っていた。 化粧はしていなかった。スッピン。怖かった。ホームページに載っていた『麗香女王様』の不敵な笑顔を思い出した。でも髪型が違った。こんな男のような刈上げではなかった。それに『麗香女王様』は、もっと肉付きがよかった。 「用?」朋子は、オンナを見上げて言った。 「ええ、ええ用。用は染みました」 朋子は道を開けた。 オンナは、朋子を上下上下と睨んで、エレベーターのボタンを押した。 エレベーターの点滅は4Fから3Fになった。  「…………………………………………、どう思うズラ、朋子?」と母親から問われた朋子に返事はなかった。 彼女の頭の中は、『R』と、『麗香女王様』と、黄金プレイと、バスルームでスゥーと消えたスマートフォンの画像とが、絡まり合っていたのだ。それら1つ1つは、朋子が咀嚼するには、ギドギドし過ぎ、重過ぎた。脳は食傷気味だった。 「朋子!」母親は娘の顔を覗き込んだ。 「えッ?」 「朋子、だから落ち着いたからでいいズラ。考えて欲しいズラ。ママと、松本で一緒に暮らすことをなぁ?」 「それもいいわ……。ね」 「今すぐに、ちゅう話でねぇズラ。ヘェ、1年でも2年でも、ゆっくり考えて、その気になったら、帰って来るがいい。なあ、貢さん」 叔父は頷いた。 「姉ちゃんたちと、夕飯を別にしたのは、その話がしたかったからズラ。親子関係は難しい。後で、変な方向に話がなったら面倒だから、こう4人でなぁ……」 「よく考えてみるわ」 「ん、なあーに、ママは、おばあちゃんのようにボケたりはしないからなぁ」 「ママがボケても、ちゃんと面倒をみるから安心して」 朋子と母親、そして叔父夫婦の4人は、護国寺の蕎麦屋の座敷で夕飯を囲んでいた。 「朋子。あんた昼間より元気がねぇズロ。疲れてんのカヤ……。可哀そうになぁ」 テーブルに、注文した蕎麦が並んだ。 「そう言えば義姉さん。おかあさんがボケたときは、本当に大変だったズラァ」叔父が話題を変えた。 「でも、貢さん。こんなこと言うのはなんだけど、おかあさん、足が悪くて、動けなくなったズロ。あれで助かったのは、本音ズラ」 「ボケて、ウロウロされたら、目も当てられんからなぁ。しかし義姉さん、病院に入れてよかったズラ。俺ら、義姉さんの身がもたんかもしれんなぁと、ずいぶん気を揉んだデェ」 「おかあさん、半分は頭がしっかりしていたから、可哀そうだったズラ。でも、ヘェ、心を鬼にしてなぁ……」 「そう言やあ義姉さん、群馬の叔母さんが、おかあさんの病院に見舞いに来たとき、たまたま俺、傍にいたズラ」 群馬の叔母さんとは、祖母の妹、『三国屋の女官様』の妹の事である。 「昔の話しとったけど、あの時はしっかりしとったなぁーあ。群馬の叔母さんがなぁ、『なんで姉さん、1年もせんうちに、御所から帰って来たんか?』って尋ねたズラ」 「へぇー、御所勤めされとったことは聞いていたけど、そんなに、早く群馬に帰って来なさったんかぁ……」 「なんでもなぁ、ぐったり、ノイローゼーのようになって、戻って来たらしいズラ。群馬の叔母さんが『姉さん、本当は、苦労したのではないか』って言ったら、おかあさん、『みんな死んだかなぁー』って呟いてからなあ、御所のことは、一切口にしてはならねぇが、時効だ時効だ、とボソリボソリ、話し始めたズラ」 「ヘェ、御所勤めの事は、何ひとつ言わなかった、あの、おかあさんがかぁ?」 「なんでも、なぁ。全部自分が悪かった。自分にもう少し融通があれば良かった。若気の至りとは言え、それはそれ、と割り切って、細かい事は気にせず、何事もおおらかに構えていればよかった、つぅってな、話し始めたズラ……」 叔父が聞いた祖母の話の内容は、ザッと次のようなものだった。 御所はしきたりに縛られた、理屈や俗世間の常識が通らないお伽の国。物事の筋道や合理を通したい祖母とは、実に相性が合わなかった。祖母は、御所ならではの約束事の意味合いに対して、上司にあたる針女頭に、なぜだなぜだと問い質した。 「なぜ、一度袖を通しただけの肌襦袢がお次(つぎ)(御所言葉で不浄なものを指す)で、これに触れたら、いちいち手を洗わなければならないか?」 「なぜ、風呂の時、お次の手拭を持って入り、首から上は洗ってはならないのか?」 「なぜ、座して挨拶するとき、掌を上にして、行い、掌は自分の膝さえも、指一本触れてはならないのか?」 「なぜ、お清(御所言葉で清浄なものを指す)となった手では、頭が痒くなっても、掻くことは許されないのか?」 「なぜ、聖上を見たら目が潰れるのか?」 御所の約束事は、必ずしも道理には合ってはいないもの。その真意を汲み取れない祖母を、針女頭は疎ましく思うようになった。つまり、それはそれ、と割り切れなかった祖母は、針女頭とぶつかってしまったのだ。ただでさえ、祖母が世話をした命婦は、針女頭と仲が悪かった。そんな腹癒せもあって、針女頭は小生意気な祖母を御所から追い出そうと画策し始めたらしのだ。 画策の事は、祖母が松本の臼田家に嫁いだ後に、一緒に御所に上がった4人の同級生うち、最後まで祖母の味方だった友人から耳打ちされた話だ。その友人は、祖母が御所を下がってから、針女頭が「うまくいった」とほくそ笑んでいた、と教えてくれたらしい。 話を戻す。御所に上がる人は、複雑な縁故を後ろに持っていた。針女頭の腹ひとつで人事を左右出来るものではなかった。そこで針女頭は、嫌がらせをして、祖母を御所から追い出してやろうと考え始めた。その手段は、祖母に、臭いと因縁を付ける事だった。祖母は神経質できれい好きだった。ならば、臭いと因縁を付ける事は、相当効き目があるだろう、そう針女頭は睨んだらしい。脇が臭い、足が臭い、口が臭いと始めた。臭い訳はないのだ。祖母は人一倍その事に気を付けていたのだから。しかし、御所勤めで気難しくなっていた女たちは、事実よりも噂の方を信じる傾向があった。誰からともなく、最初はひっそりと、やがてはあからさまに、祖母の前で鼻を押さえるようになった。 針女頭の追い込みに拍車が掛かった。針女頭は、祖母がまけ(御所言葉で生理のこと)が近づくと、異様に臭くなると噂をし始めた。御所は清浄を貴ぶところ。特に血の穢れを忌み嫌う。生理になった女たちは、お下がり所と言う隔絶された区域に籠らなければならなかった。生理の前から臭い、「御所にお障りあらしゃるのでは……」と口に上った祖母。お下がり所に籠れば、針女頭の息のかかった女たちに、「どこぞへ腐ったおまな(御所言葉で魚の事)があるんやないか……、ホホホ」と遠回しな意地悪を言われたらしい。 1年近くもよく我慢出来た、と祖母は苦笑いした後、流石に心が病んで、げっそりして群馬に戻ったのだ、と妹に告げたそうだ。 臼田に嫁いでからも、臭いの事が尾を引いて、他人の中で縮み上がる毎日だったそうだ。最後まで祖母の味方であった同級生から、すべては針女頭の策略だったと教えらえても、すぐには飲み込めず、臭いの呪縛から解かれなかった。ただ時間を置いて、よくよく考えてみたら、針女頭の仕組んだカラクリにも頷けるようになってきた。頷ければ、すべての元凶が自分の控え目のなさからだと、合点出来るようになった。そう合点が出来たら、自分の気性を省みて、融通の利かない自分を、何事も、それはそれだと、厳しく厳しく戒めるようになった。 塩尻の叔父は、自分のおかあさんが、群馬の叔母にそう語っていたと話した。 「そんなことが、おかあさんにあったズラ……? 何か、ヘェ、不思議なお姑さんだった。長いこと、一緒に暮らして、ちょっとだけ、掴みどころがなくてなぁ。きれい好きで、神経質だったが、うるさくなくてなぁ。優しくてなぁ。その分、何となく、怖かったズラ」と母親は驚いていた。 「俺もびっくりしたダァ。そんなこと、ただの一回も、言わなんだからなぁ……。そう言やぁ朋子。おばあちゃんがなぁ、朋子が自分の性分とよく似ているから心配だと、そのときなぁ、群馬の叔母さんに言とったズラ。朋子のことを、誰よりも可愛がっていたからなぁ。だから、朋子のことを気にしとったズラ」  朋子は、セレモニーホールの2階控え室に戻っていた。あの気の利いた旅館のような部屋にだ。すでに、そこのバスルームで長い風呂も済まし、棺の横に布団も延べていた。午後10時になっていた。なぜ、長い風呂になったかだ。彼女の頭の中は、『R』と、『麗香女王様』と、黄金プレイと、バスルームでスゥーと消えたスマートフォンの画面で混乱していて、心ここにあらずの状況が、動作を緩慢にしていたからだった。  上京した母親が昼間焼香した時には、まだ棺から異臭がしていた。あれから何らかの処理をしてくれたのだろう、もう何も臭わなかった。室内は冷え切っていた。朋子は遺体の腐敗を恐れ、暖房は付けなかった。そして、毛布2枚と布団で身体を包むと、棺の縁に手を掛けて、祭壇の電気の灯明を頼りに純哉の顔を凝視した。化粧を刷いた夫の顔は、オレンジ色に照らされ、陰影のせいもあろうが、強張り、妻を拒絶しているように感じられた。 「あのポイントカードの『R』って何なの?」朋子は声にして夫に尋ねた。 「人の名前のイニシャルなの? そうではないの?」 当然、遺体の口は開かない。『ESMERALDA』の全スタッフのアッピール文章はホームページで確認済みだった。黄金プレイが出来るのは『麗香女王様』だけだった。 「あなたが、心臓発作を起こした直接の原因は、あのスマートフォンの動画に興奮したからでしょう?」朋子は純哉の耳元に囁いた。囁いてから純哉の横顔を追った。気難しそうな表情があった。朋子は腰を伸ばすと棺の縁を握った。 「いいのよ、隠さなくても。わたしはあなたの妻よ。わたしに隠れて、あんなところにまで出入りして……。わたし正直がっかりだわ。でもね、どうしても、理解できないのよ。あんなにきれい好きのあなたと、黄金プレイとが、噛み合わないの。だから『R』って、何なの? ただね、あなたが死んだとき、洗い場に転がっていたスマートフォンの動画はね、よくよく考えれば、黄金プレイと結びつくのよ。駄目、駄目。そんなに固く目を閉じて、聞かないフリをしたって駄目。どうしても結びつくのよ。わたし、そんな趣味のある人と、28年も一緒に生活したと言う訳? そんな人を夫にしたってことなの?」 朋子の声は室内に響いた。そしてハッとした。彼女はまた語り始めた。 「あなたは、わたしだけを愛してくれるって、約束してくれたわよね。それは、つまり、自分の特殊な嗜好を隠すには、わたしは都合がよかったから? だからわたしを選んだの? これは誤魔化せる女だと思ったの? ハッキリさせて。あなたには、逆さまの方向に偏った嗜好を、その気難しそうな表情に、本当に隠しているの?」 朋子はバッグを手繰り寄せ、その中を探った。四角い、冷たい、薄いスマートフォンが掌に当たった。朋子はそれを取り出した。 「さあ、教えて、暗証番号はなんなの?」 朋子はボタンを押した。 「教えて、暗証番号を教えて。知りたいの、なにもかも」 純哉のオレンジ色に照らされた顔は、ますます拒絶の気配を濃くしているように見えた。その拒絶に堪えられなくなった朋子は、遺影の夫を見上げた。2人で行った修善寺温泉で撮った写真だ。それは純哉のお気に入りの1枚。屈託のない温かい笑顔、優しい眼差しをカメラに向けていた。カメラ? いやカメラではないのだ。写真を撮っている朋子へ向けた優しい眼差しなのだ。  純哉と朋子は、もう繰り返すまでもないだろうが、非常に神経質であったので、ホテルや旅館を不衛生なものと思っていた。だから、夫婦2人での旅行は、3回しか経験していなかった。この写真を撮った修善寺温泉は、その最後のものだ。純哉が死去する7か月前の初夏の旅。さて、その修善寺の独鈷の湯の前で撮ったこの写真の眼差しが、どうしてこうまで優しいのかには理由があった。 カッチャンから貰った『カップルでエステとマッサージ』のクーポン券を使った夜の騒動は覚えておられるだろうか? あれから2人はセックスレスになっていた事も覚えておられるか? そのセックスを、修善寺の旅館で、実に10年ぶりで行った。そして2人は、やはり夫婦にとってその営みがどれほど貴重なものであるかを実感したのだ。特に、朋子の喜びに、何よりも純哉が喜んだ。2人の気持ちに、慈しみ合いや、思い遣りの気持ちが、鮮烈に湧き出ていた。そんな夜の翌日の、夫が妻を見る眼差しは、やさしいに決まっているではないか。あの夜以来、2人は、無理な事はしなくてもいいが、やはり定期的に夫婦は夫婦らしく、その営みをする事にした。それは、大切な事だと悟った。 特に純哉は、そう悟った。  あの日は、まさにそう言う日だった。あの日とは、色川純哉がバスルームで死去した日だ。セックスをやる予定の日だ。あの日あの時に戻ろうと思う。3日前のあの時に……。    「ああ、疲れた」と言って純哉は玄関を潜った。日曜の午後8時であった。その日は、東京都議員と、生活文化局長と、某イベント会社の役員とで、冬の小雨にもかかわらずゴルフがあった。夕方からは、その流れの懇親会であった。純哉は、ゴルフバッグを玄関に置いて洗面所に行くと、手と顔を入念に洗った。純哉の後で、タオルを持つ朋子は、 「あなた、酔っている?」と夫に言った。 「ああ、ビールを少しだけ飲んだ」 純哉は、タオルを受け取って顔を拭くと、その足でリビングに行き、ソファーに座った。そしてテレビのリモコンを押した。 「あなた、お腹はすいていない? あっ、そう。お風呂、わたし、お先に使わせていただいたけど、お湯は張り直しましたから、いつでもどうぞ」 「ああ……」純哉は気になるニュースでも流れていたのか、テレビに集中していた。 朋子は、キッチンで片付けものをしていた。しばらくすると、純哉がキッチンに来て、グラスの水で、心臓の薬をゴクリと飲んだ。 「今日は、あの日だなぁ。朋子ちゃん」と笑いながら、薄化粧の妻の腿を撫ぜ始めた。 「疲れているのに……」 「駄目、駄目。あの日だ、あの日」と言って純哉はバスルームに向かった。朋子は、 「あなた、長風呂は駄目よ」と夫の後ろ姿に声をかけた。 朋子は、片付けものを終え、リビングのソファーでスマートフォンをいじっていた。そして、純哉がバスルーム行ってから20分ぐらい経った頃だろうか。バスルームから、ゴトンッと何かが滑り落ちる音がした。純哉は昔、バスルームで心臓発作を起こした事があった。朋子は、バスルームの音に敏感なのだ。彼女はバスルームへ走った。そして扉を押した。洗い場に、くの字に折れ曲がった純哉がいた。 「あなた」と、小首を傾けた。 「あなぁた。あなた、大丈夫? 大丈夫?」 返事はなかった。 「だから、長風呂は注意しなさいって、あれだけ言っていたじゃあない」 まさかが、頭を過った。昔の記憶が蘇ったからだ。まさかでしょ、まさかでしょ、と動揺した。 「あなた、あなた」と純哉をゆすった。 反応がなかった。 「あなた、あなた、あなた、あなた」 夫は妻の手に任せて揺れるだけだった。 洗い場に、純哉のスマートフォンが転がっていた。 1、2、3。3つ数えて、3秒。 朋子は、3秒間だけ、スマートフォンの画面を見た。いや、3秒間もなかったかもしれない。そんな瞬時に目にしたものを、信用出来るだろうか?  「いい?」オンナの声がスマートフォンからした。 「はい」オトコの声だ。純哉の声に似ていた。オトコは上目使いでスマートフォンの位置を確認した。チラリと映った太い眉毛と細い目は、純哉に似ていた。 「ちゃんと、受け取るのよ」スマートフォンに性器を丸出しにしたオンナの股が大写しされた。 「はい」オトコの声だ。やはり純哉に似ていた。 そして、スマートフォンの画面は、黒くスゥーと消えていった。  朋子は、棺に目を戻した。 「一昨日があの日で、わたしたちが肌を寄せ合うため、あなたが、何かで気分を高めようとした事は理解するわ。正直、わたしだって同じようなものよ。しかし、あのスマートフォンの動画の内容は、わたしが許せる範囲は越えています。お願い、暗証番号を教えて、すべてハッキリさせておきたいの。あなたが口を開くまで、わたしはここを離れません。明日の告別式になっても、あなたが火葬場に向かっても、わたしはこの姿のまま、あなたを見つめたまま、あなたの側を離れません」 朋子は、毛布と布団を硬く身体に巻き付けた。そして純哉の顔を見続けた。疲れで重くなった瞼が、その視界を閉ざすまで……。 朋子は夢を見た。朋子自身、これは夢だと夢の中で分かっていた。と言うのは、マンションの茶室に四角いテーブルを置いて、朋子はそこに座っていたからだ。茶室にテーブルなど置く筈がないのだ。床には、細長い掛軸があった。その軸には、2行に渡ってこう書いてあった。『僕は、生涯、あなただけを愛し、大切にする』どこかで見た筆跡だが、思い出せない。茶室には、朋子以外にも誰かがいた。朋子は目を凝らした。正面に純哉が座っていた。その横にはカッチャンがいた。純哉とカッチャンは面識がない。夢の中の朋子は、純哉にカッチャンを紹介しようと身を乗り出した。すると、 「人は、何かで補うものなんだ。無理にセックスするときはね」と純哉が言った。 「そうよ、何年も寄り添った古女房に、なんで今更、興奮できるのよ。脳ミソで補って、何とかカンとか、勃たせてんのよねぇ」と粘り付く声でカッチャンが言った。 朋子は何か言い返そうとした。その時、中居風情の着物姿の女性が現れ、テーブルの上に、黒い真塗の板を置いた。板の上には、何か料理が乗っているようだ。料理の周りは、薔薇の花々で飾られていた。それも霧を吹きかけ、黒い鏡のような板も薔薇も、キラキラ輝いていた。 「まあ、きれい!」思わず朋子は歓声を上げた。 「本当に、きれいだと思うんですか?」純哉の声だ。若い頃の純哉の声だ。そう言いながら、純哉は料理に箸を付けた。彼は、ゆっくり咀嚼を始めた。その咀嚼を見つめる朋子の鼻に異臭が届いた。夢なのに確かに届いた。朋子は、あまりの臭さに耐え切れず、席を立ちあがった。 「どうしたんですか?」純哉が言った。彼は、薄い唇の口角を、キューと吊り上げ微笑んでいた。並びのいい白い奥歯は、大便で汚れていた。 「あたし、大学出じゃないから、上手く言えないけど、真反対のものと交わる冒険に興奮するのよ。抑圧の開放ってことかしらね」 カッチャンが朋子を見上げて言った。 「『グロテスク』に『同化』する行為、それは禁断の、背徳の、禁忌を犯す魅力なのかもしれない」と言う純哉の口元から茶色い唾が飛んだ。 夢の中の朋子は、椅子を倒して、奥の暗闇に走り出した。必死に逃げていたのだ。しばらく走っていたら、遠くに棺が見えてきた。棺の上には純哉の遺影が浮いていた。屈託のない温かい笑顔と優しい眼差しの遺影だ。朋子は、棺に近づいた。そこに純哉は眠っていた。朋子はいつの間になのだろうか、右手に純哉のスマートフォンを握りしめていた。片方の左手も何かを握っていた。それは彼女のスマートフォンだった。夢の中の朋子は、夢の中と知りつつ、今、自分はどこにいるのだろう。ここは本当にセレモニーホールの控え室なのだろうか? それに告別式はどうなったのだろう? 終わったのか、これからなのか? 朋子は、棺の中の純哉を見た。そこには、拒絶の表情があった。朋子は、日にちと時間を確認しようと、自分のスマートフォンのボタンを押した。そこに映った文字は、どんなに目を凝らしても読めなかった。目を凝らしていたら、ハッとした。 指紋認証。 夢の中の朋子は思い出した。純哉もいちいち暗証番号でスマートフォンを開いていた訳ではなかった。朋子は、胸元で硬く結んだ夫の右手の親指を見た。朋子は必死になって、その親指を持ち上げようとした。指は硬直して立ち上がらなかった。立ち上がらせたと思っても、すぐにピンッと跳ね戻った。もどかしい。立ち上がらせる。跳ね戻る。夢の中で何度繰り返しただろう。そしてやっと力づくで立たせた親指に、夫のスマートフォンのボタンを近づけた。夫の指は震えていた。朋子の手が震えていたからかもしれない。夢の中だ。ボタンはなかなか夫の指に近づかない。その時だ。朋子は、後ろから肩を優しく叩かれた。夢なのに、叩かれた感触は確かにあった。朋子は後ろを振り向いた。そこには、祖母が立っていた。田舎には珍しい上品な薄化粧をした祖母が立っていた。 「朋子」祖母は、ゆっくり首を横に振った。 「朋子。それはそれ」 祖母はそう言って、朋子の手からスマートフォンを取り上げた。そして、静かに微笑みながら闇に消えていった。 「おばあちゃん!」  「おばあちゃん!」と本当に叫んだ自分の声で朋子は夢から覚めた。 朋子の手に純哉のスマートフォンはなかった。彼女は、毛布と布団を跳ね除けた。コロリンとスマートフォンが畳を打った。 朋子は、スマートフォンを取り上げてボタンを見た。 それから純哉の胸元の手を見た。 右手の親指を見た。 またスマートフォンのボタンを見た。 今度は純哉の顔を見た。 オレンジ色の明りの中で、強張った緊張の陰影があった。 朋子は、座り直すと毛布と布団で身体を固く包んだ。そして、スマートフォンを握った手を、棺の縁にかけ、その上に額を乗せた。 朋子は、何かを考え始めたようだ。 そっとしておいてあげよう……。 そんな姿勢で、時間はどれほど経ったであろうか。 朋子は、スマートフォンを夫に近づけた。 静かに近づけた。 オレンジ色に照らされた夫の顔の横に近づけた。 そしてスマートフォンを枕の下に置いた。 「あした、一緒に焼きましょう」 朋子は夫の顔を撫ぜた。 死後硬直は、死後50時間程で解け始めると言う。この現象は『解硬(かいこう)』と呼ばれる。強張った遺体がその緊張を解く現象だ。 妻に撫ぜられた夫の顔は、穏やかな笑みを含んでいるように見えた。 薄い唇の口角から、白い奥歯が覗いた。 朋子は自分のスマートフォンを手繰り寄せてボタンを押した。 午前0時11分。 2泊3日の、3日目になっていた。 参考文献 『御所ことば』  井之口有一著      『ミカドと女官』 小田部雄次著      『女官』     山川三千代著 
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