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「オレの為に時間をくれてありがとう。もう俊樹の迷惑にはならないから。それじゃあ」
オレはそういうと踵を返して歩き出した。
そしてその歩みはどんどん早くなり、走り出した。
心はすっきりしたけど、やっぱり痛いな。
ともすれば泣きそうになるのを堪え、オレは駅まで走るとちょうど来た電車に乗った。
早く帰ろう。
天翼に会いたい。
家に帰ると美味しそうな匂いが立ち込めていた。最近料理を始めた天翼がカレーを作ってくれていたのだ。
「おかえり。お風呂沸いてるから先入ってきて」
そう言うとオレは帰るなり風呂場に直行させられた。そこで適温になった湯に入り、身体の力を抜くと、途端に心もほぐれていく。
ああ、オレ緊張してたんだな・・・。
そう思った途端に涙が溢れてくる。
自分の気持ちが言えた。
実は十年前も、オレは彼に好きだと言ったことは一度もなかった。彼は飽きるほどオレに囁いてくれたけど、オレは言わなかった。もともと別れるつもりだったし、言ってしまったら別れられなくなるような気がしたからだ。
だけど、言えた。そして振られた。
オレの好きな彼はもうオレを好きじゃない。それどころかきっと嫌いだろう。そして人生に成功して、素敵なパートナーを得ている。
彼は、オレじゃない誰かのもの。
その事実が静かにオレの中に根付く。
涙がまた溢れてくる。でも辛いものじゃない。悲しいけれど穏やかで、静かな気持ちだ。
オレの中でまた、彼の存在が上書きされたのだ。もう彼の香りを思い出して欲情したりしない。また穏やかな気持ちに戻ったのだ。
それでもやっぱり好きな気持ちは変わらなくて、そのしつこさに自分でも呆れてしまう。
初めて会った時から変わらない思い。
その思いをやっと伝えられて、きちんと振られることが出来た。
オレはしばらく流れる涙をそのままに、お湯の中にゆったりと身を委ねていた。
そして身も心もすっきりして風呂から出ると、食卓はすでに整えられ、天翼がカレーを皿に盛ってくれる。
「12年間、ご苦労様でした」
一丁前にそう言うと、オレの前に皿を置く。
本当に大きくなったな・・・。
さっきまでとは違う涙が込み上げて来るも、そこはぐっと堪える。
「ありがとう」
「しばらくのんびりしなよ。ずっと頑張ってきたんだからさ」
そう言って自分の分もよそって席に着く天翼に、オレは今日ちゃんと告白してきたことを告げた。
「うん。顔みて分かった。由貴、頑張ったじゃん」
その言葉が温かい。
10歳の息子に慰められるのもおかしいけど、オレの心はそれで落ち着く。
そうして優しい時が、オレの心を癒してくれる。
「ありがとう」
オレはもう一度天翼にお礼を言った。
こうして12年務めた会社を、オレは退職した。
そして迎えた週末は天翼とのんびり過ごしたものの、明けた月曜日はやっぱりいつもと変わらなかった。自分の出勤は無くなったけど、天翼は普通に学校があるから。
いつもは一緒に出るところを玄関で天翼を見送り、オレの新しい生活が始まった。
せっかく時間に縛られなくなったのだからと家事を先にこなし、そして仕事のためにデスクに向かう。いま請け負っているのは英語の論文を日本語に訳すものだ。専門用語バリバリだけど、自分の専門なので難なく訳していく。
こうして家事と仕事の割合が何となく決まってきた頃、発情期の兆しが来た。今回は姉が天翼を預かってくれることになっている。
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