神域の管理人 神産みの神と現人神

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 横浜市内のとある山の中にある神社。  その神社の壁中にガラス扉がついたアンティーク調の本棚や家具が並んだ社務所の中で、本が山積みにされたテーブルの横にある二つの二人掛けソファーの片方に社務所の管理をしている乙舳(おつとも)は一人で座って本を読んでいた。  乙舳は真人(まさひと)と最後に会ってから連絡が一切ないため事の顛末が気になり、乙舳の目線は本の文字列の上に落ちているものの、本の頁は一向に進む事がなく。  乙舳はすぐに上の空になってしまい、気が付いたら同じ行ばかり読んでいた。  ――すると突然、誰かが社務所の扉の前に設置されている呼鈴を鳴らした。 「……はい」  乙舳は呼び鈴の音に気づくと軽く着衣の乱れを直して社務所の扉を開ける。  そこには少し大人っぽい雰囲気のした制服姿の女子高生が一人で立っていた。 「えっと……?」  珍しい来客に乙舳は対応に困る。 「あの、……乙舳さんですか?」 「あっ、……はい」  乙舳は名前を呼ばれ我に返り返事を返す。 「お願いします。真人さんを助けて下さい!」  乙舳が返事をするやいなや女子高生はそう言いながら乙舳に詰め寄る。 「おっ、落ち着いて下さい。まずは順序立てて説明してくれますか? 君は真人さんと知り合いなのですか?」  詰め寄ってきた女子高生に乙舳は思わず仰け反りながら聞いた。 「……すみません。私は(ゆい)っていいまして何度か真人さんにはお世話になってて」 「確か神社の娘さんの?」  乙舳は聞きながら結をテーブル横のソファーに案内する。 「はい」  結は返事をするとソファーに座り落ち着きを取り戻すと事情を説明する。 「こちらの神奈(かんな)さまから真人さんの事を聞きまして、神様に詳しい乙舳さんに話を聞いてもらいたいと……、神奈さま!」 結が自分の近くにいると思っていた神奈から相談内容を聞こうと振り向くと、いつの間にか神奈が落ち着きなく社務所内を移動し続けている事に気づき慌てて神奈の名を叫ぶ。 「⁉ ……神奈さまが一緒に?」  乙舳は神奈が見えないため神奈の名前を聞いて驚くと結が叫んだ方向を見ながら確認する。 「すいません。でも、確かに神奈さまはここにいて」  乙舳が神奈を見る事が出来ない事を察した結は慌てて説明をする。 「神奈さまは真人さんも何度か連れてきた事があるからそこは気にしなくても大丈夫です。それより真人さんに何があったのかを詳しく話してくれますか?」  乙舳は結の様子からただ事ではない雰囲気を察すると、身体のすぐ前で両手の手のひらを結いに向けながら落ち着くよう言うと真人の状況の説明を求めた。 「真人さん、瀬織津姫(せおりつひめ)さまを鎮める際に身体を穢れに侵食されて倒れてしまったみたいで、お二人の稲荷神(いなりがみ)さまが治療に当たってるみたいなんですけど一向によくならないみたいで……、神奈さま」  乙舳に促されソファーに座った結が説明をしながら神奈の名前を呼ぶとソファーに座る結の真横が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れ、ゆっくりと神奈がソファーに座った状態で姿を現していく。 「神奈さま、真人さんの様子をもう一度詳しく教えて下さい」  声をかけると神奈はゆっくりと真人の状態を語り出し、結は神奈が見えない乙舳に神奈の語る内容を簡潔に説明した。 「……乙舳さん?」  結と乙舳が話している最中も神奈は手持ち無沙汰になると落ち着きなく社務所内を移動し続け、その度に結が神奈を呼び戻す様子を見て、乙舳はいつだったか真人に神奈の様子を訪ねた時に何やらぎこちなかった事を思い出していた。 「いえ、すみません。つまり瀬織津姫さまを鎮めた後、神域の家に帰って来た真人さんの身体から穢れが発生し倒れてしまい、真人さんの身体を穢れに侵食されないようにするには稲荷神さまである宇迦(うか)さまと御饌(みけ)さまお二人が常に穢れを浄化し続ける必要があるという事でしょうか?」 「はい。それで神奈さまが原因がわからないのでここに乙舳さんという神様に詳しい方がいるので話を聞いてほしいと」  結は再び社務所内を移動する神奈に視線を移しながら説明する。 「神奈さまに穢れは真人さんが身に付けている物から発生しているのか、それとも真人さんの身体から発生しているのか確認していただいていいですか?」 「はい」  結は神奈を呼んで自分の隣に座らせると乙舳から聞かれた事をそのまま神奈に伝えた。 「真人さんの身体から発生しているそうです」  結は神奈から聞いた事を乙舳に伝えた。 「……穢れがどういったものかはご存知ですか?」  乙舳は少し何かを考えると結に質問する。 「ええ、忌まわしく思われる不浄なもので、神道では血や死が穢れとして扱われています」 「本来、人から穢れが発生するのはその人が負の感情などを抱いた時などですが、私のように穢れが見えない人でも目の前にいる人の雰囲気から身の危険を感じたりするのも、その人から発せられる害意を穢れとして無意識に感じ取っているからです。しかし真人さんの状況を考えると、それは考えにくいです。そして宇迦さまと御饌さまが常に浄化し続けなければ真人さんの身体が侵食されてしまう恐れがあるほど強い穢れを発生し続けているとなると、禍津日神などより強力な力によって穢れが発生している可能性があります」 「穢れの神である禍津日神(まがつひのかみ)より強力な穢れを発生させられる神さまなんているんですか?」 「伊邪那美命(いざなみのみこと)さまはご存知ですか?」 「……それはもちろん、神社の娘ですから興味を持って独学でいろいろ調べたりもしたので他の人よりは詳しいと思います。確か伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と兄妹の関係で夫婦となり国産みを行った神様ですよね?」  結の言葉を聞きながら乙舳は本棚から二冊の本を持ってくると、片方を結に見やすいように開いて置いた。  伊邪那美命(いざなみのみこと)。  伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥は、日本神話の女神。  伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の妻。 皇室の先祖である。  天地開闢(てんちかいびゃく)において神世七代(かみのよななよ)の最後に伊邪那岐命と共に生まれた。  伊邪那岐命とは夫婦となり、オノゴロ島に降り立ち、国産み・神産みにおいて伊邪那岐命との間に日本国土を形づくる多数の子をもうける。  その中には淡路島(あわじしま)隠岐島(おきのしま)から始め、やがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象(しんらばんしょう)の神々を産んだ。  火の迦具土神(かぐつちのかみ)を産んだために陰部に大火傷を負って病に臥せのちに亡くなる。 (神は死ぬ事がない事から、この伊邪那美命が大火傷を負って亡くなったという話には様々な説がある。伊邪那岐命と伊邪那美命は神々を産むため人間の身体を持っていたのではないか。また古事記の記述では亡くなったではなく神避(かむさ)りと記述されていて神避りは隠れるや避(去)るという言葉と同義で使われる事から亡くなったと解釈されたのではないか) 「伊邪那美命が亡くなって黄泉の国に行った事は知っていますが、それで禍津日神より強力な穢れを発生させられるようになったとは……」  結は乙舳がテーブルの上に置いて開いた本に書かれた伊邪那美命の詳細を見ながら答える。 「では、伊邪那美命さまには黄泉津大神(よもつおおかみ)という別名があるのはご存知ですか?」 「いえ、知りません」  乙舳は結の返事を聞きながらもう片方の本を結に見やすいように開いて置いた。  黄泉津大神(よもつおおかみ)。  伊邪那美命の別名で、黄泉の国の神としての名。  伊邪那美命が神産みで亡くなり死者の国である黄泉の国へ逝くと、その悲しさのあまり伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、黄泉の国へ伊邪那美命を連れ戻しに出かけていきました。  しかし、黄泉の国の食事をしてしまった伊邪那美命は、もう元の国には帰れません。  伊邪那岐命が迎えにきた事を知った伊邪那美命は、くれぐれも自分の姿を見ないよう伊邪那岐命に言い残し、黄泉の国の神さまの元へ相談に行きました。  もうどれくらい経った事でしょう。  待ちきれなくなった伊邪那岐命は、髪に挿していた(くし)を取って火をともし、辺りを見回しました。  何とした事でしょう。伊邪那美命の姿が見るも恐ろしい姿となって、そこに横たわっているではありませんか。  あまりの恐ろしさに、伊邪那岐命は逃げ出してしまいました。  自分の姿を見られた伊邪那美命は、髪を振り乱してその後を追いかけました。  黄泉の国の入口まで逃げてきた伊邪那岐命は、大きな岩でその入口を塞いでしまいました。  伊邪那美命は自分を見ないでという約束が破られた事を悔しがり、「あなたの国の人を一日千人殺してしまおう」と言いました。  これに対し伊邪那岐命は、「それならば、私は一日に千五百人の人を生もう」と告げました。  それ以来、一日に多数の人が死に、より多くの人が生まれるようになったという事です。 『古事記』は、このために一日に必ず千人死に一日に必ず千五百人生まれる事となったという人間の生死の起源を語り、これによって伊邪那美命を黄泉津大神と称すると述べている。  また、伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰る際に追い及んだ事から道敷大神(ちしきのおおかみ)とも呼ばれる。 「それ以来、伊邪那美命が人間に死を与えたとされており、伊邪那美命は黄泉国の死を司る死神である黄泉津大神と云われるようになりました」  そう言いながら乙舳が指差した挿し絵にはよく見る伊邪那美命の姿からは想像もできないおどろおどろしい伊邪那美命の姿が描かれていた。 ―――――― 「…………うっ……」  真人は目を覚ますと自分の身体が無骨な石柱に鎖で拘束され囚われている事に驚き辺りを見渡す。  そこは岩だらけで空は赤黒い雲に覆われ太陽などの光源が一切無いにも関わらず、なぜか辺りに何があるのかがはっきりと見える不思議な場所だった。  なんだここは……。  そんな事を考えていると誰かが近づいてくる気配がする。  気配なんか今まで感じた事もないのに、なぜか誰かが近づいてくる気配だと理解する事ができた。  その近づいてくる気配の方を見るとなんとも禍々しい穢れを纏った女神らしき女性が立っていた。 「やっと目覚めたか」  声をかけてきたその女神は古い時代の簡素な服に勾玉などの首飾りをかけ、目鼻立ちがはっきりした綺麗な顔立ちをしているが、穢れを纏っているためか近づいてくると真人は目に見えぬ圧力を感じ緊張で身体を強ばらせる。 「……貴方は禍津日神か?」  真人は緊張しながらもその女神を見据えながら聞いた。 「(われ)は伊邪那美命という。ここでは黄泉津大神とも云われているようじゃが」  その女神はまるで子供のように悪戯っぽく怪しい笑みを浮かべたかと思うと口元を裾で隠しながらそう名乗った。 「……伊邪那美命」  真人は伊邪那美命という名を聞いて驚き思わずその名を呟くと伊邪那美命の顔を見つめる。 「ここはいったい何処です? なぜ俺は拘束されてるんですか?」 「ここは死者の住む黄泉の国じゃ」 「黄泉の国……」  黄泉(よみ)(くに)。  黄泉の国とは、日本神話における死者の世界の事。  古事記では黄泉國(よみのくに、よもつくに)と表記される。  死者の住む冥界。  黄泉や泉国とも書き、本来は山岳的他界を表すが、墳墓を山丘に営む事が多い事から死者の国をいう。  古事記では伊邪那美命(いざなみのみこと)迦具土神(かぐつちのかみ)を産み、焼死した後にここに至る。  根の国、沖縄(おきなわ)のニライカナイと同様、海上の他界、あるいは罪や穢れの集まるところとも考えられている。  黄泉の国には黄泉比良坂(よもつひらさか)という出入口が存在し、葦原中国(あしはらのなかつくに)とつながっているとされる。  伊邪那岐命は死んだ妻である伊邪那美命を追ってこの道を通り黄泉の国に入ったという。  古事記には後に『()堅州国(かたすくに)』というものが出てくるがこれと黄泉の国との関係については明言がなく、根の国と黄泉の国が同じものなのかどうかは、説が分かれる。  また、古事記では、黄泉比良坂は出雲国(いずものくに)に存在する伊賦夜坂(いぶやざか)がそれであるとしており、現実の土地に当てはめている。  古代の中国人は、地下に死者の世界があると考え、そこを黄泉(こうせん)と呼び、聖書では黄泉(よみ)と訳しており、日本語訳聖書においては、口語訳聖書では黄泉、新共同訳聖書では陰府(よみ)、新改訳聖書では「ハデス」と訳されている。 「じゃあ、俺は死んだんですか?」  真人は黄泉の国という場所から自分が死んだと考えた。 「いや、まだ生きておるよ。お主の魂は加護によって守られておったからのう、こうして囚える事しか出来なかった」  伊邪那美命はまるで子供のように楽しそうに笑いながら答える。  真人はそんな伊邪那美命の様子に言葉に出来ない恐怖を感じた。 「俺を囚えてどうするつもりだ⁉」  真人は伊邪那美命がまともに話の通じる相手じゃないと判断すると敬語を使うのを止め厳しい口調で伊邪那美命に目的を問い質した。 「お主には現人神(あらひとがみ)となり伊邪那岐命の指示により人間を守護している神々をその神殺しの力で殺してもらう」  現人神(あらひとがみ)。  現人神は、『この世に人間の姿で現れた神』を意味する言葉。  現御神(あきつみかみ)、現つ御神、現神(あきつかみ)、現つ神、明御神(あきつみかみ)明神(あきつかみ)とも言う。  荒人神(あらひとがみ)とも書く。  また、生きながらも死者と同じ尊厳を持つ。という意味もある『人間でありながら同時に神である』という語義でも用い、主に第二次世界大戦終結まで天皇を指す語として用いられた。 「そんな事するわけがないだろ!」  真人は人間を守護している神々を殺せと言われて強く拒絶する。 「勘違いをしておるようじゃが、お主に拒否権はないのじゃよ」  伊邪那美命はまた子供のように楽しそうに笑い出す。 「身体が穢れに染まりきれば魂の加護は穢れに耐えきれずに崩壊し、やがて魂も穢れに染まればお主は自我を失い目に映るものすべてを破壊する」 「……あれはあんたが⁉」  伊邪那美命の言葉を聞いた真人は神域に戻った時、安心した途端に全身から力が抜けたかと思ったら、その場に倒れてしまい身体から発生した穢れが自身の身体を黒く侵食していた事を思い出し叫ぶと伊邪那美命を睨み付けた。  真人の反応を見た伊邪那美命は再び楽しそうに笑う。  ――同じ頃。  神域の家では宇迦と御饌が穢れに侵食されていく真人の身体を必死に守っていた。  神奈は結に頼んで乙舳から詳しい話を聞いたが具体的な解決策は得られず、現世(うつしよ)から戻り庭で獅子神と犬神の頭を撫でていた。  二匹の頭を撫でる神奈の表情は無表情だったが、どこか悲しそうな雰囲気が感じられた。  すると突然、犬神が何かに反応するように顔を上げ鼻をひくつかせながら周囲の臭いを嗅ぎ始めると獅子神もすぐに同じ様に何かに反応し鼻をひくつかせ、二匹同時に真人たちがいる部屋を見つめ唸り声を上げだした。  その二匹の様子に気づいた神奈がすぐに真人たちのいる部屋の障子を開けた。 「……神奈さま?」  その神奈の様子に疑問を抱いた宇迦は何かあったのかと神奈を見つめながら怪訝な表情を浮かべる。  しかし神奈はそんな宇迦には構わず何かに反応するように布団の上に寝かされた真人を見つめる。 「いかがなさいましたか?」  その神奈の様子に宇迦が神奈の視線を追って真人を見て尋ねると、突然、真人の腕に巻かれた穢れの侵食を抑える薬を塗った包帯を変えていた御饌が手に痛みを感じ慌てて真人の身体から手を離した。 「御饌⁉ ……これは」  宇迦がそれに気づいて御饌に駆け寄りその手を気遣いながら真人の身体を見ると穢れが勢いを増して真人の身体を侵食し始めていた。  それは穢れに耐性がある御饌ですら我慢できないほどの強い穢れだった。  宇迦は突然の事に戸惑うが、今はそんな事より真人の身体から発生する穢れを抑える事が重要だと考え慌てていると、宇迦が神域で力を使って慰め続けている大気都比売神(おおげつひめのかみ)保食神(うけもちのかみ)の魂の気配が消え、大気都比売神と保食神の魂が解放された事に気づく。 「一体何が……」  宇迦は何が起きているのかわからなかったが大気都比売神と保食神の魂が解放された事により全ての力を使う事ができるようになったので、真人の身体からの発生する穢れの侵食を全ての力を使い押さえ込んだ。  宇迦が真人の身体から発生する穢れの勢いが突然増した事と大気都比売神と保食神の魂が解放された事を疑問に思っていると御饌は痛みを感じた手を神妙な面持ちで見つめていた。  宇迦は御饌のその様子を横目で見ながら思案を巡らせる。 「……まさか⁉」  自分が慰めていた大気都比売神と保食神の魂を解放し、穢れに耐性のある御饌に痛みを与えるほどの穢れを発生させる事のできる神は一人しかいない。 「伊邪那美命さまなのですか?」  宇迦が神妙な面持ちで訪ねると御饌は宇迦の目を見ながらゆっくりと頷いた。 「しかし、参りましたね。真人さまをお助けするために伊邪那美命さまに会うには伊邪那美命さまが居られる黄泉の国へ行かなければなりません。ですが黄泉の国と現世を繋いでいた黄泉比良坂(よもつひらさか)はすでに別たれてしまっています」  現在、現世にある、かつて現世と黄泉の国の境目とされていた黄泉比良坂から黄泉の国へは行く事はできない。  そもそも黄泉比良坂はまだ現世と神域や黄泉の国がはっきりと別たれていない時代に黄泉の国に繋がっていただけで黄泉の国の出入り口だった訳ではない。  宇迦がなんとか黄泉の国へ行けないかと悩んでいると御饌が辛そうな影のある表情をしたかと思うと宇迦の肩にそっと手を置いた。 「御饌?」  宇迦が振り返ると御饌は真剣な表情で宇迦を見つめる。 「……黄泉の国への行く方法を知っているのですか?」  聞かれて御饌が頷くと宇迦は自身の胸に手を当てながら大気都比売神と保食神の魂を慰める必要がなくなった事で自分の持つ本来の力をすべてを使えるので穢れにも耐える事ができる事を確認する。 「……行きましょう」  宇迦は深呼吸をして覚悟を決めると真人の身体を覆うように結界を張り獅子神と犬神に真人の事を守るように言うと神奈と一緒に御饌の後について現世へ繋がる社へ入っていった。 ――――  宇迦たちは社を通って現世に着くとそのまま御饌は二人を横浜市郊外にある重く暗い雰囲気の古い神社まで案内する。 「……ここは?」  宇迦がそう言いながらその古い神社を確認すると境内に漂う伊邪那美命の力からそこが伊邪那美命が祀られている神社だと理解した。  更に、この古い神社は伊邪那美命の力で認識を阻害する結界が張られているため神社庁はもちろん地元の人間でも知るものはいない神社だった。  御饌が神社の社の戸を開き中に入ると中には御神体などはなく、木製の簡素な棚に脚の付いた何の飾り気もない丸い卓上鏡が置かれていた。  その鏡は相当古いのかよく見ると脚は元の形がわからないほど朽ちてしまっていたが不思議と鏡自体は磨きたてのような輝きを保っていた。  御饌に続いて神奈と宇迦が社の中に入り中の様子を窺っていると御饌はその鏡の前に立ちじっと鏡を見つめる。  すると鏡から穢れが靄のように上がったかと思うと、その穢れは御饌たちを囲うように渦を巻き、狼狽える宇迦たちと御饌を完全に覆い隠したかと思うと、すぐに霧散し宇迦たちと御饌は姿を消した。  ――黄泉の国。 「俺に人間を守護している神々を殺させてどうするつもりだ⁉ 自分がその神々にでも成り代わるつもりか⁉」  真人は自分の反応を見て笑う伊邪那美命に苛立ちながら聞いた。 「成り代わる? どうして我が人間などを守護してやらねばならんのじゃ?」  そう言うと伊邪那美命は口元を裾で隠しながら無邪気に笑い続ける。 「だったら、なぜ⁉」 「我はただ、伊邪那岐命を困らせてやりたいだけじゃ」  真人は伊邪那美命の言葉を聞いて師岡の言葉を思い出した。 『……ほとんどの神様はいい加減で気に入らないというだけで災厄を起こしたり、過去には邪神、暴神、悪神など直接人間に危害を加え恐れられた荒ぶる神様も……』  こんな自分の個人的な都合や理屈と価値観で物を考え、そのためなら世の中を混乱させても構わないなんて人間の子供と一緒じゃないか。  それを周囲に押し付け気に入らないというだけで災厄を起こす自分勝手な神の典型だ。 「そんな事のために……」 「そんな事?」  真人の言葉に先程まで楽しそうに笑っていた伊邪那美命の顔が冷たい表情に変わり伊邪那美命の身体から穢れが嵐のように吹き荒れる。 「約束を破り我のこの姿を見た伊邪那岐命は許せぬ」  言いながら伊邪那美命の身体は皮膚が所々爛れていき腐敗して蛆がたかり見るも恐ろしい姿へと変わっていく。  真人が伊邪那美命の姿に恐怖し身震いすると、その様子に気づいた伊邪那岐命は再び口元を裾で隠しながら楽しそうに笑いだす。  しかし、突然、伊邪那美命は真顔になったかと思うと伊邪那美命の爛れた身体は元に戻り横にある大きな岩を見る。 「……ほう、誰か来たようじゃな」 「……?」  伊邪那美命の言葉に真人も伊邪那美命が見る岩に視線を移す。  岩ばかりで何もない殺風景な黄泉の国に佇む古い社の中に穢れが靄のように上がったかと思うと、その穢れは渦を巻きながら人の高さまで昇っていき、すぐに霧散して消えると、そこに御饌と宇迦と神奈が姿を現した。  御饌は社を出るとすぐに耳を澄まし周囲の音を探り始めた。 「御饌⁉ ……ここは?」  御饌を追うように社から出てきた宇迦は外の様子を見渡して言葉を失う。  宇迦の様子を余所に周囲の音を探っていた御饌が何かに気づき駆け出し、大きな岩の死角を見たかと思うと何かに驚き足を止める。  その御饌の様子に気づいた宇迦は慌てて御饌に駆け寄る。 「……どうしました? ……真人さま⁉」  御饌の視線を追った先に石柱に鎖で拘束され囚われている真人の姿を見つけ宇迦は思わず真人の名を叫んだ。  宇迦が真人の元へ駆け出そうとするが御饌が腕を出しそれを制止する。 「御饌?」  制止された宇迦が御饌を見ると御饌は真人の目の前にいる伊邪那美命を睨みながら警戒する。 「あの方は……伊邪那美命さまなのですか?」  宇迦が聞くと御饌は冷や汗をかきながら頷いた。 「ん? ……なんじゃ、お主はいつぞやの野狐(やこ)ではないか」  御饌たちの様子を黙って見ていた伊邪那美命が何かに気づいた様子でそう言って楽しそうに笑うと真人と宇迦は御饌に視線を移す。  すると二人から見られた御饌は暗い表情をしながら気まずそうに視線を落とす。 「人間に殺され、この黄泉の国を人間を恨みながらさ迷っているようだったから恨みを晴らさせてやろうと力を与えてやったものを、人の犬に成り下がったか?」 野狐? 妖狐(ようこ)だったという話は宇迦から聞いていたが、人間を恨んでいたとはどういう事だ?  伊邪那美命の言葉に真人の頭は混乱する。 「そうか、お前も奴に手懐けられたか、野狐とはいってもやはり犬と同じか。ああ、忌々しい我が子、月読尊(つくよみのみこと)、どこまで我の邪魔をすれば気が済むのか」  御饌が月読尊に手懐けられた?  人間を恨んでいた御饌を月読尊が救ったのか。  御饌の知られざる過去に真人の頭はますます混乱していく。  伊邪那美命は言い終わると、御饌を見る顔は再び冷たい表情に変わり身体からは穢れが嵐のように吹き荒れると、再び伊邪那美命の皮膚が所々爛れていき腐敗して蛆がたかると見るも恐ろしい姿へと変わっていく。  伊邪那美命のその姿に足がすくんで動けずにいた御饌に伊邪那美命が襲いかかる。  いつもの御饌ならどんなに恐ろしい相手でも足がすくんで動けなくなるなんて事はない。  そんな御饌がここまで怯えるなんていったい御饌と伊邪那美命にどんな関係があるのだろうか。  真人は混乱しながらも御饌に襲いかかる伊邪那美命を見て身体を拘束する鎖を解こうと必死でもがいた。  襲い来る伊邪那美命に宇迦は慌てながら御饌の様子を見て咄嗟に伊邪那美命から御饌を庇うように間に立ち両手を掲げると眷属の狐を呼び出し結界を張る。 「過去に何があろうとも御饌は御饌です!」  伊邪那美命が襲いかかった勢いのままに両の手の平でその結界に触れると手の平から黒い煙が立ち上るが伊邪那美命は構わずに両手で結界に触れ続ける。  結界に触れた伊邪那美命の手の平が傷ついて黒い煙が上がってるのかと思ったが、黒い煙は徐々に結界全体を覆い始め次第に結界が薄まっていく。  すると、結界を張る宇迦は苦しそうな表情をしながら結界を保とうと掲げた両手に力を込める。  だが、伊邪那美命の爛れた皮膚が地面に落ちるとそれは恐ろしい顔をした鬼女へと変わり宇迦の眷属の狐に襲いかかり狐を喰らい始めた。  黄泉醜女(よもつしこめ)。  黄泉醜女は、日本神話に伝わる黄泉の鬼女。予母都志許売(よもつしこめ)とも呼ばれる。  恐ろしい顔をしており、一飛びで千里(約四千キロメートル)を走る足を持つ。  伊邪那美命が自分との約束を破って逃げ出した伊邪那岐命を捕まえるため、黄泉醜女に伊邪那岐命を追わせた。  伊邪那岐命は蔓草(つるくさ)で出来た髪飾りを投げつけたところ、そこから山葡萄(やまぶどう)の実が生えた。  黄泉醜女はそれに食いつくも、食べ終わると再び伊邪那岐命を追いかけた。  次に伊邪那岐命は右の角髪から湯津津間櫛(ゆつつなくし)を取り、その歯を折って投げた。  すると今度は竹の子が生えてきて、黄泉醜女はまたそれに食いついた。  その間に、伊邪那岐命は黄泉醜女から逃げ切ったという。  宇迦の眷属の狐が張った結界が消えると、伊邪那美命の頭、胸、腹、下腹、左手、右手、左足、右足から八つの雷が発生する。  八雷神(やくさのいかずちのかみ)  黄泉の国で腐敗した伊邪那美命の体に成っていた八種の雷神。  頭にいたのが大雷神(おおいかづちのかみ)胸に火雷神(ほのいかづちのかみ)、腹に黒雷神(くろいかづちのかみ)、下腹に折雷神(さくいかづちのかみ)、左手に若雷神(わきいかづちのかみ)、右手に土雷神(つちいかづちのかみ)、左足に鳴雷神(なるいかづちのかみ)、右足に伏雷神(ふしいかづちのかみ)がいた。  大雷ならば一際激しい雷を、火雷ならば落雷と共に起こる火を、黒雷ならば天地を暗くする黒雲と共に走る雷を、折雷なら岩を砕き草木を裂く雷を、若雷は空中に発生し静止する若木のような枝状の雷の様を、土雷は幾十と重なり落ちようと落雷後に地中に潜ったようにも消える雷が、鳴雷は雷の音を、伏雷は音のない遠雷か雲に隠れた雷だった。  伊邪那美命の雷が宇迦に襲いかかろうとすると御饌は目にも見えない速さで飛び出し、禍々しい獣人の姿に変化し獣のように伸びた爪で伊邪那美命を止めに入る。 「真人さま」  御饌が伊邪那美命の相手をしている隙に宇迦が真人を拘束している鎖から解放する。 「……忌々しい」  しかし、真人が鎖から解放された事に気づいた伊邪那美命が真人を狙って若雷を放つ。 「真人さま!」 「くっ!」  宇迦の声で雷に気づいた真人は咄嗟に頭を腕で庇うが、御饌が真人を庇うように前に立つ。 「なっ! 御饌!」 真人が叫ぶと同時に御饌は若雷に打たれその場に倒れてしまった。 「御饌!」  真人が御饌の身体を抱き抱えると若雷を受けた胸の部分が黒く焦げ、名前を呼ぶ真人の声にも御饌はまったく反応をしなかった。 「人間に殺された犬が人間を庇って死ぬとは所詮は獣か」  そう言うと伊邪那岐命は真人に抱かれた御饌を見ながら再び口元を裾で隠し楽しそうに笑いだす。  伊邪那美命の理不尽な様子に真人は自分の心が黒く染まっていく事を感じた。 「いけません! 真人さま!」  宇迦が真人に叫んだ。  ――神域。  同じ頃、神域では宇迦が張った結界に覆われた真人の身体を守るよう宇迦たちに言われた獅子神と犬神が反応し、布団に寝かされた真人の身体を見ると真人の身体が穢れに黒く染まり全身から黒い穢れを放ち始める。  黄泉の国。  真人の身体は穢れに覆われ黒い人型の靄のようになると、目の部分は獣のように赤く輝いているがその赤い光が頬を伝い落ちまるで泣いているかのようでもあり、恐ろしい反面どこか悲しそうにも見えた。  突如、真人は予備動作もなく飛び上がり伊邪那美命に襲いかかる。  すぐに伊邪那美命は自分を守るように結界を張ると真人は獣のように四つん這いでその結界に張り付き、その結界に爪を立てた手を振り下ろす。  すると、伊邪那美命の張った結界が硝子の様に砕けるが結界は何重にも張られているのか真人はすぐ内側に張られた結界に阻まれ、そのまま今度はまるで獣のように立て続けに爪を立てた手を振り下ろし結界を砕き続ける。 「ほう、我の結界を容易く砕くか」  真人が伊邪那美命の気を引いてる内に宇迦が御饌を真人たちから離し抱き抱える。 「図に乗るでないぞ! 人間が!」  伊邪那美命が腕を振り上げると伊邪那美命の頭上に大きな赤黒い刃が現れる。  伊邪那美命が勢いよく腕を振り下ろすと赤黒い刃が真人の身体に突き刺さる。  そのまま勢いよく後方に吹き飛ばされた真人は岩に激しく身体を打ち付け気を失ってしまったのか動かない。 「ちょうど良い、このまま現世に送ってくれるわ」  伊邪那美命が真人に向かって手を伸ばすと真人の身体は宙に浮かび上がり、伊邪那美命が手の平を上にして手招きをすると真人の身体は宙に浮いたまま岩から離れ伊邪那美命にゆっくりと近づいていく。  そして伊邪那美命がもう片方の手を真人の足元に向かって伸ばし指先で円を描くと、真人の足元に靄のような穢れが円を描きながら発生する。  その穢れは真人を足元から囲うように渦を巻き真人を覆っていく。 「そういう事なのですね。あなたは瀬織津姫さまに自身の穢れを潜ませ、真人さまに移すと神域で暴走させ、その穢れに呼応した大気都比売神と保食神の魂を呼び寄せ取り込んだのですね」  宇迦が言うと、振り返った伊邪那美命の身体から二つの強い穢れを発生させる力が感じられた。  ……ここはどこだ?  真人は気がつくと白い靄が漂う何もない真っ白な空間にいた。  俺は確か伊邪那美命に捕まって……。  真人は御饌が自分を庇って伊邪那美命の放つ若雷に打たれ倒れた事を思い出す。  真人はすぐに首を左右に振って周囲を見渡し、あれから何があったのか状況を確認しようとするが、周りは真っ白な空間で何も確認する事ができない。  くそっ!  状況が理解できず真人が焦っていると突然目の前に淡い光が現れその光からゆっくりと御饌が姿を表した。 「御饌!」  真人はそう叫ぶと急いで駆け出すが足は空を蹴り、なぜか御饌に近づく事ができない。 「御饌!」  真人がもう一度御饌の名を叫び御饌がそれに応える様に笑顔を見せるとその姿は再び淡い光へと変わり周囲に広がっていく。  ……⁉  真っ白な空間に光が広がり真人は眩しさで目を閉じた。  これは……。  真人が再び目を開くとそこには見慣れない田畑や山々など、原風景のようなどこか懐かしさを感じる穏やかな景色が眼下に広がっていた。  何が起こったのかとしばらく景色を見渡していると、ふと山の中で動く何かが目に入る。  なんだろうと気になると真人の視界がそこへ近づいていく。  どうやら山の中で動いていたのは野生の狐のようだが、その狐は縄で作られた罠に足を捕らわれてしまったようで罠から逃げようと必死にもがいているようだった。  すると、その狐に近づく人影が一つ、その人影は髪を左右で結び幅の広い布を僧侶の袈裟のように身体に巻き付け結んだ古い時代の服装をした人間だった。  そして、その人間が腰に携えた小刀を鞘から引き抜くと狐にゆっくりと近づいていく、その人間に気づいた狐はすぐに人間がいる方向と逆の方向へ逃げ出そうとするが罠に足を捕らわれているため逃げる事ができない。  しかし、なんとその人間は罠の付け根の縄を掴むと持っていた小刀でその縄を切ってやった。  狐は縄が切れると振り返りもせずに足に縄を着けたまま一目散に山の中に逃げていった。  真人は逃げていくその狐を笑顔で見送る人間の男の顔がどことなく自分に似ていると思った。  それから数日間。  その男が山に入るとその狐を見かける事が多くなった。  狐は付かず離れず、男と一定の距離を保ちながらその男の事を観察し続けていた。  また男もその狐には気づいていたが特に何もせず放っていた。  それから狐は何度も男を観察し続け人里まで近づいて来るようになった。  ――だが、ある日の事、その日も狐は男を観察し続け、日も暮れて山に帰ろうとしたところ畑を荒らしに来たのだと勘違いした猟師が仕掛けていた罠に引っ掛かり殺されてしまった。  その時、真人は魂となったおかげで魂に残った記憶から今まで見ていた光景に出てきた狐を助けた人間の男が前世の自分なのだと理解できた。  すると突然、景色は黄泉の国に切り替わった。  ここは……?  俺は黄泉の国に戻ってきたのか?  いや、確かに黄泉の国だが、雰囲気が違う、さっきまでいた黄泉の国より何か殺伐している。  真人が再び首を左右に振って周囲を見渡しながら状況を確認しようとしていると黄泉の国をさ迷う一匹の狐が目に入る。  あの狐は……。  毛の模様からあの狐だとわかるが、人間に殺された恨みからか男を観察していた狐と同じとは思えないほど険しい表情に変わり狐の身体からは絶えず大量の穢れが溢れ出ていた。  そして、その狐の前に伊邪那美命が現れ狐に語りかけ狐に向かって手をかざしたかと思うと狐は人の姿と成り、伊邪那美命はその人の姿になった狐を見て不敵に笑うと真人にしたように手を狐の足元に向かって伸ばし指先で円を描き、狐の足元に靄のような穢れが円を描きながら発生したかと思うと、その穢れは狐を足元から囲うように渦を巻きながら狐の姿を覆っていき、すぐに霧散して消えるとそこにいた狐の姿は消えていた。  そして再び景色は男と狐が過ごした見慣れない田畑や山々などの原風景に変わる。  しかし、そこは以前の穏やかな景色と違い、血を流し横たわる人々の先で両腕を大量の血で真っ赤に染めて不敵に笑いながら佇む狐の姿があった。  ……⁉  何があったのかと真人が状況を理解できないでいると、それからもその狐は目にも止まらぬ早さで駆け出し近くにいた人々を次々と襲っていく。  やがて夜も更け襲う人間がいなくなったのか狐はその場に立ち尽くしていた。  すると、月から紫の衣を着て、金作りの太刀を腰に下げた男神が舞い降りる。  その男神が狐に向かって手をかざすと狐の身体から溢れ出ていた大量の穢れは浄化され、険しかった表情は和らぎその場に膝から崩れ落ち狐は気を失った。  そして景色が消え、真人が再び白い靄が漂う真っ白な空間に戻ると再び真人の前に御饌が姿を現した。 「今のは全て御饌が見せたのか?」  真人の問いに御饌は頷く。 「あの狐は御饌なのか?」  すると御饌は悲しそうに作り笑いをする。 「なぜ今俺にこんなものを見せる?」  御饌は笑ったまま黙って真人に頭を下げると後ろを向きそのまま何処かにゆっくり歩いて行ってしまう。 「御饌! 待ってくれ!」  真人の言葉も聞かずにその場から御饌が離れていくと真人は急いで駆け出すが、また足は空を蹴りなぜか御饌に近づく事ができない。  そして御饌の姿は真っ白な空間に溶け込むように消えていった。  同じ頃。  神域の家の真人の部屋では真人が布団に寝かされその側で獅子神と犬神が穢れの侵食から真人の身体を宇迦の張った結界の側で守るように寄り添っていた。  突然、犬神が何かに反応して顔を上げると遅れて獅子神も同じように何かに反応し顔を上げ、二匹は揃って障子を見つめる。  そして真人の部屋の障子が開くと大家津姫命が部屋に入ってきた。 「妹の愛した人間が不甲斐ない」  大家津姫命は布団に寝かされた真人を見ながらそう言うと、そのまま布団に寝かされた真人の身体に近づく。 「あなたたちは少し離れてなさい」  大家津姫命がそう獅子神と犬神に言うと二匹は立ち上がり結界の側を離れ場所を開ける。  そして大家津姫命が結界越しに真人の身体に向かって手をかざすと大家津姫命の手の平から光の粒が真人の身体に降り注ぐ。  光の粒は真人の身体に触れると一粒一粒が波紋のように広がり波紋同士がぶつかり合いながら広がっていくと真人の身体を侵食していた穢れはゆっくりと浄化されていった。  ――黄泉の国。  伊邪那美命が発生させた穢れが真人の姿を覆い現世に送り込もうとしていると、突如、穢れの中から強い光が発生する。  強い光に包まれ真人を覆っていた穢れの渦が霧散すると元の姿に戻った真人が伊邪那美命から解放される。 「これは……」  伊邪那美命から解放された真人は何が起きたのかわからず自分の身体を確認する。  身体を包む光が収まっていくと真人は自分の身体に力が溢れてくるのを感じた。 「……なんじゃ?」  伊邪那美命は状況が理解できずに後退る。 「それも月読尊の力か、本当に忌々しい」  そう言いながら伊邪那美命が真人に向かって腕を伸ばすと伊邪那美命の身体から大量の穢れが発生し一気に真人を覆い隠す。 「真人さま!」  宇迦が真人を心配して叫ぶと真人を覆った穢れの中から数滴の水滴が伊邪那美命に向かって飛んでいく。 「くっ!」  伊邪那美命が咄嗟に手で水滴を払うと振り払った手の水滴が当たった箇所が爛れ肉が腐り落ちていく。  伊邪那美命が爛れていく肉に気を取られていると穢れの中から真人が左手に持った大麻(おおあさ)を突き出しながら飛び出し伊邪那美命の胸に右手に持った琥珀の刀を突き立てた。 「ごほっ⁉ ……馬鹿な……その力は、それじゃまるで、あの人の……」  伊邪那美命は真人から逃れるように退くと血を吐きながら目の前に立つ真人の身体の周りに浮かぶ水滴と真人の持つ大麻を見て取り乱す。  真人は血を吐いた伊邪那美命を見て戸惑う。 「私たちのような神は精神体で人間のように肉体を持ちませんが伊邪那岐命さまと伊邪那美命さまは神産みのため肉体を持っているのです」  宇迦が戸惑う真人を見て咄嗟に説明する。 「くっ……!」  伊邪那美命が苦しみながら胸に刺さった琥珀の刀を引き抜くと胸から大量の血が流れ出す。  伊邪那美命は苦しみながら両手を胸の傷口に添えると伊邪那美命から発生していた穢れが傷口に集まっていき流れ出る血が治まっていく。 「神奈!」  伊邪那美命が傷口を塞ごうとしてる事に気づいた真人が神奈の名を叫ぶと今まで離れていた神奈がいつの間にか伊邪那美命の後ろで正座をし目を閉じていた。  すると、先ほどまで吹いていた風が止まり、辺りは静寂に包まれ、周囲から神奈を中心に光の靄が集まり、それは段々と数人の人の形を成していく。 「いつの間に?」 「大気都比売神と保食神の魂が伊邪那美命に取り込まれたという宇迦の言葉は聞こえていたからな」  神奈の様子を見ながら真人は宇迦の疑問に答える。  人の形になった精霊は横笛や鼓などの楽器を持ち、神奈が立ち上がると一斉に演奏を始め、演奏に合わせて神奈が舞いだす。  すると傷口に集まっていた伊邪那美命の穢れは薄れていき伊邪那美命の発生させる穢れが勢いを失っていくと伊邪那美命の傷口から再び大量の血が流れ出し伊邪那美命はよろけながら後退りしていく。  そして伊邪那美命の身体から二つの強い穢れを発生させる赤黒い光が解き放たれるとその光は空高く昇っていき空を覆う赤黒い雲の中に消えていった。  伊邪那美命はよろけながらも琥珀の刀を真人の目の前に放り投げると伊邪那美命から発生した穢れが激しく渦を巻きながら伊邪那美命の姿を覆っていく。 「ああ、愛しい伊邪那岐命、そうまでして我をこの国に閉じ込めたいか」  そう言い残し激しく渦を巻いた穢れが伊邪那美命の姿を覆い隠して霧散すると伊邪那美命の姿は消えていた。  それを確認した神奈がゆっくりと舞いを終えその場に正座すると、それに合わせて演奏もゆっくりと収まっていく。 「宇迦! ……御饌は⁉」  真人は御饌の身体を抱き抱える宇迦に駆け寄る。  宇迦は顔を伏せたまま黙って首を左右に振る。 「神は死なないんだろ⁉ 例え神格を失ったとしても生まれ変われるんだろ⁉」  真人は黙り続ける宇迦に捲し立てる。 「御饌は純粋な神とは違い元狐ですので我々のように死んでも生まれ変わる事は出来ないのです」  宇迦は顔を伏せたままそう言うと御饌を地面にそっと寝かせた。  翌日。  真人たちは神域の家まで戻ってきていた。  昨日、真人たちは神域の家まで戻り御饌を家の中に運び布団の上に寝かせると真人と宇迦は顔を伏せたきりお互いに口も利けないほど打ちひしがれていた。  お互いに一言も交わさずに自室に戻るとそのまま休んだ。  真人は目が覚めると台所や家の中で御饌がよく居た場所を見て回ってから御饌の部屋に入ると御饌が眠る布団の横に座り御饌の顔を見つめる。 「ただいま戻りました」  しばらくすると宇迦が帰宅してきて御饌の部屋に入ってくる。 「……すまないな。全部任せてしまって」  宇迦は目が覚めると気を紛らわすためか、すぐに解放された大気都比売神と保食神の魂を慰めに祠まで行っていた。 「いえ、大気都比売神と保食神の魂を慰める事は私にしかできませんから」  そう言う宇迦の顔を見ると泣いてきたのか泣き腫らした目をしていた。 「……悲しい表情をしていますね」  御饌の顔を見ながら言葉を交わさずに沈んでいると庭から声が聞こえ、真人たちが驚きながら声の聞こえた庭を見るといつの間にか庭に大家津姫命が立っていて、神奈と獅子神と犬神がその様子を見つめていた。 「とてもあの伊邪那美命さまを退けた者の姿とは思えませんね」 「申し訳ないのですが、今はまだ何も手につかなくて……」  そう言うと真人は布団に寝かされた御饌の顔を見る。 「またいつ伊邪那美命さまが貴方を狙ってくるかわからないのですよ」 「……⁉ ……伊邪那美命はまだ生きているんですか?」  大家津姫命の言葉に真人は驚きながら大家津姫命を見た。 「真人さま、伊邪那美命さまの神産みの力とは神格を産み出す力です。例え琥珀の刀で神格を絶っても新たな神格を産み出し死ぬ事はないでしょう」  事の経緯を見ていた宇迦が大家津姫命の代わりに説明する。 「じゃ、どうして伊邪那美命は退いたんだ?」 「真人さまが伊邪那美命さまと戦われた時に使っておられたあの水滴と大麻は速玉之男神(はやたまのおのかみ)事解之男神(ことさかのおのかみ)でしょうか?」 「あ……ああ、俺にもよくわからないが身体に力が溢れてくる感じがしたかと思ったら、速玉之男神と事解之男神が使えるようになっていて」 「あの時、真人さまは現人神となっていたのです。ですから神器である速玉之男神と事解之男神を呼び寄せた事で伊邪那美命さまは退いたのではないかと」 「どういう事だ?」  真人には宇迦の言ってる事が理解できなかった。 「肉体を持ち神器を扱う真人さまの現人神の力は伊邪那岐命さまと同じ力なのです」  真人は伊邪那美命が取り乱しながら言った言葉を思い出した。 『ごほっ⁉ ……馬鹿な……その力は、それじゃまるで、あの人の……』  伊邪那美命が言っていたあの人というのが伊邪那岐命の事なのだろう。 「またいつ伊邪那美命さまが貴方を狙ってくるかわかりません。ならば、その時に対応できるように備えは必要でしょう」  大家津姫命は真剣な表情で訴える。 「ですが、それも御饌がいなくなってしまっては……、それにもし御饌の代わりになるような力を持つ存在が現れたとしても、しばらくは……」  そう言って真人は再び布団に寝かされた御饌の顔を見た。 「御饌に会いたいですか?」  大家津姫命の言葉に真人と宇迦は目を見開きながら大家津姫命の顔を見る。 「……御饌に会えるんですか?」  真人の言葉に大家津姫命が両手をゆっくりと前に出して両方の手の平を上に向けると手の平の上に力強く輝く光の玉が現れる。 「抓津姫命が貴方の魂を見つけ出したので、もしかしたらと思ったのですがやってみるものですね。御饌の魂は死後に伊邪那美命さまが伊邪那岐命さまへの恨みから神産みの力を暴走させて作った特別な魂だったので、思ったより見つけるのに苦労はありませんでした」 「それが御饌の魂なんですか?」  御饌の魂は伊邪那美命が暴走させて作ったとは思えないほど美しく輝いていた。 「御饌がいれば、いざという時に対応も可能でしょう。後は黄泉の国にいる御饌の思念を捜し出すだけです」 「思念……、黄泉の国ですね。伊邪那美命さまの肉体が癒えるまで時間がかかるでしょうから今ならまだ気づかれないかもしれません」  宇迦が呟く。 「生命の思念は死後に生前の思いに強く影響を受けます。それは稲荷となっても変わりません。きっと御饌は黄泉の国で貴方を待っているはずです。捜し出して上げて下さい」  大家津姫命はそう言うと優しく微笑む。 「私からもお願い致します」  大家津姫命の言葉に今度は宇迦がはっきりとした声で言うと真人に頭を下げる。  大家津姫命と宇迦の言葉を聞いて、真人は御饌が見せた前世の自分とただの狐だった頃の御饌の光景を思い出した。 「御饌を迎えに行こう」  真人は立ち上がると布団の上に寝かされた御饌の顔を見ながら力強く答えた。
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