ポッキーの日

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 珍しく先に帰宅した暁斗は、一番に米を洗って炊飯器にセットした。奏人が、得意先のシステムトラブルで現場に赴き、退勤が遅れたとLINEをくれていた。  今夜は鍋にしようと返事をしていた。準備の最後に椎茸の軸を落としていると、奏人が帰宅した。お疲れさま、と(ねぎら)う。 「ありがとう、全部任せちゃったね」 「ああ、いいよ……解決した?」 「うん、大丈夫」  交わされる何でもない会話も、楽しい。 「ご飯今洗ったからちょっと時間がかかる」  暁斗の言葉に、手を洗ってリビングに戻って来た奏人は、何故か明るい顔になった。 「暁斗さん、じゃあこれやろう」  奏人がソファに置いていた鞄から出したのは、知らぬ者の無いお菓子だった。 「ポッキー?」 「今日はポッキーの日だって、ゲームしようよ」  暁斗は奏人の右手の赤い箱を見て、沈黙した。奏人がどうしたの? と覗きこんでくる。 「奏人さんがやりたいのは……ポッキー罰ゲーム?」  奏人がきょとんとする。 「隅と隅から食べ合いするの」 「宴会の罰ゲームだろ?」  暁斗はつい憮然とした顔になってしまう。ポッキー罰ゲームにはろくな思い出が無い。  暁斗はジャンケンやあっち向いてホイなどの小さなゲームに弱いうえに、つまらない(くじ)にはよく当たるため、これまでの人生のあらゆる宴のシーンで、不本意なポッキーチューを強いられて来ていた。そのお相手は、文化祭の打ち上げでの高校のクラスメイトに始まり、大学のゼミ友や担当教官、テニス部のあらゆる学年の者、バイトの先輩、会社の先輩や同僚はもちろん、取引先の担当者もいた。 「自分の結婚式の2次会でもやらされた」 「えっ、蓉子さんとじゃなく?」 「蓉子とはしたことない、男ばっかり」  暁斗のトラウマレベルの経歴に、奏人は複雑な顔をした。その意味を察して、暁斗は慌てて言う。 「どいつとも嬉しくなかったから!」 「……ゲイとしてそれもどうなんだろ? 中には暁斗さんとしたかった人がいた気がするなぁ」 「ノンケとしてもゲイとしても、少なくとも俺はしたくなかった……」  奏人は首を傾げたが、やけに明るく宣言した。 「じゃあ今から暁斗さんの嫌な思い出を上書きするね」  奏人はポッキーの箱を開けて、中袋を裂いた。本気か。暁斗は困惑する。 「僕、人づきあい悪い人生を送ってるから、やったことないんだ」 「学生時代のゼミや美術部でも?」 「うん、飲み会でそんなゲームしなかったよ」  暁斗は軽く衝撃を受ける。同じミッション系でも、大学の雰囲気が違うのか……。  奏人はポッキーの先を暁斗に差し出した。あまりに楽しそうな顔をしているので、がっかりさせたくなくて、チョコレートでコーティングされた細い棒を咥えた。奏人も同じようにすると、それだけで顔が近くて、照れてしまう。奏人の黒い瞳を見つめながら、暁斗は考える。よくこんなこと、好きでもない男とやってたな。これからは絶対拒否しよう。  どちらともなくポッキーを噛み始めると、2口目で鼻がぶつかり、3口目で唇の先が触れ合った。暁斗の胸がどきりと鳴る。奏人はぎゅっと、柔らかい唇を押しつけてくる。チョコレートの味と香りが、味覚と嗅覚に押し寄せた。……あっ、気持ちいい。  唇を離すと、奏人はとろんとした目で暁斗を見つめた。何でこんなに色気を出してくるのだろうと、どきどきしてしまう。 「楽しいじゃん」 「いやまあそれは……したい人とするからだよ、でなけりゃ」  奏人はポッキーをもう1本袋から出した。半ば強制的に口に押し込まれる。ぽりぽりと軽い音が口の中でしたと思ったら、すぐに唇が重なる。 「ん……」  唇をくっつけたままポッキーを飲み下すのは少し難しい。静かでおかしな間が笑えてくる。奏人は暁斗の下唇を軽く吸い、チュッと音を立ててから唇を離す。 「暁斗さんとこれするの、すごく楽しいかも」  奏人は頬を上気させていた。いろいろ話を聞いていると、彼は厳格な家に育ち、友達とふざけながら遊んだり、大人からの叱責を伴ういたずらをしたりしたことがないようだ。そんな風に育った人が、大学生や社会人になってから、素質がない限り急に遊び好きになったりはしない。本当に、酒席で羽目を外す遊興の経験が無いのだろう。  そう考えると俄かに奏人が愛おしくなってきた。ヘビーな風俗業に長年従事していたのに、妙に純な彼が。暁斗は泥の中に咲く蓮を連想する。  暁斗は奏人に乞われるまま、その後3度ポッキーチューにつき合い、最後に彼を腕の中に取り込んだ。こんなことで喜んでくれるなら、ポッキーの日でなくたって、いつでもつき合おうと思う。 「チョコレートに入ってるカカオって、18世紀のヨーロッパでは媚薬だったんだよ」  奏人は耳のそばで言った。聞いたことがある。それだけカカオは貴重なものだったのだ。 「チョコレート食べる度に変な気分になったら、世話ないなぁ」 「でも僕はチョコレート食べたら幸せな気持ちになるよ」  顔を上げてにっこり笑う奏人が可愛くて、彼の小さな頭を右手で引き寄せキスをする。今度はちょっと、しっかりと。奏人の舌には、まだ媚薬の名残りがあった。
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