ある雪の日

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 病気の弟が目覚めた時、兄の姿は無かった。  今日からはクリスマス休暇だというのに、部屋の中はしんとして居て、ヴィルのメランコリック癖をまた少し擽った。  随分楽になった身体を起こし、辺りを見回すが、ヤンの鞄も無くなっていたことから、外出していることが分かった。 「休日はいつも家で勉強してる癖に……」  折角体調が良くなったのに、と、兄の不在に理不尽な苛立ちを覚えながら、ヴィルはベッドを抜けた。  温くなって溶けた氷嚢を持ち、階下へ行くと、何やら香ばしい匂いが漂っている。流動食しか受け付けなかった彼の胃袋がようやく悲鳴を上げ始めていた。  そわそわとキッチンへ向かうと、叔母が腰を屈めてオーブンからケーキを取り出していた所だった。 「ナッツ菓子パン(シュトレン)! 叔母さん、俺に味見させてくれよ!」    背後から急に聞こえた歓声に驚くこともなく、叔母のヘンリエッテは肩で笑った。昨日の憂鬱も忘れ、すっかりお祭り気分の甥は、寝間着のまま足踏みしている。  学校(ギムナジウム)では兄以上の天才で通っているヴィルも、気性の激しさとこういった子供染みた仕草を見ると、とても十六才には見えない。  重たいケーキをようやく食卓に乗せ、揶揄する様な喋り方で甥を宥める。 「ヴィルヘルム、シュトレンは逃げないよ。クリスマス中は何週間も食べ続けるんだから、急ぐこたない。それよりアンタ、ヤンを知らないかい」  ヴィルの足踏みが止まった。熱の所為でぺたんこに潰れたブロンズが、彼の気分を象徴していた。 「ヤン、何も言わずに出て行ったのかよ」 「そうなんだよ。ま、あの子はお前と違って喧嘩も面倒も起こしたことが無いから、心配しては無いんだけどねえ。私が起きた時にはもう出かけた後だったよ」  ちらっと嫌味を入れて場の空気を和まそうとする叔母を尻目に、ヴィルは黙り込んでしまった。  兄が、あの大人しく利発な兄が、心配をかけると分かっていながら行動することなど今まで只の一度だって無かった。  特に自分には、秘密事なんてしたことがなかった。 「俺、探してきてやるよ。もう風邪もすっかり……」 「アンタは未だ出かけちゃ駄目だよ! ご飯を食べて、しっかり寝なさい! この寒さの中にそんな身体で出るだなんて、言語道断!」  まだ扁桃腺だって腫れてるんだろうに云々、と愛情という名の剣幕で叱るヘンリエッテに背中を押され、ヴィルは温かいスープとパンの乗ったお盆と共に、ベッドへ押し戻された。  ヘンリエッテのこういう世話好きな所は大好きだったが、何処へ行ったか知れない兄の行方が気になった。  結露した窓枠から、そっと外を眺める。薄雪の積もる石畳のそこかしこで、クリスマスの飾りが光っている。  その光の美しさと暖かさが、彼の心の孤独感を助長させた。 「何処行ったんだ、こんなに寒いのに」  兄が居なくなるという事態なんて、考えてみたこともなかった。病み上がりの倦怠感も忘れ、弟はすっかり参っていた。  五年前の同じ様な冬日、雪に埋もれて帰って来なかった父のことを思い出した。 「早く帰ってこい、兄貴」  それから暫く外を見ていたが、溜め息を一つ吐いて机へ向かった。彼にも課題はどっさり出ていたし、休んでいた分の勉強も巻き返さなくてはならなかった。  父親と同じ法律家になる夢を持つ兄と違い、ヴィルは小説家に成りたかった。  大学を出て恩返しを出来るような仕事ではないため、口に出したことは無いが、いつか小説家になったら、ロッテの様な可愛い子供たちの為に童話を書こうと思っていた。  家族に報いるという重圧感もあったが、ちゃんと希望も持って、彼らは学校へ通っていた。    結局兄が帰ってきたのは、夜の十一時を回ってからだった。流石に叔母も心配して、何処へ行っていたのかを問い詰めた。  ヴィルも階下へ下りてその様子を見ていたが、ヤンは酷く疲れた顔をして、俯いたまま、ごめんなさいとだけ謝り続けていた。 「すっかり風邪も治ったし、溜まってた勉強も随分進めたんだぜ」  疲弊して部屋へ戻ってきたヤンに、明るい調子で話しかけた。  理解できない兄の姿は、生まれてこのかた初めて見る。ヴィルは、訊いていいものか迷った挙句、結局口を開いた。 「なあ、何処に行ってた? 朝早くから、こんな夜遅くまで。旅行でもしてきたのかよ」  ベッドに腰掛け、コートを脱ぎ始めた兄を眺めると、ヴィルはあることに気がついた。 「……マフラー、何処にやったんだ?」  ヤンがいつもしている厚いマフラーが無かった。ヴィルは、立ち上がって詰め寄ろうとしたが、それよりも早くヤンがそれを制した。 「ロッテにあげてきた」 「会ったのか!」  歓喜の声に顔を上げると、弟の顔は輝く様な明るい笑みを作っていた。ヤンはそれを苦笑で返し、自分もベッドへ腰掛けた。  それからそっと、ヴィルに今日の出来事を話し始めた。激昂しやすい弟を刺激しない様、なるべくゆっくり、しかし事実だけを話した。      ヴィルだけが知らなくて良いなんてことは、無いんだとヤンは自分に言い聞かせていた。  自分たちは、自覚しなくてはならない。  例え家族の期待に応えるため、将来のために努力しているとはいえ、あんな埃の積もった家で、お前たちの未来のために勉強をしているのだと告げるのは卑怯だった。  ルートの言い分も、きちんと理解は出来ていた。  けれども、怖かったのだ。  自分たちの夢のために犠牲になっている様々な存在を、正面から見詰めることが難しかった。    それでも、自分たちは、それを認める義務がある。 「ルートの奴、暫く見ねえ内にヤンに向かって怒鳴れるほど偉くなったわけか」  母のことを耳にしても、無言で見つめ返してきたヴィルが、最初に口を開いたのはルートと喧嘩をしたといったときだった。  それも、少し笑って、揶揄する口調だった。 「まあ……僕の言い方が、悪かったんだ。本当に」 「で、出てきた?」  ヴィルの顔は期待に満ちていた。ヤンは、それを見て、やはり家族は繋がっているのだと感じた。離れ離れになっていても、家族の気持は繋がっている。 「うん。出てきたよ。リトル・レディ・ジャスティス」  首を傾げて泣く様に笑うヤンとは対照的に、ヴィルは、したり顔で頷いた。 「ユスティアの審判はどうだった?」  ルートとヤンの睨み合いの間に立っていたロッテは、暫くオロオロとしていたが、やがて奥の小部屋へ引っ込んでしまった。  ヤンは少し予感をしていたし、ルートもつまらなそうにヤンを睨むのを止めてしまった。  やがて部屋から出てきたロッテは、真っ白な布で目隠しをしていた。けれどもその声は幼い頃の遊びと違って、少しだけ震えていた。 「さあ、喧嘩を止めて。啓示を聞いて」  それから目隠しをしたままこちらへヨロヨロと歩み寄ってくるのを見て、先に噴出したのは難しい顔をしていたルートだった。  つられてヤンも、この家に来て初めて破顔した。  二人の笑い声に、ロッテは困った様に頬を染めた。恥ずかしそうに、嬉しそうに微笑んだ頬は、薔薇色に似ていた。 「ルートは絵を描いて。ヤンは勉強をして。私と母さんは大丈夫だから、二人ともどうか夢を叶えて」  さっきまで笑っていたヴィルが、俯いているのにヤンは気づいていた。  自分もルートも泣いたのに、ヴィルが泣かないわけが無いのだ。この、情緒不安定で激情家の弟が。  ヤンは笑った。ヴィルが泣くときは、ヤンは笑わなくてはならない。その代わり、自分が辛いときは弟に笑ってもらおう。 「だから僕たちは、やっぱり迷っている暇なんて無いんだ。君も僕も、一生懸命勉強しよう。僕たちにはその義務がある。だってユスティアのご神託なんだから」  うん、とヴィルは頷いて、鼻を啜った。 「クリスマスになったら、叔母さんの焼いてくれたシュトレンを持って、母さんに会いに行こうぜ。それまでには俺も絶対風邪を完治させる」  兄弟は、頷き合って、それから二人、背を向けた。お互いの机に向かい合い、深夜まで勉強をした。  自分たちのしていることが正義かどうかは分からない。クリスマスに遊びにいくことだって、偽善かもしれない。  けれども、ロッテが笑ったから、彼らはみんな救われていた。      それから十年後。ヴィルヘルムとヤーコプの書いた童話集に、ルートヴィヒの挿絵が刻まれた本が、キンチッヒ川のあの小さな小屋の本棚に、並んだ。
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