ある雪の日

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ある雪の日

 長い長い夢を見ていた。眠りから覚めると、熱の所為で籠もった耳の奥が少し痛んだ。扁桃腺が腫れているのだと、一昨日医者が枕元でそんな話を叔母にしたのを思い出す。 「あ、ヴィル。起きた?」  頭の随分上の方からドアの開く音と、ヤンの声がする。怠い首を起こせずに身じろぎしていると、一つ違いの兄は隣に来て、それを制した。 「無理しないで。今回の風邪は随分ひどかったから、まだ起きない方がいいよ」 「……ヤン、また殴られたのか」  自分の声が掠れているのと兄の悲惨な姿に、舌打ちしたい気分だったが止めた。  自分を覗き込んだヤンの、腫れた頬と情けない笑顔を見ると、そんな下品なことをして俺まで兄貴を悲しませてどうすると、思い直すことが出来た。 「はは。別に大したことないんだ。ただちょっと小突かれただけ」 「小突かれただけで顔が歪むかよ。誰だ。どこのボンボンにやられた?」  折角下がってきた熱がまた上がりそうなほど怒りに満ちた顔で捲し立てる弟の額に、兄はリビングに居る叔母から預かってきた氷嚢を乗せた。ヴィルは鬱陶しげに眉を寄せたが、焦点は相変わらず兄の青黒く膨らんだ右頬に向けられている。  俺に氷を乗せるくらいなら自分の頬に当てろと言いたげなそれに肩を竦めて、観念したポーズを見せる。それでもヤンは、少しでも弟の心配を除こうと、愛嬌たっぷりに小首を傾げて笑った。 「今日は学校(ギムナジウム)の成績発表日だったでしょ? それでまあ……僕がまた学年トップだった」 「は、お坊ちゃん共は逆恨みしたって訳か」  それには答えず曖昧な視線で返事をし、ヤンは踵を返した。ヴィルの寝ているベッドの脇にある二人用の机に向かう。  重たい教本と辞書を前に爛々と輝いているだろう兄の顔を、今は見られない。  起きあがって兄にも負けない向学心と知的好奇心を満たすために隣の席で勉強することも出来ない。ヴィルは自分の病弱さに苛々した。 「なあ」  それでいつも、周囲の好かない人間にその刃が向けられる。 「なに?」 「ヤンを殴った奴ら、今頃家で殴られてるぜ。Vati(パパ)Vati(パパ)、お願いぶたないで! 次のテストは必ず一番とるから!」  揶揄と憎悪を一言一句に込めるベッドの上の強がりを、ヤンは溜め息で宥めた。  弟は血気盛んで喧嘩も強いが、兄はそういう争いや面倒が苦手だ。好きな勉強をして好きな本を読んで穏やかに暮らしたい。  それでも、父を亡くした痛みだけはお互い同じであると分っている。ヴィルが余所の父親を引き合いに出すなんて滅多にないことだ。    手を付け始めていたラテン語の課題から目を離し、もう一度ヴィルの隣にある自分のベッドへ腰掛けた。思い通りにならない身体で焦れる弟を刺激しないよう、ゆっくり口を開く。 「ねえ、ヴィルヘルム。君は優秀だよ。病気で休んでしまう事も多いけど、テストでは必ず一番だ。悪態を吐く必要なんてないほど。なのにどうしてそんなに焦ってるの? 一体何が不安?」 「不安!」  驚いた様に目を見開き、ヴィルは次に大きく口を開けた。  ベッドに座る兄と横たわる弟の差は歴然としていた。同じ学年トップでも、ヴィルは今、身体を起こすこともままならない。成績発表も見に行けない。 「俺は、病人だ」 「そんなの。ただの風邪だよ。もう治る」 「治ってもまたすぐ次の病気にかかる。今度は流感、次は肺炎、腹痛、頭痛、嘔吐! もうウンザリだ! 俺はいつまで経っても病人だよ兄貴、病気と病気の合間を縫って勉強して、確かにテストで一番をとる。いけ好かない奴らと喧嘩しても意地でも勝つさ! でもただそれだけだ! こんな身体じゃ、まるで……未来が、見えない……」  そこで身体は限界だった。怒鳴った所為で痰が絡んで発作の様な咳が出て、何日も流動食しか食べていないぺたんこの腹が痙攣した。  ヴィルは諦観の相で眉間を解放し、身体を弛緩させる。どうしようもない鬱屈が、彼の優秀な脳を支配していた。 「……やっぱり今日はどこか変だよ。何かあったの?」  あまり社交的ではないヤンの口下手な無神経さが、興奮した部屋の空気を一蹴した。何も無い日々を送っているから苛々していることを、伝えようとしてやめる。  ヴィルは、精一杯の力を込めて首を真横に傾げた。ベッドに腰掛けるヤンの腫れた頬が見えた。 「…………夢を見たんだ」 「夢?」 「ああ。ここへ来る前の……シュタイナウに居た頃の夢だ。キンチッヒ川の畔に、俺たちの大きな、懐かしい、あの家がある……」 「カッセルに来てからもう三年も経つんだもんね。懐かしいな」  ヤンの口調は、いつしかヴィルへの相槌ではなくなっていた。弟と同じ記憶に想いを馳せている。遠い目だ。 「庭に……菩提樹があっただろ……あの木の下でカールとフェルが喧嘩してた……いつもみたいにルートは絵を描いてて知らないフリだ。それでロッテが来た……」  病み上がりの溜め息の様な口調に、睡魔が垣間見える。自分に向けられた青い目が少しずつ瞼に覆われていくのを見詰めながら、ヤンは静かに呟く。 「裁判ごっこ。覚えてるよ。僕と君は仲が良いけど、弟たちは喧嘩ばっかりしてた。その度に末のロッテが仲裁しにやってきて、自分のリボンで目隠ししてくれって頼むんだよね」 「……そう……正義の女神(ユスティア)の格好で……ロッテが叫ぶ……」 「うん」  二人の思い出を飾るのは、最後に別れた時五歳だった、幼い妹の可愛らしい笑顔だった。 「……さあヴィル、もう一度寝ていいよ。夜になったらまた食事と薬を持ってくるから」  まだ夢の話をしたそうだったヴィルをやんわりと制し、ヤンは身体のことを心配した。そうして弟の瞳から空が堕ちていく間は、大好きな勉強をしに机には戻らず、黙って故郷を想った。 「リトル・レディ・ジャスティスか」  先程の激昂が嘘の様に穏やかな寝息を立て始めた弟を眺め、父が付けたロッテの渾名を呟く。  裁判官だった父が亡くなるまで、彼らの家はとても裕福だった。しかしある日父は亡くなった。  それから一家が離散するまでの二年間は、慣れない貧乏を貯金で凌ぎ、家と土地と名誉を守るための闘いだった。  ロッテの口癖も、父が他界してからは結局一度も聞くことが出来なかった。 「もう八歳になってるはずだ。会いたいな。ロッテ」  普段冷静なヤンの声は、少しだけ感傷的になり、それきり消えた。  勉強が大好きで成績が良かった上の二人を、どこかの召使いに貶めるのは勿体ないと言って、学校に入れるためだけに引き取ってくれた優しい叔母と、バラバラに引き取られていった弟たちと、それから幼い妹一人引き取るのがやっとだった母と一家の誇りのため、ヤンとヴィルは、死に物狂いで勉強しなくてはならなかった。  泣いている暇などない。情緒不安定で病弱な弟の手前、尚更のことである。    弟を起こさないようにそっと腰を上げ、机に戻る。しかしラテン語の課題に向き合っても、哀しい家族の愛の日々ばかりが、ヤンの脳裏に浮かんでは消えた。     
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