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「なあ、なんで泣いてるんだよ。」
もう少しでいつも使っている駅に着く頃に、隣で純がポツリと呟くのが聞こえた。
「泣いてないよ? 動揺しただけ。」
もう涙は引っ込んでいた。頭もクリアになったし。純は、和樹から守ってくれた恩人。あれだけ人がいる前で牽制してもらえたら、もう大学で和樹が寄ってくることもないだろう。夏帆ちゃんたちもいたし。
「俺にキスされたこと、嫌だったか?」
「…………。」
嫌? 嫌ではなかった。けれど、純なら誰とでもキスしてそうだし。男専門って言ってたけど、キスは違うのかもだし。そう考えたら、何も言えなかった。トラックが自分のアパートのある細道に入り込む。ドアに手をかけた。
「ありがとね。これで送ってもらうの3回目。お仕事頑張って。」
「おい、待てよ。」
車が止まるのと同時にドアを開けて言い放つ。純の顔は見れなかった。高い助手席から飛び降りると、手に持っていたルーズリーフが派手な音を立てた。
「本当にありがとう。」
何にお礼を言ってるんだろ? 自分でも分からないまま精一杯の笑顔を貼り付けて純を見た。そしてドアをそっと閉めた。
『とにかく着替えよ。ココアが飲みたい。』
純に貰ったお茶は開けることなくフォルダーに入れたまま置いてきちゃった。でもいいや。売り物なんだろうし。
バン!
ちょうどドアの前でキーをシリンダーに刺した時に音が聞こえて顔を上げる。道路の方から、純がこちらを目がけて走ってきた。
「おい、待てって。」
「何するのっ!」
鍵を開けたばかりの熊のキーホルダーを取り上げられる。ドアを背にして純の顔を見た。純は今までにないぐらい真剣な顔をしていた。
「俺にキスされたこと、嫌だったのか?」
もう涙が出てこないように、目に力を込めて純を見る。
「なぁ……。」
腕が捉えられ、ドアに縫い付けられた。二重の目、太い眉、濃い髭。いつからだろう。この顔を見ると安心できるようになったのは……。純が目を閉じて顔を近づけてくる。でも、思い切り顔を背けた。
「いやっ!」
自分の言葉に純がピタリと動かなくなるのが分かった。
「侑、どうして? ……俺が嫌い?」
少しだけ言葉に哀願するような響きを感じて、純の顔を見る。純の眉毛がハの字になっていた。
「自分は男じゃない。」
「知ってる。」
掴まれた手に力が入ったのが分かった。
「あなた、男専門でしょ? 自分でそう言ってたよね? 何? キスは別なの? 男でも女でも誰とでもキスするわけ?」
自分が放った言葉で、純がサッと手を離した。ゆっくりと左手を口元に持っていって……。この仕草、何度か見たことがある。
「ば、ばか。そんなはずないだろ。」
「じゃあ何?」
どうしてキスをしてきたの? 続きの言葉はなかなか言うことができなかった。純も何か戸惑っているようだった。
「ごめん、帰る。」
溜まってくる涙が溢れてこないうちに家に入りたい。もう泣いているなんて思われたくない。純になんか、もう心配されたくない。
動かなくなった純を置いて玄関の扉を開けて、中に入り込む。もう既に後悔している。何を? ……分からない。
また頭が混乱するのを感じながら、しゃがみ込むしか方法がなかった。悲しみの涙か後悔の涙か全く分からない涙が、後から後から湧いてくるのを感じていた。
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