第1話 転落した男

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第1話 転落した男

【鬼津野渓谷展望台】  茜色の光が谷を埋める樹々を照らしていた。  ところどころ舗装の傷んだ駐車場に車が一台、けっこうな速度で入ってきて止まった。  小ぶりな箱型の車は、タイヤと車体の隙間が大きく車高が高かった。  ニット帽をかぶり、サングラスをかけた男が出てきた。ひとまず周囲の様子をうかがっているようだったが、待ち切れないように車内に声をかけた。 「だいじょうぶ、誰もいない。カメラオタクもいない。あいつら、どこでもゴキブリみたいに湧いて出てくるし、信じられないよな」  するとしばらくして、おなじくサングラスをかけた女が中から出てきた。彼女のは顔の大半を覆い隠すほど縁が大きい。おまけにマスクをしていたが、それだけは外した。  女の口元が笑っている。飛び降りるように降車すると、言った。 「そのゴキブリに、地域おこしの期待がかかっているのじゃなかったの。企画案にフォトコンテストが入ってるの、見たわよ。例の鉄道イベントとリンクさせるんでしょ、Kが言ってた」 「いや、あいつらはいらん。おれが言ってるのだから、間違いない」  男はニット帽を脱いでポケットに押し込み、女を迎えるように近づいた。  女は降りて歩き始めたが、すぐつまずきかけた。足元にはられたコンクリートは風化によって荒れていて、ところどころ割れ目から雑草まで生えている。靴底が引っかったのだ。 「ああ、ムカつく。ここの床、修復するのにすごくかかるんでしょう。とりあえず部分的に切って、あと防水塗装するって聞かされたけどそれも大変だって」 「いや、知れてるよお、そんなの。それこそ、エバーデモンを塗りゃいいんだよ」  いかにも無責任な調子で男が言うと、女が甲高い声で笑った。  うけたと思ったのか男もまた笑顔を浮かべ、「それより店舗のリニューアルが大変だよ」と、いいながら手を伸ばし、女の臀部を撫でた。 「やめてっ」女は言ったが、口調は男女のじゃれあいには思えないほど厳しいものだった。 「いまどき、どこだって監視カメラがあるんだから」 「ないよ、ここは。安心してよ、おれが言ってるのだから間違いない」  駐車場の先には二階建てと見える長い建物があった。全体にくすんだ外観をして、稼働しているとは見えない。  一方、端にあるトイレだけは整備してあるらしく、照明もついている。  女はそっちを気にしていた。 「トイレ掃除も今の時間はないよ。平日は朝だけ」  そう、と言って女は不承不承男と肩を並べた。男は嬉しそうにしている。  しかし、 「これ久しぶりに見るけど、やっぱり大きいなあ」と、すぐに建物とは反対側を指差した。  その先には、いわゆる顔出しパネルが大小4基、置かれてあった。  サイズには幅があって、子供の背丈ぐらいのものから、軽く人の背丈を超えるものまである。ただ、いずれも描線がはっきり残ってあまり傷んだ印象は受けないのに、下部に書かれた文字については褪せて、かなりすがれた雰囲気となっている。  中でも一番大きいパネルは、縦横ともになかなかのサイズがあった。ほかの三つに比べても絵がはっきりして、最近色を塗り替えたと言われても違和感のないほど鮮明だった。  男が嬉しそうに接近した。「おれ、けっこうここで写真撮ってるんだ。先月も撮った。アップしたの、見てくれてるかな」 「見てない」  その大きな顔出しパネルには、三人のキャラクターが描かれていた。  メインの絵柄は、縞柄の水着をきた可愛い女の子だった。彼女が中央にいて棍棒を振り上げている。その棍棒が振り下ろされるであろう先に、制服姿の男の子と思われるキャラクターが手を上げ、攻撃を防ごうとしている。  ただし顔は空洞になっていて、ない。観光客はここから顔を出して記念撮影するしくみになっていて、下に「鬼津野渓谷訪問記念」と書かれた別部品のプレートが貼ってある。  また、女の子の腰のあたりには、幼児のような小さく丸い身体のキャラクターがいる。この顔も空洞になっていて、三人以上いる場合はこの手前に並ぶ想定であるようだ。  他のパネルとは異なり、これだけのサイズを自立させるためか、パネル裏面には軽量鉄骨のフレームが組まれている。パネル自体もベニア板ではなく樹脂を含んだボードのようであり、土台部分にもしっかりした重しが付いていた。 「しかし無駄金よねえ」女が苦笑するように言った。「これ、辞めた中野さんがやたらこだわって作らせたの。製作費がかかりすぎて2度とできないって言うし。一度全面修復したら大変だったのよ、費用の捻出が」 「ああ。でもここ、目玉がないからさ。もっとすごいの作るって案もあるんだ。それにこれ、長持ちしてるよ。さすがだね」 「あたりまえよ。そろそろ改良版も発表だし」 「会見を同時ネット配信とか、するのか」 「それはねえ、考えものなのよ。やっても、既存マスコミは喜ばないし。特に古株の支局長のいるようなところは」 「ああ、そうなんだ。支局対応なのか」  男は気の無い返事だったのに、女は一転して熱を込めて語りはじめた。 「STAP細胞とかだと、くるなと言っても会見に押しかけるくせに、地味な技術は鼻もひっかけない。普通に記者クラブで発表したら各紙にちっちゃく乗るだけだし、特定の媒体を選んで取材してもらったら大きく載る可能性は増しても、1社のみの尻すぼみになるかもしれない。理想は各媒体にまんべんなく、何ヶ月かに渡って継続的に取り上げてもらって、右肩上がりに知名度があがることだけど」  夢中になって女の語る中身に男はほとんど興味がないようだったが、指してくる夕陽に目を細めて、また口を開いた。 「展望台の東西が逆だったら、もうちょっと絵になって、まともなカメラ好きもくると思うんだ。変なのしかこないのは、このせいだよな」 「こればっかりは、どうしようもない。でも、リョウマくんはマスコミ対策に悩んだりしないの」 「ああ、おれ」リョウマくんと呼ばれた男は自分を指差した。「記者発表は仕切らせてもらえないもの。誰かさんがいるから」 「K、好きだからねえ」 「そうそう。よく知らないうちは尊敬したりもしたけど、このごろは邪心たっぷりの陰気な目立ちたがりと見てる」 「いえてる」  女の賛同に、男はいかにも子供っぽい笑い顔を浮かべた。  そして、手慣れた様子で派手な色のコンパクトカメラを取り出し、パネルの対面においてある木製の台にカメラを載せた。ハゲかかった文字で「自撮り台」とある。 「どう、一緒に」と男は軽薄な口調で女に声をかけた。 「いいわよ、そんなの。まず過ぎるでしょ」 「もうまもなく陽が落ちてきて、ちょうどここの」と、彼は後ろを指差した。「ツノにかかって、電撃が出てるように見える」 「見えないわよ、そんなの。ばっかじゃない」 「そうかなあ」男はまだニヤニヤしている。 「それに、逆光になるんじゃないの」 「うーん、いままではなんとなく撮れてたよ」  女は一歩下がってから腕を組んで言った。「でもこれ、後ろ危ないよね」 「え、なんで」はじめて男が聞き咎めた。 「だって手すりと距離がぜんぜんないでしょう。写真を撮ろうとして何人もダンゴになったら、落っこちそう。それにこれ、前より後ずさりしてない?」  彼女の言う通り、顔出しパネルは、背景となる樹木との重なりを優先したのか、展望台の手すりのすぐ前に立っている。人が背後を出入りするには、すこし余裕が足りないようにも見えた。 「いや、かえってこれぐらいスリルのある方が、気をつけるよ。大台ヶ原のあの岩に落下事故を聞かないのと同じ。後ろに回るのは二人だし」 「そうかなあ。ここの下の岩、けっこう尖ってるでしょう」 「そりゃ、鬼津野だし。名前の由来は、除去できないっしょ」  若者ぶった男のわざとらしい口調に、女は口元を歪めた。   パネルの背後、すなわち男がカメラを向けた場所は谷になっていて、色とりどりの木々が目に飛び込んでくる。法面は崩落防止のため人の手が入っているのだが、かなり時間が経っているようで、それを覆い隠すように樹木や蔦、苔などが生えて人工くささはない。  ちょうどパネルの延長線上にある黒っぽい樹木は、桜だろう。いまは大人しく見えても、春には爆発したように渓谷は桜色に満たされると思われた。眼下にはゆるやかに流れる水と、人間より大きいぐらいの石が不均等に転がっている。三割ぐらいの石が苔を背負っていて、これもシーズンがくれば花が咲き、緑が鮮烈に川の流れに映えるはずだ。  後ろの谷とカメラを何度も見比べていた男は、 「そろそろ、ベストタイミング。とりあえず何枚かとるから、よかったら一人だけでも、撮らないか」  といいながら、男はカメラに近いて操作し、戻ってきた。 「しつこいな。万が一ってあるじゃない。それよりリモコンってないの、そのカメラ」 「ないよ。そんなにふくれ面するなら、一緒になんてこなければいいのに」そう言いつつ男は、パネルの後ろへとまわった。  男はいったん穴から顔を突き出し、また戻した。そして再度顔を穴に入れると、 「あれ」 「どうしたの」  短く空気を裂く音がした。ほぼ同時に男は短く叫び声を上げて後ろによろけると、そのまま足を天に向けた形になって、手すりを乗り越えて下に落ちていった。  最初は主にア行の悲鳴を上げていた女は、手すりに駆け寄るとサングラスを外して下を見下ろし、こんどはくぐもったガ行の悲鳴に変わった。  だが、掌で口を押さえて悲鳴を止めた女は、しばらく血走った目で周囲を見回していたが、急ぎ足で車から荷物を取り出すと、そのまま展望台から、文字通り走り去った。 【スーパー・ヤサシヤ】 「十三時五十五分」和気みずるは、愛車のディスプレーに表示された時間を復唱した。「まだ、あそこにいるはず」  本部長から「GO」の連絡を受けて、およそ四十五分が経過した。  われながらよくやっている方だと、みずるは自画自賛する。  なぜこんなにせかせかと行動するのかといえば、彼女の不在のあいだ、穴埋めをしてくれる同僚たちに悪いと思っているからだ。刑事部で彼女らの窓口を担当する難波刑事が、気楽そうに言うように、「そりゃ和気さんだって遊んでるのじゃないし。遅くなったら、あとは同僚に任せて直帰すりゃいいじゃないすか」とは行かない。  少なくともみずるの気質的には、周囲に迷惑をかけっぱなしのうえ、ルーズな時間の使い方を自分に許すのは、嫌だった。  信号待ちを利用して、鞄からお守りがわりのネームフォルダーを取り出す。  彼女の名前は父親によって「瑞流」と表記するよう決められたが気に入らず、いまはもっぱら平仮名を使っていた。こちらも希望が受け入れられて平仮名表記になっている。  笑えるのは肩書だ。友人には、「酔った時に見たら、カッコよく思うかも」と言われた。    写真入りの名札には、彼女が現在の所属先である県警察本部から本務用に持たされている名刺とは違い、兼務にあたる「特任捜査支援委員」という肩書が先に表記してある。  いかにも怪しい肩書であるというのは、県庁の同期をはじめ各方面にさんざんからかわれた。「警察署の方から来ました」に似ている、との声には自分でもうなずいてしまった。  だが、みずる本人にとっては、たまには役立つ魔除けである。  特に相手が高齢者だと、抵抗なく話を聞かせてくれることがある。比較的若い世代の場合は、「えっ、特命係?」と嬉しそうに聞いてくるのがいて、それは仕方ないことだと思う。自分だって聞く。  これから会う予定の、宇藤木(うとうぎ)海彦のネームホルダーを取り出したところで信号が変わった。車を発進させる。  宇藤木の肩書はさらに正体が不明で、「特任捜査支援嘱託員」とある。これはみずるのそれ以上に議論があり、近いうちに変更も検討していると聞かされたが、いつまでたっても連絡はやってこなかった。  宇藤木とみずるの「特任捜査支援」は、平たくいえば多忙な県警刑事部の職務の一部アウトソーシングである。警察が面倒見きれないような事件を、嘱託捜査員として代わりに調べたりする。  数年前に法律が一部変わり、東京で試験的に行われたのが地方にも伝わってきた形である。しかし、みずるは直接関わってはいないが、そこには紆余曲折があったと聞く。  例えば、みずるもいた県の産業課では、核心部分の検討にも大学やら企業出身の外部人材へ積極的に意見を聞く。これに比べ県警察内部では嘱託医などはいても、特別捜査の実施には慎重意見が強く、こと捜査については「真似っこ遊びで聖域を汚すな」という言葉さえ出たそうだった。これはまあ、仕方がないと思う。  ところが国か県のどこかに推進派、それも宇藤木を推す物好きな人間が数名、いたそうである。その人々は容易には諦めなかった。  そのうち先行した首都圏での華々しい成功例が伝わり、直後に知事だったり地元選出の大臣だったりにいろいろややこしい出来事があったりして、推進派に恩を売る必要があったのかどうなのか、ある日突然制限付きで実施が決まった。そしてみずるを巻き込む独自の体制が瞬く間に作られた。  なお、元ネタになった東京の捜査協力プロジェクトは、「コラボレーション」という単語で世間を煙に巻き、「孫崎」という宇藤木に似た立場の人物についてもたまに情報が流れたりするようだが、こっちはひたすら「外注」とか「外部委託」の言葉を排除するにとどまっていて、マスコミにも極力公表を避けている。  みずるの任務は、基本的には本部長の特任プロジェクトとなっている。だから警察それぞれの課からの直接依頼ではなく、いったん本部長の元に上がり、裁可のおりた事件の捜査を手掛けるしくみだ。当初、刑事部からは捜査を特任調査とかインベスティゲートと言い換えるよう要求されたりしたが、結局なしくずしに捜査へと戻ってしまった。  なお、委員という名の担当者であるみずる自身、県庁からの出向者だった。きっと警察プロパーの職歴に傷を残さないためだろう。  県警への出向そのものは、希望者を募られた際、おもしろそうだとみずる本人が手を上げたためであるが、出向から二ヶ月もしないうちに総務・広報のはずの担当に特務が追加され、大忙しとなってしまった。  おそらく、彼女の出向期間終了とともに本プロジェクトは一旦終了するのではないかと推測されるが、先行きは不透明でしかない。なにせ宇藤木は、大勢の予想を裏切り、逮捕権どころか制限だらけの捜査権しか持たないまま成果をあげてしまう男なのだ。  この前は、8年前の未解決失踪事件を「なしくずしに」解き明かしてしまい、さすがにちょっとした騒ぎとなった。ただし、全体に後味の悪い話であり、謎が解けたから気分が良くなるものではないと、事件捜査の厳しさ複雑さをみずるは思い知らされた気がした。今回のこの事件は、血なまぐさいのや人間関係のドロドロが噴出するのでなければいいな、と心の中で祈る。  目の前の道がまた混んで、少しいらいらさせられた。燃料が減る。  この、宇藤木を迎えにきている車だって、公用車でもタクシーでもなく自前の正真正銘自家用車を使っている。ちゃんと公用に使うよう登録してあるし、燃料費は請求せよと言われているが、心理的な抵抗があって請求しないことがある。 (いや、きっちり堂々とすべきかな)とみずるは考え、頭の中の「あとで検討」ボックスに入れた。  宅配便のトラックに続いて交差点を大きく左折し、巨大な看板の下に表示された矢印に従う。みずるの車は、ほぼ彼女の好みだけで購入したSUVである。視界はいいが小回りはあまり効かない。燃費の面でもいまひとつで、次はハイブリッドカーにでもすべきかと思いつつ、乗り回している。  おそらくこれから車に乗せることになるであろう人物は、公用車であるクッションの悪い軽より、みずるが愛車でやってきたのを喜ぶのはわかっていた。あのむやみと長い手足の男でも、これなら文句を言わずついてくる。  と、いうより大男を押し込めるサイズの車を平然と操っている彼女の姿が、偶然に上層部の目に触れたのが、あの男の世話係に選ばれた理由のひとつである。  それにみずるのポジションでは、公用車の使用にはいちいち申請して伝票を切らなければならず、面倒なうえ敏速性にかける。また、そうまでして車を調達しても、午後まで残った車両はだいたい何かしらトラブルを抱えている。さらに、この禁煙のご時世なのに車内に吸殻が残っていたりする。当然、匂いもだ。  自分では車好きのきれい好きと思っている彼女には、手入れの行き届いていない車は、許せなかった。あれを我慢するぐらいなら、自弁を選ぶ。  めざとく駐車場に空きスペースを見つけ、そのまま接近した。  進入したのは建てられてかなり経つスーパーマーケットであり、駐車場についてもみずるの愛車のサイズからすれば決して余裕はないのだが、切り返しもせずに入庫し、そそくさと食料品売り場へと向かった。 (運転については、どうも多少の天分があるらしい)と自賛の気持ちが浮かび、そのあと顔をしかめた。 (もっと、ほかにないのかよ)と苦々しい気分が浮かぶ。  あなたは自己評価が低い、とみずるの母は言う。ここきた目的の男、みずるの脳内コードネーム「ピエール」こと宇藤木も同じことを言った。  しかし当の宇藤木と行動を共にしていると、自分がいかに平凡なのかが日々思い知らされてしまう。あんなのと仕事していたら、自己評価なんて「我慢強さ」についてしか上がらないよ、とも思う。  食品売り場は建物の二階にあった。何度か来たはずだが、どこもよく似ているのですぐ忘れる。階段を利用して高さを稼ぎ、店内を見回して、「イートインコーナー」とパネルが下がっているエリアを探す。  と、いってもテーブルと、スタンドのある一角であり、横に電子レンジがあって、店で買った食品が食べられる。コーヒーも売っている。スポーツ新聞をつかんだ年配の男、曲げた背中でカートを押してきて腰をかける老女。スマホに夢中の若い母親、しつけのわるい幼児。昼のピーク時は過ぎてのんびりした雰囲気が漂っている。  いた。宇藤木海彦だ。  いつもの黒ずくめ衣装に身を包んだ男は、ひたすら周囲から浮いていた。  まず、座っていても背の高く、手足が余っているのがわかる。おまけに形のいい頭部には、薄毛を気にする彼女の叔母なら妬むほどふさふさした、やや赤みを帯びた髪の毛がうねっている。その下には磁器のように緻密で白い肌が照明を反射していた。色素が薄いのだろう。  服が黒ばかりなのは手入れの楽さもあるが、手足がむやみと長く、既製品がめったに合わないせいもある。常にきちんとした格好なのは、つまりジャケット類は誂えが容易だからであり、色や形に変化のないのは、まとめて作って安くしてもらっているからと本人から申告があった。シワのよりにくさを優先するため、生地はいつも同じようなのになる。  そして肝心の目鼻である。彼を目にするたび、 (どう見ても、何度見ても、ピエール)と感銘とばかばかしさが同時にやってくる。  (ああ天よ)と、みずるは芝居がかったセリフを胸の中で叫ぶ。 (どうしてこんな野郎に無二の容姿をお与えになったのですか)  今日の自分の調子は、決して悪くないらしいと思う。悪い時はこんな冗談も出ない。  宇藤木は三十代のはずだが、見た目からは年齢を測定しにくい。  それどころか生活感も、現実味も薄い。  最初に彼を目にした時の衝撃は、みずるにとってなかなか忘れることはできない記憶である。  むかし、彼女のお気に入りだったアニメのキャラクターが、理想的に成長した姿となって、遠くから優雅に歩いてきた。両の足も、継ぎ足しでもしてあるかのように、やたらと長い。  むろん、みずるだって中学生ではないのだから、このような衆に抜きんでた外見の持ち主であれば、当然のこと性格は奇矯であろうと警戒し、すぐにそれは正しかったと実感したのだが、いくらガードを固めてはいても、衝撃があまりに大きいと、脳波がかなり乱れるものらしかった。異様な光景としてあの瞬間だけをはっきり覚えている。  以来、彼女の脳内における宇藤木のコードネームはピエールとなった。誤解を与えたくないので当人には黙っているが、わざとコミック化して認識することで、精神のバランスを保っているのだと、自己分析している。  彼が本当にアニメキャラ似かはともかく、見目良き男なのは誰しもが認める。  親しい友人の里帆は当初、口頭による説明では宇藤木の外観に疑わしい顔をするばかりだった。ところがある日、ついに実物を見せたところ、 「うへっ。冗談はやめろよ。夢の国の王子様じゃねえし」と口走った。次に「あれ天然もの?加工ずみ?」と聞き、それから数秒おいて胸元をちょいチョイと直してから、「ほんとうに独身なの?」と可憐さが三割増しの声で聞いた。  独身のはずだ。直に整形かどうかは聞いたことがないが、彼を警察に紹介したとされる筋からの情報では、「昔からあんなの」とのことだった。  おかげで、宇藤木とつながりができて以来、みずるに対する世間の印象も変わった気がしている。いや、大きく変わって、あらぬ嫉妬にさらされることすら起きた。  なぜなら、ほとんどの女性に対し事務的な態度で通す宇藤木が、みずるにだけは好意を示し、それを隠さない。言うこともよく聞く。時には忠犬のようにだ。  今日もそうだった。こっちが声をかける前に、物思わしげな顔で手もとを覗き込んでいた男は、心躍る音楽でも鳴ったかのように視線をこちらにむけた。  表情がぱっと明るくなる。犬か、と思う。  が、以前、同じ状況を横で見ていた前出の里帆は、 「一度でいいから私もあれをしてもらいたい」と言った。みずる本人は、友人の方がずっと人目を引く容姿だと思っていて、もっとまともな相手によるチャンスはまだ十分あるのではないかと言ったら、彼女はピシャリと、「ああいう非日常的な人物だからいいのだ」と言った。  里帆によると、「私を見て嬉しそうにする男は、ようけおる。『おお佐藤くん、ちょうどよかった。また設定がおかしくなっちゃってさ、助けてくれない』だと。てめえ覚える気ねえのに、いじるな!」  団体職員である彼女の職場には、かつて社会のあちこちで、それはそれは高い地位にあり、現在は携帯電話屋の店頭にいる例のイラつくロボットにも劣る存在となりはてた年配男性が、大勢天下っておいでだという。 「見た目が爽やかならまだ許せる。阿修羅像なんて、見ているだけで癒される。でもあいつらは、その点もだめ」  そして彼女は、友人の内面も理解し、みずるの境遇をうらやむ台詞は吐かないものの、「たまに見せて。そして癒させて」とせがむのだった。 「非現実の光こそが、腐臭の漂う現実を生き抜く力を与えてくれるものなの」 (わたしは非現実の光に打たれて、吸血鬼みたいに灰となって崩れそうだよ)  などと思いながら、みずるは宇藤木をしばらく観察していた。  彼女が目の前に立っても男は当初、秀麗としかいいようのない顔を向けて黙っていた。多くの男女が、勝手になにやら意味があると誤解する表情である。 (当然ピエールにそんなものはない)みずるは内心で解説した。(だまされるな諸君)  彼はようやく口をひらいて、言った。 「ここのちくわの天ぷらは、なかなかいけます。今日はのり弁でしたから、幸福感がまだ残っている」  バカ丸出しの台詞はともかく、声までが声優並みに美しい。  無駄に美声、というのはこういうのをいうのか。いや、無駄に背も高く無駄に美男だ。彼の存在自体が無駄の堆積なのだ。 「ずいぶん安上がりな幸福ね」にこにこしている宇藤木に皮肉を返すと、彼はなにか云おうとして口を軽くあけたが、「しっ」みずるは指を唇にあてた。  そしてだまって座ったままでいろ、という仕草をした。こいつは興に乗ると長くて、肝心の用件がどこかへ行ってしまう。  すると、声を出さずに、「しごとですか」というふうに口を動かした。 「そう。どうせ電話にでないから、直接きたわ」 「バッテリーがもうダメなんです。でも、交換が……」 「しなさいよ」冷たく言った。まるで家族の容体が悪いような言い方をする。  みずるが携帯電話ショップについて行ってやるといえば、よろこんで交換するだろうが、それも悔しい。 「本部長から話があった。手を貸す?忙しければかまわないけど」  とんでもない、というような表情を浮かべて、ついに彼は立ち上がった。  ゆうに190cmを超える体躯が一挙に直立したので、近くの席で向かい合って座っていた年配の女性二人が、そろって引きつった顔になった。 「今日は、いつもの用事は終わった?」みずるの方から聞くと、小さく笑みを浮かべた。  引きつり顔だった年配の片割れも、次第に彼の雛稀な容姿に奇異の表情を向けはじめた。テレビの撮影かなにかと疑い始めたのだろう。頭の中のタレント名鑑を繰っているのかもしれない。 「ええ。今日は第六感が働いたのか、午前中に済ませて戻ってきたところです。あ、トイレもすませました。ここのトイレはわりに清潔ですが、経費が節約されているのか、ひび割れた便座が交換されていない。ぼくのように体重があると、大の場合に割れてしまいやしないかと、ひやひやする」  またいらぬ一文がついていたが無視した。  宇藤木という人物は、基本的に職についていない。アルバイトとわずかな不労所得で食べているはずだ。ただアルバイトの種類は、毎日出勤するたぐいのものでなく、在宅で済ませられるものばかりのようだ。  しかし、内容はあいまいにしか言わないが、毎日一定時間の「所用」をこなす必要があり、それを阻害されるのを非常に嫌う。  ただなぜか、たまたま連絡役を担当したみずるだけは、柔軟に予定を変更するのを厭わないし、彼女を間に挟むと、犯人を見出したあと返す刀でほかの関係者の不正や秘事をあばくのも控えめになった。  使いたいのに怖い諸刃の剣が、みずるによって頼りになるワイルドカードとなり、車の件と合わせて彼女が正式に担当委員へと任命されてしまった。 「それはご苦労様ね。では行きましょう」  ネームホルダーを渡すと、宇藤木は受け取って首から下げた。了承したとみなして、そのまま車に引っ張っていこうとすると、 「ちょっとだけ待って」  大男は弁当がらを片付け始めた。このスーパーは十三時を過ぎると、弁当の一部が二割引きになる。彼はそれをあてにこの店にやってきて、毎日のように年寄りたちに混じって食事をしている。プラ・不燃物のゴミ箱に捨てようとしているパッケージに、十六穀米使用との文字が読めた。黙っているのも気詰まりなので、 「健康には、気を使ってるのね」  一瞬、ハードボイルドに片頬を緩め、宇藤木は片付けを続けた。健康マニアではないみたいだが、男にしてはこまめで清潔好きなのは、認めてもいい。  長い体を折り曲げ、宇藤木が使っていたテーブルを掃除している間に、思いついてコーヒーを買おうかと思ったが、抽出に時間のかかるタイプだった。 「食後のコーヒーは、この先のドライブスルーで買っておごりますから。とりあえずここを出ましょう。なんだったら店で飲んでもいい」というと宇藤木は、 「まず、ここを離れるわけですね」と、当たり前のことを言ったが、こいつが声に出すと、なにか大作戦がはじまるように聞こえる。 「当然です。いくらなんでもここで打ち合わせはやめましょう」  ちゃんとゴミを分別して捨ててから、宇藤木とみずるは「イートインコーナー」を出た。
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