第6話 彼の理由、彼女の理由

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第6話 彼の理由、彼女の理由

 早寝早起きを心がけている和気みずるにとって、十分な夜中である時刻に、難波刑事から電話があった。  入浴し、パジャマに着替え、体操もすませたみずるは、我ながら不機嫌な顔をして通話に出た。 「わたし、いまは議会担当ってわけじゃないし。早く寝たいんだけど」 「ほういはないえ」 「えっ、なに。わからない」 「そういわないで」 「最初から、滑舌に注意して話をしろよ。相手は歳上だろ」 「ひどっ」  やっぱりこいつは、宇藤木の言う通りマゾかなと思う。これだけ言っても電話を切ろうとしない。  難波の言い訳では、先に宇藤木へ連絡をとろうとしたが、つながらなかったということだった。 「ぼくの電話なんか、出たくないのはわかってます。でも、だって」 「そりゃそうでしょう。相手が悪い。年中電池切れすれすれのガラケーしか持たない奇人でしょうが。と、いうかわたしに飛び火するの、スッゴイ迷惑なの」  あのけったいな男と確実に連絡をとる方法はなくもない(それにみずるが相手とわかれば、そのうちかけ直してくる)し、自宅や立ち寄り先も、お互いがほぼ正確な場所を把握してはいる。  しかしそれでも、なるべく干渉し合わないよう、あえて距離を保っている。  そのあたりの呼吸は難波には理解できないだろうし、仕事だけの関係の相手、それも女性に夜、ぐずぐず愚痴をこぼしに電話してくるような野郎に、親切にする気持ちはさらさらなかった。 「そんなことひったって、ヒクッ。大変なことになったのは和気さんも知ってるっしょ。すべてあのキングサイズにそそのかされて、ヒクっ」 「やだなあ、酔っ払ってるの」 「ちがいます」と難波は電話口でわめいた。「八方塞がりで、悲しみのあまり泣いてるんです」 「それだけ元気なら問題ないない。さっさとベッドに入って、あんたの好きなマーク・ハーモンの笑顔でも思い出して目を閉じなさい。夢にでてきて、井上和彦の声でささやいてくれるかもよ。『このまぬけっ』って」  「ひ、ひどい。なにも気にならないんですかっ」  「うん。まあでも、美里さんが自殺をはかったって聞いた時はちょっと驚いたな」  たまたま、居間を移動中にみずるは電話をとった。そのため、自殺という言葉を発したとたん、テレビを見ていた母親の喜美子が振り向いた。娘の表情を探っている。  あわててみずるは声を低く落とした。 「未遂だし、今はすっかり回復してるんでしょ」  今日になって、酒井美里が自殺未遂をやらかしたとの情報が飛び込んできた。  どうやら、難波によって婚約者の浮気話を、それも相手が自分も知る水口の妻だと眼前でいきなり指摘されたのが引き金になったという見方が濃厚なのだが、 「風邪薬を多めに飲んだだけなんてね」と、みずるは言った。「めんどくさい女。アルコールと一緒はよくないけど、胃洗浄するより先に吐いちゃってたみたいだし、錠剤だったから全部形のまま出てたっていうじゃない。あとを掃除させられた人だけが、ひたすら気の毒だわ」  伝えてきた関係者も、あまり気にするなという感じだったらしい。 「ええ。その手の自傷行為は、これまでにもあったのは事実だそうです。美人って繊細なんだなあ。女の人がみんな和気さんぐらいタフだったらいいのに。顔とスタイルは酒井さんみたいなので」 「オイ、なんだって」聞き捨てならないセリフに思わず凄んでしまい、また喜美子が心配そうな顔をした。 「いえ……冗談です」難波は腰砕けになった。 「まあいいか。それより、くやしいけど宇藤木氏の読みは今度も当たっておったのう」 「え、なんか言ってたんですか、それ知らない」 「最初に会った日に、彼女はメンヘラだって断言してたの」  最初の面会の帰途のことだ。  同席していた男たちがあまりに酒井美里に視点を集中し、讃えるのがみずるには正直、つまらなく感じられた。  目立たない容姿と控えめなふるまいから、誰にも関心を持ってもらえない経験は、彼女にとって珍しいことではない。それでも、休日出勤してまで雑な扱いを受けるのは、さすがに心楽しくはなかった。  あの宇藤木ですら、美里の持ち物やセンス面について細かくみずるに聞いたりした。それもあってちょっとガス抜きしたくなり、 「なんか、気にいられたみたいだから、みんなと一緒に傷心の美女を支えたらよかったのに。乗り換えてもらえるかもしれませんよ」と、助手席で思案中だった宇藤木を、ついからかってしまった。  すると、「あれはあれで一種の怪人だから。必要以上に近寄らないのが肝要」と、酒井美里について極めて否定的な見解が返ってきたのだった。 「怪人?」 「そう。あのすっきりした姿の中身はかなり歪んでいると思う。人を引きずり回すのに抵抗がなく、自覚も薄い。脳味噌もいまひとつ。自省クイーンの和気さんとは対極にあるのかな」 「あら。それ、喜んでいいの?」 「もちろん。それに、あの馬木って男そのものが、決して好漢とはいえない。目立つ美人で金持ちの娘という属性に、いかにも価値を見出しそうな奴だ。そんな男がリスクをしょって浮気するぐらいだから、あの酒井女史は決して普通ではなく、少なくとも身も心も健康というわけではない。リストカットの痕はなくても、食べては嘔吐を繰り返すタイプね」 「そ、そうなのかな」 「野獣に魅入られた可憐な美女でもない。継続観察すればきっと破れ鍋に綴じ蓋、いやゴジラ対キングギドラと感想が変わる」と、変な比喩を出してきたのだった。 「ええー、なんだあ。はやく教えてくれたらいいのにー」難波は気持ち悪く嘆いた。 「宇藤木さんが不倫の話とか顔ハメ看板のことを熱心に話すから、そこから推理を構築しちまったんですよ、ぼく。感受性が鋭敏すぎるのかなあ。いつも余裕の福沢さんがあんなに困った顔をしてたの、初めて見た」 「ま、あなたの焦りすぎよね。でも幸い、まだ係長は復帰してないんでしょ」 「ああ、あれがシャバに出てきたらどうしよう。奥さんに邪魔者扱いされたウサを、またぼくではらすに違いない。それともぶちゃいくな娘の将来への不安のウサかな」 「だから懸命に宇藤木氏をフォローして、早期解決させたらどお。邪魔はやめて」 「だから、いま和気さんに訴えているんです。お側用人の」 「あんたねえ」みずるはスマホの通話口をにらんだ。「いや、あたしもう寝るから。ピ、いえ、宇藤木氏には連絡がつくよう明日努力しとくわ。ああそうだ、せめて伝えるべき新しい情報ぐらいなにかないの。彼が食いつくような」 「あります。調べろと言われていた古手の技術者の連絡先、わかりましたから。和気さんに送っておきます。頼みますよ、ほんと。和気さんだけが頼りです」  通話を終えると、母の貴美子がじっとみずるの顔を見ていた。 「大丈夫だってば。もう終わった。相手は私より歳が下の頼りない刑事さん。なんか不安定なやつなんだ。躁鬱の気があるのかな」 「いまから現場に出掛けるとか、そんなことはないのね」 「ないない。私はただの、コーディネーターというかマネージャー的立場だし。扱う事件も急を要するのではなくて、基本的に放置されてこじれたのばかりだから」 「そう」喜美子は下げていたテレビの音量を大きくした。画面では、FBI捜査官の出てくる米国製ドラマが映っていた。 「もしかして、こんな事件に携わっているのじゃないかと、思ってたのよ」 「ちがう、ちがう。心配しないで」 「いえ、ちょっとね、興味っていうか、関心があって。東京の久里子さんも聞きたくて仕方ないみたいなんだけど、軽々しくしゃべっちゃだめでしょ。これでも我慢してるのよ」  久里子というのは父方の叔父の妻である。昔からみずる母娘と非常に気が合い、辛い時は支えになってくれた。母に負けないミステリードラマ好きなので、二次元人っぽい宇藤木と会わせた時の反応を考えると、ちょっと怖くなった。 「さっきの刑事くんも、家族に自慢したいのを懸命に堪えてるって言ってたな。あいつ、テレビの趣味はお母さんと似て米英もの礼讃だから、気が合うかもね」 「まあ、どんな番組がお好みなのかしら」 「さあ、突っ込んで聞いたことはないなあ、いろいろあげてたし」 「私は、最近の番組では刑事フォイルが一番好き、って言っておいてね」 「あ、もうちょっと派手好みかな。気楽な気分でNCISを見ている時が最も幸せだ、なんて年寄りくさいことを言ってたし。あのドラマ、いい男のおじさん上司が部下をポカって叩くお決まりのシーンがあるじゃない。あれに憧れてるって説はあるの。あ、その刑事さんはれっきとした男性で、叩くのじゃなくて叩かれたいほう」 「あらそう。楽しそうで安心したわ。あとわたし、コールドケースも好きよ。ただちょっと悲しすぎるかな。ねえ、昔の事件とか扱わないの?あの主役の女優さん、色が白くてきれいじゃない。あなただって色白は負けていないでしょ。金髪に染めてみる?」 「ああ、昔に起こった事件ね。この前、そんなのにちょろっと関わったら、なんか陰惨な話ばっかり発掘されて、げっそりした。お母さんが期待するような感動的な物語も隠されていなかったし。あとで関係者に感謝はされたのはまだ良かったけど。段ボール箱に資料を納め直して終わりってわけにいかないのが、つらいところよ」 「そう……」  娘を心配しているのか、ちょっかいかけたいだけなのか、よくわからないので、みずるはさっさと寝ることにした。 「難波のやつ、宇藤木さんにしつこく電話かけたみたいだね」  翌日の午後、前回とは違うイートインコーナーにいるのを捕まえた宇藤木に、みずるは言った。今日はパン売り場の横にある小さなスペースで、食事前だったのか目の前にホットドッグとサラダが置いてある。みずるの姿を見つけると、しつけられた犬のように触れようとしなくなった。 「ああ、そのようで」 「わかってて、無視したの」 「とうぜん」 「もうっ。夜中にこっちへ愚痴こぼしに電話してきたよ」 「レディに深夜、愚痴を垂れるとは無礼な奴ですね。ときに、コーヒーはいかが」 「自分で買いますっ」  カッカするので、みずるはアイスコーヒーを選んだ。雑用を終えてから出てきたので、昼食をまだとっていなかった。 「わたしも食べようかな」というと、宇藤木はどうぞ、というしぐさをした。隣のパン屋で購入し、しばらく黙ったまま向かい合って食べた。  思いついたように宇藤木が言った。 「たまごサンドって、野菜が入っていない」 「だから、ポテサラサンドをこれから食べるのっ」さっきから叫んでばかりだ。 「ところで、これからどうします」ストローを使わず、ぐいっとコーヒーを口に運んでからみずるは尋ねた。 「馬木氏と水口渉外チームリーダーとの浮気は事実であったとしても、あのひとが上から落っことしたわけじゃないよね。あなたの態度を見ていて、そう思う」 「うん、今日はますます推理が冴えてる」  宇藤木は片頬だけのクールな笑みを浮かべた。これは、顔筋をたくさん動かすのが面倒な時に浮かべる笑顔だと、最近わかってきた。 「彼女がもし現場に居合わせたとしても、手を下してはいない。おそらく、先日みたいな調子で走って逃げただけだろうと思いますよ。ああいう人はせいぜい不倫まで。邪魔者を消すような芸も度胸もない」 「ふーん。それより現時点では、事件なのか事故なのかすら解明できていないのではなかったかな」 「いや、あとひとつふたつ確証が得られたら、わたし的にはOK。これによって」宇藤木はみずるの渡したメモ用紙をひらひらさせた。「仮説を補強できる情報が得られるかもしれない。あとは、もう一度、現場周辺を見たい気もする」  メモには、難波から知らされた電話番号が書いてあった。「ところで、今日は本業の方は大丈夫ですか。事務方というのも、難波みたいなのを相手にするからには、ひまではないでしょう」 「今日は土曜日です。宇藤木さんをはじめ曜日の感覚の薄い方々のお相手をしておりますが、事務屋のわたくしは、ほんらいお休み。広報誌の校正はすんだし、あと残ってるのは、在宅ワークですませます。外に出してもいい資料を読むだけだけど」と、みずるは言った。 「持ち帰りというやつね」 「それに、これだって本務です。生暖かい視線を下さる刑事部はともかく、わたしのところの同僚は、協力的です。皆さんわたしを被害者と思って同情してくれているから」 「すばらしい。ではちょっと失礼」といって、彼は階段の近くに一台だけある公衆電話に向かった。  場所は明るい外光の差し込む吹き抜けの一角であり、長い脚を動かして電話にとりつこうとする宇藤木の前を、スーパーを遊び場がわりにする小さな子供たちが、行ったり来たりしているのは妙に面白かった。  ガラスの向こうは駐車場からの出入り口のひとつになっているため、いろいろな車が前を通っては、消える。カメラを持っていればピエール、子供、車で印象的なスナップ写真がとれたかもなあ、とぼんやり考えた。 「あれ」みずるは、走り去る一台の車に目を止めた。「なんだ。見間違いかな」  一瞬、展望台にあった馬木の車に見えたが、違うようだ。  宇藤木をまた探した。  真面目な顔をし、緑色の公衆電話に向かっていた。一応は持っているガラケーを彼があまり使わない理由のひとつに、古くなって音が悪いというのがあった。  彼女のを奪って使ったりもしないし、まだしばらくこの仕事が続くようなら、無理にでもスマホを買わせた方がいいのかな、と思案する。  しかし、あの大きな男がチマチマと一心不乱にスマホを操作する姿もまた、滑稽だ。それに宇藤木とメールだとかラインをやりとりするのも、これはこれで面倒くさそうな気もする。やたらと長文を書いてきてこっちを悩ませそうだし、前向き保留にしておこう。  無事つながったと見え、宇藤木は受話器を握り直してしゃべりはじめた。電話も手に持つボールペンも小さく見える。たまにはメモもとるんだな、と思った。  なにげなく窓の外に目をやった彼は一瞬、動きを止めた。店外の出来事に気を取られたのかもしれないが、すぐ何事もなかったかのような顔になり、通話を続けた。  彼はいまこの瞬間、顔も知らない人間を相手に聞き取りをしているはずだが、別に口籠ったり、戸惑っているようには見えない。  あの男から明確な職歴を聞いたことがないし、彼自身も「山で芝刈りをしていた」などと、ごまかそうとする。みずる自身にも、まだ遠慮する気持ちがあって深く追求できず、知っている経歴は穴だらけだ。  彼のような人物が長期の宮仕えに耐えられるとは思えないが、一応はそつのない社交技術はどうやって身につけたのだろう。新社会人のとき、電話応対やビジネスレター作成に苦労した記憶のあるみずるは、ときどきそう考えることがあった。短い間でも、どこかの組織に所属したのだろうか。  自慢できる経歴はない、と言ったこともあったが、暗い過去ぐらいはありそうだ。  手持ち無沙汰なみずるは、今度はホットのコーヒーにした。  まずくはないが、わざわざ指定して飲むほどでもない。いつも宇藤木は、これを飲みながらなにを考えているのだろう。将来への不安はないのだろうか。  みずるの実の父であり、彼女たちを手ひどく裏切ったあの男なら、宇藤木ほど若く、偏頗だが普通人の持たない能力に恵まれた人物が、毎日こんな場所で過ごし、こんな飲み物で満足しているのを知れば、さぞ馬鹿にするだろう。まあ正直なところ、あの男でなくともするだろう。  だがこれまで宇藤木から、ひけめや諦めといった負の感情を抱いていると感じたことはない。  自分は逼塞しているとのポーズは平気でとる男であるが、彼の内心には諦観や自己憐憫などわずかな場所しか占めていないに違いない。  おそらく彼は、積極的にこんな場所で過ごすのを選び楽しんでいる。  そういえば当人も、「ノマドワーカーという便利な概念が普及して、説明しやすくなったのはありがたい」などと言っていた。しかし彼の場合、格好つけとはまた違う、独特の合理性・合目的性を優先する気質が、ひなびたスーパーの一角から世界を見つめさせているのだ。  そして、とみずるは考えた。  万事にきっちりして、実社会でも優等生にカテゴライズされる彼女が、振り回され・いらいらさせられても宇藤木への興味と信頼を失わず、自分から彼との仕事を投げ出す気にならない理由の奥底には、あの父とは見事に対照的な人物像なのを感嘆する気分がある。  もっといえば、彼ならいつかあいつをやり込めてくれるかもしれないとの気持ちが初対面の時からあり、誰にも言えないがその期待感は、いまも少しずつ成長を続けていた。  宇藤木が戻ってきた。  「成果はあった?」 「犯人がわかった、すべて真相を見抜いた。謎はとけたぜ、灰原っ」 「ふん。せめて蘭と言え。身体は大人、頭脳は子供のくせに。つまらん嘘つくなよ」  みずる自身も、宇藤木相手なら労せず軽口が返せるのは、認めざるを得ない。 「ついでに三億円事件の犯人もわかった、帝銀事件の真相も」 「切り裂きジャックの正体も」 「そうそう」 「そんなら、休日出勤した甲斐があったよ、ホント」
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