5.選別の行方

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5.選別の行方

 月が変わって最初の月曜日、久々に定時で帰宅した。風呂上がりの一杯を楽しもうと、缶チューハイを開けたところで、スマホが鳴った。約半月振りの槙岡からの連絡。全く、タイミングの良いことだ。 『監査は、終わったのか?』 「ええ、なんとか乗り切ったわ」  神経をすり減らしながら、怒涛の残業を独りで終え、本社から来た監査官達に資料を提出した。彼らは、私の報告に納得し、大いに満足した。 『週末、いつものホテルで逢えるか?』 「先約なんか無いって、知っているクセに」  デートのお誘いではない。そろそろ小遣いが必要になったのだ。彼にとっての私は、都合よく性欲処理も出来るATM。 『そう言うなよ。じゃ、明日、先月の出張費の申請に行く。愛しているよ、莉佳子』  取って付けたみたいなを口にして、呆気なく通話は切れた。彼が、私からの愛の言葉を待た無くなったのは、いつからだろう。確か付き合い始めて数年間は、私が『愛している』と返すまで、会話は終わらなかったのに。  缶チューハイを傾ける。いつもよりレモン味が辛く感じられ、酔えない胸の奥が苦かった。 --- 「莉佳子、まだ寝てるのか?」  情事を終えた翌朝、いつまでもベッドを出ない私に、槙岡は苛立った声を上げた。既に身支度を整え、あとはチェックアウトするばかり。今回の指示では、銀行から引き出した520万の内、270万を抜いた。その現金が入ったセカンドバッグを、彼は小脇に抱えている。私への手当てを収めた茶封筒が、サイドテーブルに置いてある。 「頭が痛いの。もう少し休んで、1人で出るわ」 「そうか。じゃあ……な」  彼は私を見下ろすと、髪を撫でようとして、躊躇った。頭に刺激を与えない程度の気遣いは残っていたらしい。 「ええ。……修嗣(しゅうじ)さん」   去って行く袖を掴むことは堪えたが、名前を呼びたい衝動は押さえられなかった。 「うん?」  部屋の中央で足を止め、彼は肩越しに振り返る。 「……いいえ。また、ね」  私はシーツの間から鼻より上だけ出して、微笑んだ。ベッドという砦がなければ、まだぐらついている信念など脆く、瓦解しそうだ。  彼は、怪訝な眼差しで「ああ」と呟いたが、微かに口元を緩め――部屋を出て行った。  それが、槙岡との最後だった。 ---  莉佳子が知らせていた通り、ホテルの駐車場では、本社の監査官達が槙岡を確保した。彼の手にあったセカンドバッグの中からは、現金270万円と今回の横領の指示書が見つかった。  もちろん、それだけではない。偽帳簿のデータを含め、不正行為の証拠は、既に監査官達の元にあった。  莉佳子も、無罪では済まされなかった。世間からは「男に騙された馬鹿な女」と揶揄された。彼女は、どんなに心ない非難や罵倒の前でも凛と姿勢を正し、ひたすら謙虚だった。業務上横領罪の実刑が確定する頃には、世間の目は彼女に同情的ですらあったという。 --- 『ご苦労様でした。この扉の先に――あなたの魂が在るべき場所が待っています』  莉佳子の身体から引き抜かれた私は、真白な空間に浮かんでいた。側には天人の気配がある。 「あの、結果は――」  言いかけて、首を振る。扉の向こうで待つ天国がどちらでも、もう構わない。重々しい扉をググッと押す。眩しい光が隙間から漏れた後、そこには見慣れた風景が――。 『おめでとうございます! をクリアした方は、引き続きに進んで……』 「あのっ! 私、リタイアします!」  天人のアナウンスを遮って、私は大きく手を挙げた。 【了】
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