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「変な理由で雇ってくれたなあと思っていたけれど、乃々夏さんが会いに来ることを知ってから、やっとわかりましたよ。カノジョさんも岩国の軍人さんだったからなんだって。履歴書なんていらなかったじゃないですか。つまり、愛しい彼女さんとおなじ基地で働いていた父親がいただけという、ものすごく私的な単純な理由。まあ、感謝していますよ。にしても、寝ても覚めてもカノジョさん一筋。もう、この二年ですーーごくわかりました!」
単純なのは緑も自分でもわかっている、つもり、だった。
だがこのアルバイトの彼女『千草』に、ぐっと背中を厨房の勝手口へと押される。
「父も言っていました。任務に出る時は還ることを誓っても、今生の別れかもしれないから――。思い残しはないように――。いいんですか、思い残して見送ったりして。また還ってこられる気持ちにしてあげて送り出す、これは母が言っていたことです」
さすが元軍人の娘。その背に押され、ぐずぐずといじけていた心を追い払うように、緑はやっとレモンの丘の路を走り出していた。
季節は十一月、青いレモンが瀬戸内の陽射しに輝く季節。
レモンの丘を下ったが、乃々夏の姿はもうどこにもなかった。
追いつけるはずの時間と距離なのに。ほんとうにどこにもいない。
つまり。もしいま緑の姿は見えていたとしても、彼女が隠れているかもしれないということだった。
「くそ。もう……無事に還ってくればそれでいいからな!!」
隠れているなら、このひとことだけでも聞いていてほしい。
丘を降りた海辺の道路、タンカーやフェリーが行き交う瀬戸内の海へと大声を張り上げていた。
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