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その夜のことであった。自身の寝所で休んでいた間人は、不意に息苦しさを感じて、目を開いた。
熱い吐息が肌に触れる。胸の上の圧迫感が息苦しい。
「軽様……?」
婚儀を執りおこなってからこの方、夫はほぼ毎晩、間人の隣で夜を過ごした。ただ抱き合って眠るだけの夜もあれば、夫の手が、夜着の下にひそんでくることもあった。
だがそんな時も、ことさらに強いることはなく、穏やかに妻の反応を見定めてくるような優しさがあった。夫である人の優しさにくるまれ、間人はいつも夢の中にいるかのように安らいだ心地で、眠りについた。
――こんな荒々しさは、知らない。
必死で空をかく間人の指先が、窓辺に垂れ下がる御簾に触れた。かたん、と板が外れ、刃のように細い月明かりが室内を照らし出す。
寝台の上に自分を組み伏せる男の姿に、間人は息を呑む。
「――お兄様?」
「間人……この日が来るのをどれほど待っていたことか」
衣の隙間から、熱を帯びた手のひらをさしこまれる。膨らみを揉みしごき、さらに奥へと入り込んでくる熱の感覚に、兄が何を求めているのか、明確に知る。
「や、やめて下さい!」
叔父・姪の縁組みが当たり前のこの時代、兄妹間の婚姻も珍しくない。しかし兄妹の婚姻は、異母の場合に限られる。同母の兄妹の交わりは禁忌である。それも自分よりも高位の女人、皇后たる地位の女に対してなんたる無礼か。
「わたくしは大王の妃です。何をなさるのですか!誰か!」
葛城皇子の動きは止まない。衣を引き裂かれ、その箇所に兄の唇を感じ、間人は思わず、愛しい夫の名を呼んだ。
「い、いや、誰か、誰か来て!――軽様!」
「……」
ぴたり、と男の動きが止まる。訝しんで見上げた先で、葛城皇子はぞっとするような微笑をたたえていた。
「采女も舎人も、誰もこないぞ。他でもない大王が、皇后の寝所から人を遠ざけたのだからな」
「なっ……」
「あの男は……我らが叔父上は、お前を差し出すと言ったよ、間人。お前のその身で、ご自分と有馬の安全を買ったのだ」
その昔、崇峻大王は蘇我馬子と対立し、それが故に家臣の手によって殺された。理由なく、大王の許可もなく都を移すと嘯く皇子に、大王を殺害することはもっと容易い。その気になれば葛城皇子はすぐにでも、兵を率いて大王を滅ぼすであろう。彼を罰することのできる人間など、この世にはただの一人も、存在しないのだから。
「そんな……」
絶望が、視界を覆った。あのお方を守りたいと、日だまりのようなあのお方の愛に包まれたと思ったのは、錯覚であったか。人が政略と笑う婚姻であったが、それでもそこに確かなものがあったと信じた日々は。
抵抗を止めた間人の四肢を、葛城皇子が荒々しく褥に縫い止める。
その夜、大王の宮の舎人達は、皇后の寝所から、止むことのない女のすすり泣きを聞いた。
わたくしは、その後、夫を難波に残したまま、兄と共に飛鳥に参りました。
大王は都が移されて間もなく、病を得て儚くなられました。わたくしも旧都に駆けつけましたが、夫の臨終には間に合いませんでした。
はい?大王は飛鳥より届けられた御酒を口にして、それから急にお苦しみになられたと?御酒の送り手は葛城皇子で、皇子は遷都を拒絶して旧都に居続けた大王をわずらわしく思い、大王をしい奉ったのだと?
誰がそのようなことを申しているのでしょう。密かに有馬が寵愛していた、あの采女でしょうか。……もっともその有馬とて、もはやこの世の者ではありませぬが。
そんなこと、あるわけないではございませんか。
あのお方は――葛城さまは、欲しいものを手に入れたのです。ご自分が手放したその花を再び手折って懐中に収め、それはそれはご満悦であられましたよ。さすがにお気づきになられた母上が、兄上に皇統をお渡しになられることを厭うて、自ら再び皇位を踏まれるくらいに。
……何ですって?
大王が口にされた御酒からは、梅の香がしたと?大王はその香を愛おしそうに見つめて、自ら、毒が含まれていることを承知で杯に口をつけたと?
それもあの采女が申しているのですか?大王様が、この香は我が妻のものとおっしゃられた、などと?
……さあ、どうでございましょう。そのようなことがあったのかもしれませぬ。なかったのかもしれませぬ。
いずれにせよ、真相など、誰にもわからぬことではありませぬか。殿方の語る歴史に、女の入り込む隙間はございません。
――そうでございましょう?
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