浮花語り

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 人はわたくしを、政略の犠牲と呼びます。  兄に命じられて叔父に嫁いだとき、わたくしは十七。叔父はすでに五十二……。親子よりもなお歳の離れた夫婦でありましたが、夫は優しい人でした。  そもそも、大王家に生まれた女に、政略以外のどんな婚姻が望めましょう。わたくしの母であり、夫の姉である先の女王も、生木を裂くように前夫と離縁をさせられ、舒明大王に嫁いだ女人でありました。  その後、二度も皇位につき、皇極・斉明の名で呼ばれるそのお方こそ、わたくしの母でございます。長兄は葛城皇子、弟が大海人皇子、そして我が君の名を軽皇子――即位後の諱を、孝徳大王と申しました。  思えばまだわたくしが嫁ぐ以前、わたくしたちが叔父と姪であった頃から、わたくしはあのお方をお慕いしておりました。穏やかで聡明な安倍様と、その方からお生まれになった有馬皇子を深くご寵愛される様子を、実の父に縁遠いわたくしなどは、別世界のことのように眺めていたのでございます。  わたくしは夫を慕っておりました。誓って申し上げます。真実、心の底からお慕い申し上げていたのです。 「――間人、大王の元へ行ってくれないか」  形式上問いかけの形を取ってはいても、その実、相手の返答を望んだ言葉ではない。いや、今のこの大和の地において、彼の言葉に逆らうこのできる者があろうか。  現王の甥であり、先の大王の長子、そして、大逆を企てた蘇我宗家の主・蘇我入鹿を討ち果たした英雄――葛城皇子の言葉はもはや、この国の決定事項となっていた。 「はい。お兄様……」  例え、血を分けた実の妹であれ、その事実にかわりはない。間人皇女は頭を垂れ、兄の言葉に粛々と頷く。十七歳の妹と、五十を過ぎた叔父との縁組み。年若い妹の気丈な言葉に、それでも多少は後ろめたさを感じたのか、葛城皇子は妹の手を取り、まっすぐに彼女の瞳を射た。 「少しの間の辛抱だ。俺が大王にさえなれば、お前はあんな爺の妃でいる必要はない。すぐに帰ってこられる」  大化元年、後に「大化の改新」と呼ばれる政変により、大王家をしのぐほどの権を蓄えた蘇我宗家は、葛城皇子の手によって滅ぼされた。しかしその裏に横たわっていた、大王家の血統の問題に、気づいている者は少ない。  皇極女王とその夫舒明大王の長子として生を受けたこの皇子は、しかし皇位継承の筆頭候補ではなかった。舒明帝には蘇我氏の娘との間に男子・古人大兄皇子をもうけており、彼こそ大王家の一の皇子――大兄皇子であったのだ。  蘇我氏統領入鹿暗殺から間をおかず、彼はこの異母兄を責め滅ぼし自害させている。古人大兄の妃も幼い皇子も共に不帰路をたどり、残されたただ一人の娘、倭姫王は葛城皇子の宮に、妃として迎え入れられる。  異母兄を滅ぼし、その娘を娶り、着々と大王への道を歩みつつある兄にとって、何よりも厭わしいのは、女王の譲りを受けて即位した現大王であろう。すでに五十を超えた老齢であるが心身壮健で、しかも彼には既に男子・有馬皇子がある。  間人は兄に気づかれぬよう、密かに拳を握る。脳裏にはほんの数ヶ月前、この兄の策略により命を失った、異母兄の穏やかな笑顔が浮かんでいた。  間人皇女は舒明大王と皇極女王の長女、葛城皇子の他にも大海人という名の弟があったが、権を争い血を流すことを厭わぬ大王家の血を、彼女はどうしても好きになれなかった。幼い頃から、母の違う兄である古人大兄や、母の弟である軽皇子の後ばかりついて歩いていた。実の父母よりも自分を慕う幼い姪に、叔父はいつも苦笑いしながら小さな手を取って、膝の上へ持ち上げてくれた。 「わかりました。わたくしは、叔父上のもとに参ります」  ――そんなことをさせるものか。叔父上だけは。あのお優しいお方だけは、兄上の手から守って見せる。  間人皇女の密かな決意を知る由もなく、戦乱と血に濡れたこの年の秋、人々は大王婚礼という祝事の準備に沸いた。
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