浮花語り

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 翌年、梅の花咲く春の初め、間人皇女と孝徳大王の婚儀が執りおこなわれた。すぐに彼女は立后し、皇后として大王の隣席を賜る。御年十八歳の皇后は、咲き誇る花の精のようだ……と人々は噂した。 「――間人姉上。こたびの婚礼、誠に……」  少年がおずおずと皇后の足下に跪いて口上を述べる。途中で自身の言葉の誤りに気がついたらしい。はっと息を呑むと同時に、まだ華奢な肩が、一瞬、びくりと大きく震える。 「失礼いたしました。……義母上」  有馬皇子は、戸惑ったように視線を下げた。まだ若いこの皇子は、唐突に降って沸いた若い母を厭うほどすれてはいないが、これまで「姉上」と呼んで慕ってきた年上の従姉を「義母上」と呼ぶことについては、戸惑いを隠せないようだった。  彼の生みの母であり、大王の糟糠の妻であった安倍氏は、すでに帰らぬ人となっていた。齢五十三の孝徳大王には現在、皇后間人以外の妃はない。 「無理をしないで。人のいないところでは、これまで通りに呼んでくれていいわ。……ねぇ、いですわよね、貴方?」  背後で采女の何人かが、笑いをかみ殺している。年若い妻の媚びを含んだ微笑に、壮年の大王は褐色の頬をわずかに染めていた。 「好きに……しなさい」  父と夫の許しに、若い二人は手を取り合って喜んだ。弾けるような笑いが、大王一家を包み込む。  無理やり夫と離縁させられた母は父と馴染めず、そんな二人の間に生を受けた兄は心の穴を権力で埋めようとした。その道具とされた間人を待っていたのは、春の陽だまりのような時間だった。  ――倖せとは、このようなものをいうのか。  この頃、間人は生まれて初めて感じる幸福の中に酔いしれていた。  ――間人様と、大王様のご夫婦仲でございますか?  それはそれは睦まじゅうございましたよ。有馬様も、間人様には大変親しくいらっしゃって。有馬様自ら、采女の私風情に、きっと近いうちに私には弟か妹かできるよ、などとおっしゃっていたぐらいでございますから。  ご結婚後しばらくたって、大王様は鎌足様のご息女を宮に迎えられましたが、そちらにはほとんど通われることがありませんでしたもの。  お年は大分離れてらっしゃいましたが、本当に睦ましいご夫婦でした。あのお方が、あの葛城様の妹君であられることなんて、信じられないくらいでございました。  葛城様は――そうですね。今思うなら、ご不快に感じられていたのかもしれませんね。葛城様には王女はおられましたが、唖のご長子以外には男子はおられず……大王様と皇后様にもしも皇子様が誕生すれば、それは皇位継承の筆頭候補ですもの。 「――遷都……?」  朝廷が都を動かすことを、遷都と呼ぶ。主に先の大王の死の穢れを祓為に行われるこの行為が、大王の在位中に行われることは極めて少ない。  例外は、史上初めて生前の譲位を行った皇極女王である。譲位後、都は飛鳥から海運に長けた難波へと移されたが、この場合、遷都の詔 には理由として、蘇我宗家に降りかかった災いによる、死の穢れがあげられていた。  譲位なく、穢れなく、都を移した先例は過去にない。唐突に発せられた兄の言葉に、間人は凍り付く。例外は、史上初めて生前の譲位を行った皇極帝である。譲位後、都は飛鳥から海運に長けた難波へと移されたが、この場合、遷都の詔には理由として、蘇我宗家に降りかかった災いによる、死の穢れがあげられていた。 「何故です、何故今、都を移さなければならないのですか、兄上」  現大王の治世はつつがなく続いており、禊ぎを行う必要もないこの時に。 「黙れ、間人。俺は大王と話している」 「――わたくしは皇后です!」  かたん、と目の前の卓が鳴る。  推古、皇極と夫の死後即位した皇后の例からもわかるように、皇后の立場は一般に、他の大王家の男子より高い。故に、政にも参加する。  例え同母兄であれ、その事実は変わらないはずだ。思わず立ち上がった間人の手を、傍らの有馬皇子がつかみ取る。 「義母上、落ち着いて下さい。義母上……」  先の大王であり、葛城と間人の母である皇極女王は、今や葛城皇子の言いなりだ。今、この状態で遷都を行えば、人々は悟るであろう。彼らが頂く現在の大王が、いかに無力であるかを。  今の大王は中継ぎに過ぎぬ。次の大王は葛城皇子。そう信じる者は彼を、大王家の第二の皇子――中大兄皇子と呼ぶ。  誰が、そのようなことを許すものか。  ――この国の大王は、他ならぬ我が夫。そしていずれは、有馬皇子が大王の長子として皇位を継ぐのだ。 「――間人、有馬」  いきりたつ妻を前に、大王は穏やかに言葉を紡ぐ。暖かな手が、間人の肩に触れた。 「私は葛城皇子と話がある。席を外してくれないか。……有馬、義母上を宮まで送っておやり」
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