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「イリア・トゥール!お前との婚約は今日をもって破棄する!」 「……まあ」  イリアは、自身の婚約者の口から発せられた言葉に硬直した。  悲しみ、ではない。のんびりやのイリアには、瞬発的にそんな感情を抱くことができない。  得意ではないのだ。だから、イリアがそのとき思ったのは、「リチャードさまはなにをおっしゃっているのかしら」というごくごく普通の疑問だった。  ことんと首を傾げるイリアに、壇上のリチャード・アンドレ――マグノリア国の第二王子は眉をきゅっと吊り上げて、イリアを指さした。 「そういう高慢なところが俺の気に障る!だいたい――……」  ここでリチャードの言葉を遮るほど、イリアは空気の読めない娘ではない。  イリアは相変わらずわけがわからないまま、その桜色の唇を行儀よく閉じて、リチャードの言葉に耳を傾けた。  やさしい母は、いつも「相手がどんなに奇抜なことを言っても、まずは聞いてあげることが大切ですよ」とおっしゃっていたので。  イリアはこの少々精神年齢の幼いきらいのあるリチャードという婚約者のことを、教会の孤児たちと同じくらいかわいらしい子供だと思っていた。――もちろん、リチャードの話すことは教会の子供たちほど面白いものではないのだけれど、それも愛すべき幼い彼の特徴だと思っていた。  恋愛対象として愛してはいないけれど、お世話をしてさしあげるのはそれなりに楽しそうだとも思っていた。  そう思って、母のようなここちでリチャードを見つめていると、リチャードの目がますます吊り上がっていくのが見えた。  いけない、第二王妃さま譲りの狐のように細く愛らしい目は、そういう顔をしては本当に糸のようになってしまう。印象が悪くなってしまいますよ、と忠告したい気持ちを、イリアは手をぎゅっと握ることで耐えた。  それを、イリアが何か堪えているように見えたのだろう。  いくらか溜飲がさがったらしく、リチャードはイリアに侮るような目を向けて来た。 「お前がかわいいハリエットにした陰湿ないじめの数々、忘れたとはいわせんぞ!」 「……いじめ?」 「とぼけても無駄だ!証言もある!お前がハリエットを階段から突き落とそうとしたこともこちらは把握している!」 「あらまあ……」    いじめもなにも、おそらくそのご令嬢と会ったことはないのだが……。  イリアは、その時はじめてリチャードの背後にかばわれるような体勢で立っている少女の存在を知覚した。  染めたのかと思うほどの濃いピンクの髪に、フリルでごてごてと飾り立てられたドレス。首や手首には肩が凝りそうなほど過剰な装飾がついていて、イリアは思わず口元を扇で押さえた。 「まあ……かわいそうに……」 「な――!お前がしたことだろう!こんなにか弱いハリエットをいじめるとは、なんと陰湿な女だ!」 「いいえ、いいえ、リチャードさま、わたくし、大変にあなたさまを尊敬しておりますし、今まさにあなたさまの物語を作る才能を知って嬉しく思っておりますが、そんなことよりハリエット嬢……でしたね、彼女のあまりにも哀れな格好をはやく助けて差し上げないといけません」 「……は?」  ハリエットと呼ばれた少女が目を丸く見開く。なんとかわいそうに、何も知らないのだわ、と思って、イリアはきっとリチャードに強い視線を向けた。  窓の外をはらはらと落ちる、銀糸の髪がイリアの動きに合わせてふわりと揺れる。アメジストをはめ込んだような瞳に力がこもると、それを目にした周囲の人間は思わずため息をついた。  雪を溶かしこんだような銀の髪、宝石の瞳――宝石姫との異名もある美しい公爵家の末の姫君が、イリアだった。  イリアは壇上にかけよって、ハリエットの手をとった。  イリアの着るマーメイドラインのドレスには、最低限の飾りとして小粒の真珠が縫い付けられている。シンプルなドレスだが、これは今の流行の最先端だ。  ハリエットの着ているフリルだらけのドレスは、去年の流行。多すぎる飾りは体を壊すと早々に流行から外れている。それをこんなにつけて、まるで虐待だ。  イリアはハリエットのあまりの不憫さに目を潤ませる。 「な――イリア!」 「お静かになさいませ、リチャードさま、いくら考えのたりないあなたさまでも、公衆の面前でこのようにか弱い淑女を貶めることは許されませんわ。さ、ハリエット嬢、まにあわせで申し訳ありませんが、このショールを羽織ってくださいな。少しはましになるはずです」 「な……、あんた……!!」  ハリエットが顔を真っ赤にして震えている。  かわいそうに、こんなに人目のある場所で、流行おくれにもほどがある格好をさせられて、しかも壇上という目立つ場所にさらされたのだ。  恐怖はいかほどだろうか……。  イリアは胸が締め付けられるここちがして、ハリエットをやさしく抱きしめた。  イリアの背後でしのぶような笑い声がする。義理の弟の声だわ、と思って、イリアは唇を引き結んだ。淑女の恥を笑ってはなりません、とあとで叱っておかなければ。  ――抱きしめられたハリエットは、わなわなと肩をふるわせた。こんなはずではなかったからだ。それは、公爵家の愛されし末姫が目の前にやってきたことで顕著になった。  二人が並ぶと、差は一目瞭然だった。  ごてごてと飾り立てたハリエットは確かに小動物のようにか弱く愛らしく見えるが、それもイリアがそばに並ぶまでだった。  ただそこにいるだけで透き通るように美しく、シンプルなドレスを着ているからこそ素材が秀でているのだとわかるイリア。その圧倒的な、まさしく宝石のような美貌は、ただ近くによる、というそれだけの行為で、ハリエットというただのけものを打ちのめしたのだった。
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