忘れられた花

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夜になると、少し涼しく感じる風が、それでも湿気を帯びているせいか、ケンジの首筋に汗を滲ませる。 それを大判のハンカチで拭った。 まだ赤ちゃんかなと思える幼い猫の「にゃあ。」という声が聞こえたので、公園の方を見たら、誰もいないのにブランコが揺れていた。 ケンジは、足を止めて、周囲を見渡してみる。 「やっぱり、変だ。」 4日ほど前から、この公園の横を通るたびに、誰かがケンジの事を、どこかの暗闇というか、どこかの陰から見ている気がしてならなかったのだ。 ケンジは、仕事が終わって家に帰る時、遠回りになるけれども、この公園の横の道を通ることが多かった。 仕事で嫌なことがあった時に、すぐに家に帰ると、奥さんのマリコに心配をかけるので、一旦、公園でクールダウンさせるためである。 ケンジは、ちょっとした心配事でも、すぐ顔に出るタイプだからだ。 「おい、誰だ。」 いつもは出したことのない大声で、誰もいない公園に向かって言った。 すると、公園の電柱の陰から、「分かりましたか。」と40歳ぐらいの黒いスーツの男性が現れた。 ケンジは、まさか本当に誰かがいるとは思ってもいなかったので、かなり驚いた。 「君は、誰なんだ。」 「はあ。それなんですが、、、言ってもいいものなのか、どうなのか。ここでは何ですので、どこか喫茶店ででも話をしませんか。」 すぐに危害を加えようとする人間じゃなさそうだし、とにかく、ケンジを監視しているというか、つけている理由も知りたいので、駅まで戻って、古くからやっている純喫茶に入った。 濃い目に淹れるホットコーヒーは、大阪では有名な味で、このコーヒーには、砂糖を3杯いれるのがケンジの好みだ。 「いやあ、始めて入りましたけど、ここのコーヒー、旨いですねえ。」 男は、満面の笑みで、今飲んだ、コーヒーカップを顔の前まで持ち上げて見つめている。 「それに、このカップ。これは年代物ですね。イギリスのものかな。いやあ、実に、この店に合ってますよね。そうそう、喫茶店って言ったらね、私らの子供のころ、、、、、。」 ケンジは、嬉しそうに子供のころの話をしそうになっている男を止めた。 「いや、今は、そんな話は、いいですから。どうして私をつけていたんですか。」 「はあ。それはねえ、、、いやあ、これは困ったな。実は、それについては、言えないんですよね。」 「言えないって、つけてたのは、あなたですよね。だったら、言えるでしょ。」 「ええ、つけてたのは私なんですが。言えないんですよ。守秘義務がありますから。」 「守秘義務って。誰かに頼まれたの?」 「分かりましたか。私が喋ったんじゃないですよね。あなたが、勘付いたんですよね。なかなか、鋭いですね。」 「いや、守秘義務があって、言えないっていうなら、そう言う事でしょう。誰でも判りますよ。」 「このコーヒー、ミルクを多めに入れると、これまた、旨いですね。実は、子供のころ、喫茶店と言うとね、、、、。」 「ちょ、ちょっと待って。今は、あなたの子供のころの喫茶店の話は、どうでもいいんです。何故、私をつけてきたかの話なんですよ。」 「やっぱり、それが気になりますか。」 「それは、そうでしょ。だから、どうして。」 「いやあ。困ったなあ。それは、言えないんだけどなあ、、、。」 「もしかして、私の浮気調査をしてるとか。」 「あ、ご主人、今、浮気をされているんですか。いやあ、それは羨ましいですね。実は、私はまだ独身なんですがね、いつか結婚したら、浮気というものをしてみたいなと思っているんですよ。何でも、3人に1人は、してるっていう噂じゃないですかあ。」 「浮気をする前提で、結婚するのは、間違ってますよね。それに、わたしは、浮気はしていません。」 「はあ、浮気はしていない。」 「ええ、だから、もし浮気調査なら、奥さんに、そう報告してください。」 「依頼者が奥さんだと?」 「浮気調査なら、奥さんしかいないでしょ。」 「そうですね。でも、浮気調査じゃないんですよ。」 「じゃ、何なんです。」 「いやあ。それは言えないな。」 「言って貰わなきゃ、ダメだよ。でなきゃ、あなたを警察に差し出しますよ。」 「警察に、、、何の罪で。」 「それは、何かあるでしょ。勝手に人を、ずっと付け狙ってるんだから。いつから、私をつけてたんですか。」 「4日前からです。」 「いい加減に、言ってください。何故、わたしをつけてたのかを。」 ちょっと強い語気で言ったら、男は、独り言を言いながら、考えているようである。 「どうしようかな。言っちゃおうか。どうせ言っても、この男は、いずれ死んじゃうんだから、、、、いやでも、言ってバレたら、暴れるかもしれないし、それで失敗したら、依頼者にもお金貰えなくなる。いや、でも、言わないと帰してくれない感じだし、、、。」 「何をぶつぶつ言ってるんですか。独り言かもしれないけど、聞こえてますよ、わたしに。」 「ええっ、聞こえちゃいましたか。」 「なんか、私が死んじゃうって言ったよね。」 「はあ、正確には、わたしが殺しちゃうんですけどね。ああ、やっぱり濃い目のコーヒーは美味しいですね。いつもは、胃が悪くなっちゃうっていうんで、アメリカンしか飲んでないんですよ。だいたい、子供のころの喫茶店のコーヒーって言ったらね、、、、。」 「だから、子供のころは、もう、一旦、置いておいてください。あなたが殺しちゃうって、どういうことなんですか。」 「はあ。実は、わたしは、職業で言うと、所謂、殺し屋なんですよ。ほら、劇画のゴルゴ13とかお読みになったことありますか。えっ?無い、、、それじゃ、テレビの必殺シリーズは?ええ、あのシリーズは、毎回録画して見ておりまして、、、。あ、話がそれましたね。だから、あんな風な、人を殺す職業っていうんですかね。それでお金を稼いでるんですよ。」 「殺し屋?あなたが?」 「はい。わたしが。」 「あははは。信じられないよ。どうして、私が殺されなくちゃならないんですか。」 「そこですよね。実は、わたしも知りません。殺し屋というのは、お金をもらって殺すだけなんですから。そこに何故という疑問を持ってはいけないのです。」 「誰に、誰に、頼まれたんですか。」 「いやあ。だから、それだけは、言えないんですよ。言ってしまって、失敗したら、私の責任になりますから。それに、そんな失敗をしたら、団体から追放されちゃいます。」 「団体って?」 「全国人殺し協会っていうんですよ。そこの殺人教室で勉強してから、卒業したら、みんなその団体に所属するっちゅう仕組みなんですよ。」 「殺人教室って、、、そんな学校あるんだ。しかし、別にそんな勉強することあるんですか。」 「バカにしないで下さいよ。殺人も難しいんですよ。そう簡単に素人が考えるようには、まいりません。」 「ピストルで、『バン』で終わりじゃないですか。」 「はあ。それが、ピストルで殺すとしたら、ピストルを用意しないといけないでしょう。あれは高くつくんですよ。だから、それを依頼者に請求しないといけない。あなたの場合、依頼者は、そこまで、お金を出す余裕もないそうなんですよ。だから、首を締めるとか、ナイフで刺すとか、、、あなた、どれがいいですか。」 「いや、どれがいいですかと聞かれて、答える人いますかっていうの。」 「ごめんなさーい。そうれはそうですよね。選択するって言うのは、難しいものですよね。わたしも喫茶店に入ると、コーヒーにするか、紅茶にするか、いつも迷うんですよね、、、。」 「それとは次元が違います。それと、子供のころの話はしないで良いですからね。」 「まあ。そんなに心配しないでください。私も教育を受けたプロですから。苦しまないように殺してあげますから。」 「わたしは、あなたに殺されませんよ。言っときますけど。」 ケンジは、半信半疑で男の話を聞いていたが、でも、まったくの嘘だと断定できる証拠も見つけることが出来ずに、男の話を聞いていた。 それにしても、誰が、私を殺そうとしているのか。 いくら考えても思いつかないのだ。 「本当に、私を殺してくれと頼まれたの?それって、誰かと間違っていないかな。人違いって事ないかな。」 「人違いじゃありません。中村ケンジさんですよね。ちゃんと調べてから殺しますから。それは間違いないですよ。」 「じゃ、本当に、あなたは、殺し屋なの?今までに、一体、何人の人を殺したんですか。」 そう聞くと、男は、急に顔を真っ赤にして下を向いた。 「どうしたんですか。」と続けて聞いた。 「実は、この稼業について5年になるのですが、、、まだ、1人も殺したことがないんです。」 「ええっ。まだ1人も殺したことが無い?それで、人殺しって言えるんですか。」 そういわれて、ますます、顔を赤くして、もうトマトぐらいに赤くなっちゃっている。 「それを言われると恥ずかしいんですが、、、一応、全国人殺し協会に所属しているわけだし、それは人殺しっていっても、そうそう間違ってはいないんじゃないですか。そうでしょ。」 男は、ちょっとムキになって反論した。 「どうして、5年も所属しているのに、人を殺してないんですか。それじゃ、給料もらえないでしょ。」 「はあ、それは心配いらないんです。完全歩合制ですから。給料がもらえない分、昼間、コンビニでバイトしてるんです。」 「へえ、大変なんだ。でも、どうして殺さないの。」 「殺しの依頼は来るんですけどね。いやあ、倫理的に、本当に、この人殺していいのかと考えてしまうんですよ。」 「考える前に、殺しちゃいけないって分かるでしょ。」 「それじゃ、わたしの殺し屋としての稼業がなりたちません。」 「人は、誰をも、殺しちゃいけないんですよ。法律で決まってるでしょ。」 「法律は、そりゃ、殺したら罰せられるでしょう。でも、私が悩むのは倫理的にということなんですよ。」 「倫理的にもダメでしょう。」 「じゃ、どんな悪人でも殺しちゃダメだと。」 「決まってるじゃないですか。」 「じゃ、あなたの家族が殺されても、相手に復讐しようとは思わないんですか。」 「復讐したい気持ちは出てくるでしょうけど、殺しません。」 「なるほどね。でもね、あなたは、自分自身を善人で、誰も傷つけてはいないと思ってるんでしょ。そして、誰も殺さないと。それが違うんだな。人間という生き物はね、ただ生きているだけで、少しずつ誰かを殺しているという事実に目を向けなきゃいけないと思うんですよ。」 「どういうことなんだ。」 「例えば、今飲んでいる珈琲だって、ひょっとしたら、農薬が残っているかもしれません。その農薬の入ったコーヒーを毎日飲んでいたら、ある日、病気になって、ぽっくりとということになるかもですよ。そしたら、コーヒーに関係している人は、殺しに加担したことになる。ピストルでバンと1発で殺したなら、誰が殺したかって分かるけど、誰も知らない、無数の誰かが、誰か知らない、無数の誰かを、毎日毎日、殺しているんですよ。だから、わたしが、たとえ誰かを殺しても、それは、みんなと同じことをしているだけなんですよ。まあ、コーヒーは知らないけど、農薬使ってる野菜多いでしょ。そうだ、食品添加物もそうですよね。」 「そんなこと言ったら、生活できないでしょ。」 「まあ、農薬とかは、置いときましょう。でも、本当に怖いのは、人間ですよ。ほら、最近、イジメって、問題になってるでしょ。あれなんか、立派な殺人ですよ。わたしに言わせればね。誰かが誰かをイジメる。それって、その相手を、ちょっとだけ殺しているようなもんですよ。1人の人にイジメられたら、それだけで、その人の人生というか、命の1パーセントぐらいは殺してるんじゃないですか。でも、クラスの中の10人にいじめられたら、10パーセント殺されてる。それが、何年も続いたら、もう100パーセントになっちゃうんじゃないですか。そうなったら自殺しかなくなるんです。自殺という名の殺人。」 「まあ、テレビとかで、たまに、そんな話題がでるけどさ。でも、実際に、殺すのは、やっぱりダメでしょ。」 「甘いですね。まあ、法律的には、そうでしょうけれど。」 「じゃ、あなたの言う、倫理的な殺すのと殺さないのとの、線引きはどこなんですか。」 「ええ、それは。その人を殺した時に、悲しむ人がいるかどうかです。今までの人は、誰かが悲しむことになるシチュエーションばかりだったんですよね。殺すことで、誰かが悲しむ。その時は、殺さないことにしているんです。わたしだけのルールなんですがね。」 「じゃ、わたしは、どうなの。」 「それは、調査中です。なので、まあ、今日のところは、この辺で。」 「いや、この辺でって、まだ、誰が依頼者か聞いていないし。」 「それは、答えられません。」 「じゃ、殺さないのかね。」 「ええ、今日は、殺しません。」 そんなことがあって、自宅へ帰ったら、マリコが、笑顔で言った。 「お風呂も沸いてるし、ご飯も出来てるよ。」 いつものマリコである。 娘の様子も、普段通りだ。 ケンジは、テーブルにつくと、冷たいビールを流し込んだ。 そして、胸をなでおろしたのである。 わたしが死んだら、マリコは、悲しむだろう。 それに、娘だって、涙の1つぐらいは流すに違いない。 ということは、わたしは、殺されないということじゃないか。 そう思うと、ラッキーな殺し屋に出会えたものである。 しかし、しばらくして、言いようのない寂しさに襲われた。 殺し屋が狙っているということは、誰かが、殺し屋に依頼したと言う事だ。 その誰かが、問題なんだよな。 でも、ここにいるマリコでも娘でもないはずだ。 会社の人間だろうか。 いや、殺されるほど恨まれている覚えはない。 マリコ以外の女性と付き合ったことも無いから、女関係でもない。 ああ、分からないと、ケンジは、ビールをまた流し込んだ。 そんな事を考えていたら、眠れない夜を、頭をかきむしりながら過ごしたのである。 次の日の仕事帰り。 例の公園である。 「やあ。」男がケンジを待っていた。 「やあ、って、私を殺そうって言うのに、軽すぎないですか。」 「でも、あなた、殺されようとして、この道をやってきたんじゃないんですか。ここに来たら、殺してくださいって言ってるようなもんですよ。」 「それはそうだけど、どうしても、依頼人が知りたくてね。」 「はあ。それなんですが、やっぱり、殺すのをやめました。」 「そうでしょ。昨日家に帰ったら、マリコも、娘も、わたしを愛してくれていることに気が付いたんです。」 「はあ。実は、そうじゃないんですよ。これはねえ、初めてのケースでして、依頼者が昨夜、亡くなったんですよ。」 「依頼者が、、、だから、それは一体、誰なんですか。」 「ええ、もう亡くなられたんで、言っても構わないかもしれませんね。佐々木ケイコさんて、覚えてらっしゃいますか。」 「佐々木、、、ケイコ、、、。いや、それは誰なんですか。」 「でしょうね。あなたの中学時代の同級生です。そして、あなたを殺してくれと頼んだ依頼人です。」 「ええっ。そんな人、知らないですよ。それに、その人に、わたし恨みをかっていたというんですか。なんの恨みなんですか。」 「それなんですよね。今までの殺しの依頼は、全部、その恨みが原因でした。でも、今回は、違うんですよね。」 「あなた、今、佐々木ケイコさんを知らないとおっしゃいましたが、佐々木さんにとっては、あなたは特別な人だったんですよ。あなた、中学生時代に、その佐々木ケイコさんに、好きだと言ってるんですね。まあ、あなたにとっては、軽い気持ちで言ったのかもしれません。でも、彼女にとっては、その言葉が生きる力というか、生きる理由になっていたんですね。」 「どういうことですか。それに、わたし、そんな告白したのかな。」 「彼女は、あなたの告白を受けたあと、遠くの病院に入院したんです。なんでも、名前は知らないですが、難病らしいです。それで、入退院を繰り返して、最近では、もう10年以上も、病院から出ていなかったそうなんです。そんな状況だったから、友達も出来ずに、だから、病室にも誰も訪ねてこないんですよね。それは、寂しい毎日だったと、わたしも想像に易いですよ。可哀想ですよね。でも、そんなツライ入院生活で、唯一、勇気づけられたのが、あなたの言葉だったんです。それだけを、こころの支えにして、生きて来た。」 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。それって、もう30年以上前の話でしょ。」 「ええ、すごい執念でございますね。でも、誰にも会う事のない入院生活でしたから。それに、彼女にとって、自分が愛されているという事実は、生涯で、その1度だけだったんです。生まれてきて、初めて、好きだと言われた。これって、彼女にとっては、すごく大切な出来事だったんじゃないでしょうか。」 「でも、それと、わたしを殺すことが、繋がらないんですけど。」 「生まれてきて、誰にも愛されずに、ただ、病院で生きて来た。でも、唯一、好きだと言ってくれた人がいる。その人を、殺すことが出来たら、その人を自分だけのものにすることが出来る。彼女と、あなたが、特別な糸で結ばれた関係になると信じたかったのでしょう。詰まり、あなたと無理心中したかったのです。だから、あなたを殺した後に、彼女も殺す計画でした。」 「そんな無茶な。」 「でも、彼女にしてみれが、あなたが、一瞬でも好きだと言ってくれたこと、それが、この世に生まれてきた意味だと思ったのでしょうね。」 「それは、悲しすぎるでしょ。」 「ええ、悲しい話です。」 「でも、昨夜亡くなられたんですね。その時の様子はどうだったんですか。死ぬ時ぐらい安らかな気持ちでいて欲しいけど。」 「それが、どうにも、怖ろしい表情でしたよ。もうすべてを諦めたような切なさを秘めてはいましたが、自分という人間をこの世に生まれさせた神様を恨むような、怒りにみちた般若のような顔でした。」 「で、彼女に、わたしを殺したと言ったのですか。」 「いえ、わたしが駆けつけた時は、亡くなられた後です。でも、あなたを殺すか殺さないかは、彼女にとって、本当に、重要だったのかどうか、、、、たぶん、どっちでも良かったのではないかと。」 「わたしを殺すも殺さないも、どっちでも良かったって。そんなので、殺しを依頼しないで欲しいよね。こっちは、生き死にが掛かってるんですよ。」 「ええ。でも、本当に殺すつもりなら、私に依頼はしなかったんじゃないかと、今になったら思うんです。だって、わたし、今まで1人も殺せてないんですから。」 「それじゃ、意味無いじゃないですか。」 「彼女は、あなたに、自分という女がいたことを、思いだして欲しかったのかもしれませんね。自分は死んでも、あなたの記憶の中に、こころの片隅に、ひっそりと生き続けていたかったのじゃないでしょうか。そう思うんです。自分が生きてたって言う証拠をあなたに託したのかも。」 その説明を聞いて、何とも彼女が、哀れに思えて来て、愛おしくさえ思えてくるケンジがいた。 1週間後、ケンジは、実家に残してあった卒業アルバムで、佐々木ケイコという名前を探した。 ショートカットの彼女は、殺人を依頼するようには思えない活発な感じで、そういえば、好きだったのかもしれないと、朧げな記憶が蘇ってくる。 ケンジは、人差し指で、写真の唇に触れてみた。 「ありがとう。」 そんな言葉が、ふいに口に出る。 ケンジは、自分という人間がいたことを覚えていてくれたこと、そして、好きでいてくれたことが、ただ嬉しかった。 そして、「もう、忘れないからね。」そう言って、アルバムを閉じた。 或いは、あの殺し屋も、こうなる結末を、知っていたのかもしれないな。 秋の気配を帯びた風が、ケンジの首筋を通り過ぎたが、もう汗が滲むことはなかった。
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