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月に複数の都市が建設されてから数世紀。月が生まれ故郷であり、そこで世代を重ねる人々は、月を地球のように独立した存在と認めるように、長年求めてきた。地球側はそれをなかなか認めようとしなかったが、四年前、月地球往復船の発着を禁止し、月を周回するすべての人工衛星を支配下に置き、月世界政府を認めるように地球に突きつけた。地球側はこれを渋々承認したものの、行き来は今も正常には戻っていない。
月の地質を研究している楼希達は、今回特別に、月行きを許可されたのだ。これまでも、多くの研究者が月世界政府に研究のための訪問を申請してきたが、却下されてきた。楼希達もダメ元で申請したのだが、なんと許可が下りたのである。
申請が通ったと知った時、一度も月に行ったことがないアドリアナは、文字通り飛び上がって喜んだ。嬉しくて仕方なかった彼女はその喜びを表現するためなのか、得意のサルサソースを作りまくり、楼希とハインツは飽きるほど食べさせられたのは、今となってはいい思い出である。
それから半年をかけて、準備をしてきた。いよいよ月に行けると思うと心躍るが、半年前にはなかった憂鬱も、わずかに感じていた。
楼希達の月行きを知った様々な人、団体から接触があったのだ。中でも多かったのは、政治関係。月世界政府の内情を探って欲しいというものだった。研究のことしか考えてなかった楼希は、これに戸惑った。研究資金を提供する代わりに何でもいいから情報を持ち帰ってくれ、という人もいた。
月が月世界政府として独立を宣言してから、初めて許可が下りたのが楼希達だったから、無理もないのかもしれない。しかし、楼希達は研究のために月に行くのだ。それ以外に目的はないし、やる暇もない。
どれも断っていたのだが、上司を通してきた依頼だけは断れなかった。どういう経緯で上司の元にきたのかは分からないが、上司もまた、断れなかったらしい。月と自由な行き来が難しくなり、研究費確保が難しくなっていたのだ。巨額の研究費をちらつかせられたら、断るに断れない。
「――そう難しくはないことだ。百田君、すまないが、頼む」
苦々しい表情で月を見上げ、上司は言った。その隣でやはり月を見上げ、楼希は黙って頷いた。
月世界政府の代表は、通称〈月の君〉。人前に姿を見せない。性別も年齢も名前すらも明らかにされていない。〈月の君〉に関する情報を、何でもいいから持ち帰れ、というのが楼希に密かに課された使命だった。
何故、自分なのか。上司には訊かなかった。既に噂になっているのを、楼希も知っていたからだ。
百田楼希だから許可された、という噂が、いつの間にかどこからか、立っていたのだ。学界の第一人者でもなく、実績と経験豊富な研究者でもなく、まだ駆け出しの研究者である楼希達に許可が下りたのだから、妬む声は気にしないようにしていてもいくらでも聞こえてきた。様々な噂も聞いた。月世界政府と特別なコネがあるとか月旅行に行った時に有力者と知り合ったのだという、まあふつうのものから、楼希の本当の両親――つまり提供者が、月世界政府の要人だったのだという、腹立たしいものまで。
プラチナ婚を迎えても元気な二人が、楼希の両親だ。提供者である男女のことは知ろうと思えば教えてもらえるが、興味はない。顔も名前も知らない、血の繋がりがあるだけの人間のことは、どうでもいい。
それなのに――。
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