「クロスロードの靴」 5

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「クロスロードの靴」 5

 七月末日、僕は塾の成績を持ち帰った。 「恭介、こんなだらしない成績で、お前は医者になれると思っているのか」  父から頭ごなしに叱られた。患者には優しい父なのに、僕にはいつも厳しい。ましてや精神科の病院長のくせにとまで思ってしまう。 「やる気がないのなら家を出て行け」  翌朝、父の言葉を真に受けて、僕は家を飛び出した。電車の中で、くそ、くそと不満を吐き出していた。景色など目に映っていなかった。  原宿駅を出たとき、道路の大きさ、ビルの高さ、人の多さに驚いた。街路樹だけど意外と緑が目につき、僕が想像していた都会とは違っていた。横断歩道を渡り、ぶらぶらと人の流れについて行く。顔はきょろきょろして街の新顔そのものだ。田舎っぽさが抜けきらない僕を見て、親切そうなお兄さんが笑顔で声をかけてきた。 「原宿が初めてならいいところを案内してやるぜ」  僕の腕を引き寄せるようにして誘う。なんの疑いもなく笑ってついていく。 「こっち、こっち」  お兄さんが僕の肩に腕を回した。並んで路地のような場所へ連れて行かれた。笑みを浮かべて歩いた。二人の笑顔が変貌したのは三人の男たちを見たときだ。僕が後退ろうとしたとき背中に壁ができていた。 「どこへ行く気だよ」  お兄さんの口からどすの利いた声を浴びせられ、背中を押された。前屈みの姿勢で数歩前へ進む。しまったと思い、顔を上げて正面を見た。 「一歩、二歩、発車」と叫んで、真ん中の男が近づいて来る。不良の四人が怖い顔をして僕を取り囲んだ。 「ぼく、お兄さんたちにお金を貸してくれない」  かつあげだ。僕はわずかな隙間から逃げようとした。腕を掴まれていきなり不良に殴られた。地べたに転んだ。痛い。怖い。動けない。殴られた頬を押さえてうずくまる。無防備に背中を見せていた。 「なんだ。ちゃんと持ってるじゃん」  ジーパンのポケットに入れていた財布を抜き取られようとした。 「おまわりさん」と助けを呼ぶ声も出せない。体が小刻みに震えて固まっていく。恐怖とはこんな感じだと初めて知った。  息を詰めるようなうめき声が聞こえた。背後に人の気配を感じた。怖々とうしろを確認すると、僕に声をかけたお兄さんが倒れ、苦悶の表情でお腹を押さえていた。 「はっはっはっ。正義の使者登場」  声が聞こえた方へ視線を向けると、高くて広い背中が見えた。勇敢で親切な後ろ姿の左右から強張った顔をした二人の顔が見える。「なんだお前」と左の男が突っ込んで来た。正義の使者が男の顎に右足をぶちあてる。男は仰け反って倒れた。「この野郎」と右の男も向かって来る。前に蹴り上げた足をひょいと引き、男の腹に横蹴りを突き出す。自らの勢いが衝撃となってお腹にあたる。男は海老のような姿でうしろへ下がり、うずくまった。すぐに右の肩が前に出たと思えば、正義の使者の背中で隠れていた真ん中の男が地べたに倒れた。僕を殴った男だ。僕は正義の使者に腕をつかまれ、「ほら、起きろ」と引き上げられた。安心したのも束の間、「逃げろ」と腕を引っ張られて、僕らは一目散に走り出した。どこをどう逃げたのかわからなかった。息が切れかかった頃、やっと歩いてくれた。僕は助けてもらったお礼を言った。正義の使者が自動販売機でジュースを買ってくれた。「ほらよ」とぶっきらぼうに投げ渡された。そのまま立ち去ろうとしたので僕は声をかけた。 「せめて名前だけでも」 「まるで時代劇みたいだな。りゅうだ。じゃあな」  りゅうさんが笑いながら(きびす)を返して歩き出した。僕はりゅうさんの背中について行く。追いかけながら事情を説明した。 「知らないよ、そんなこと」  りゅうさんが冷たく突き放す。それでも僕はくらいついた。 「家へ帰れ」、「ついてくるな」、「帰りの電車賃をやるから」と何度もりゅうさんに言われた。「中途半端に助けないでよ。帰る家や他にあてなどないから」と僕は情にすがろうとした。「そんなこと俺に言うなよ」と困った顔を僕に向けた。僕はもう泣きそうになっていた。りゅうさんが近寄って来た。ほっとした瞬間、「かつあげするぞ」と脅された。僕は怯まずに反論した。 「かつあげする人が、かつあげにあっている人を助けたりするわけがない」 「なるほど。そりゃそうだ」  りゅうさんがあっさり認めた。  結局、根負けをしたりゅうさんが一緒に連れて行ってくれた。  原宿から代々木八幡駅まで歩き、小田急線に乗り経堂駅で降りた。改札口を出ると、りゅうさんが立ち止まり、「みんなにどう説明するかな」と戸惑いのような不安げな声をもらした。りゅうさんが僕に目を向け、「お前を部屋まで連れて行くけど、みんながだめだと言えば、悪いけど出て行ってくれよな」と念押しをされた。僕は素直にうなずくしかなかった。でも断られると路頭に迷う。野宿は怖い。さっきのようなことが起きるかもしれない。それ以上に悪いことも。一抹の不安が過ぎる。駅を出てから二十分間、僕は一言も発することができなかった。  しばらくおいてくれるかな、追い出されるかな。花びら占いのように頭の中で繰り返していた。  りゅうさんが急に立ち止まり、僕はりゅうさんの背中に頭をぶつけた。 「痛いな。ちゃんと前を見て歩けよ」  りゅうさんが顔をしかめて言う。僕はしおらしく謝った。 「部屋はここの四階だから」  僕は上を眺め、階層を数えた。六階建てのマンションだ。みんなとは家族のことなのか。でも家族のことをみんなと表現するだろうか。学生に見えたりゅうさんがこんな立派なマンションに住んでいるとは、りゅうさんの家はお金持ちなのかもしれない。エレベーターの中で思考していたことはすべて外れていた。  部屋は想像していたより広かった。廊下に顔を向け、りゅうさんの歩調に合わせてついて行く。ダイニングキッチンに入った。視線を少しさげると、窓際に三人用のソファーが置かれていた。  ソファーに腰をかけていた男女二人が呆気にとられた顔をして僕を見つめた。僕は緊張から息を呑んだ。めいっぱいの気まずさが部屋中に充満していた。 「なに、その子。変ものまで拾ってこないでよ」 「いや、ちょっと事情があって」 「りゅう、またけんかしたの」 「いや、そうじゃなくて、そうなんだけど。あやね、秀介、違う。違うよ」 「なにをわけのわからないこと言ってるのよ」  不良グループに立ち向かった勇敢なりゅうさんがあたふたしながら小さくなった。  秀介さんがソファーから立ち上がり冷静な声で訊ねた。 「君、名前は」  戸田恭介と名乗り、僕がここへ来た経緯(けいい)を、りゅうさんから同意を得るように何度も顔を向けながらたどたどしく説明した。 「そうそう、そうなんだよ」  りゅうさんがその都度相槌を打ってくれた。厳しい面接官を目の前にして、ここを選んだ動機でも訊かれているように居心地が悪い。 「事情はわかったけど、家に帰すべきだな。冷たいようだけど、好き好んで関わる問題じゃないと思う。世間には偏見を持った人間が多い。それに親から訴えられたりすれば、最悪の場合は未成年誘拐になる。それこそ世間の餌食(えじき)だ。だから僕は反対だ」 「そういうこと」 「そんな冷たいことを言うなよ。俺たちみたいに家出だからよ」 「あたしたちは家出じゃない」 「ごめん。ごめん。でもな、人助けだと思って、なあ、頼むよ」  りゅうさんが腕力に物を言わさず、人に頭をさげて頼む行為は今までになかったらしい。秀介さんが溜息をついて、あやねさんと目を合わせる。二人がこくりとうなずいた。 「りゅう、ちょっとこっちへ来いよ」  秀介さんがりゅうさんを玄関まで連れて行く。小声でしゃべっていたけれど、僕には聞こえていた。 「二人には俺から説明するよ」 「二人って、それは無理だろ。わかった。僕が説明する」  僕の居候は了承を得ることになった。玄関先で話す二人の会話が気になった。他にも同居人がいると思った。実際いたけれど、僕が想像していたのとは違った。  次に、僕の寝る場所で、それぞれが主張した。 「りゅうが責任を持つべきだ」  あやねさんと秀介さんがりゅうさんを責める。 「としやがびっくりするから」  りゅうさんが苦しい言い訳をして引かない。 「あたしは女だから」  あやねさんが最後に言い放って、自分の部屋へ姿を消した。 「僕の部屋が一番狭いから」  秀介さんは不満を残して部屋へ隠れた。  りゅうさんがソファーに座り、うなだれた。ソファーに両手をつき、背もたれに体をあずけた。 「そうか、恭介、お前はここで寝ろ」  うれしそうにソファーを何度も叩いた。  夜遅く、りゅうさんが僕の父に連絡をしてくれた。しばらく話をしていた。りゅうさんにしては言葉を選んで丁寧に話をしている。電話に向かって頭もさげている。りゅうさんが受話器を置いた。 「礼儀知らずな息子ですが、どうかよろしくお願いしますって、丁寧(ていねい)に頼まれたよ」  父が最後にお礼を言って、お願いをしたという。違和感を覚えた。 「いいおやじさんじゃないか」  りゅうさんがにっこり笑う。 「電話までしてもらって、ありがとうございました」  翌日、りゅうさんからみんなのことを聞かされた。最初は驚いたけど、ちゃんと受け止めることができた。  僕の目覚めはいつも二番手だ。誰かが起きてくると飛び起きる。眠くても居候の身は辛い。みんなを他所にずっと寝ているほど僕の神経はずうずうしくできていない。  朝食は主にかおりさんが作っている。みんなは規則正しく食事を取れていた。  毎日筋トレをするりゅうさんにつきあわされるのは疲れた。腹筋、背筋、腕立て伏せを百回、スクワットを二百回だ。両足を広げ柔軟体操も忘れない。りゅうさんの気分が乗ればランニングも加わる。 「どうした現役。体育の授業で体を動かしてんだろ」  と発破をかけられても、運動が苦手な生徒もいる。数日は、足、腰、腕、腹、とそこら中の筋肉が痛かった。ひとつ気になることがある。エレベーターで他の住人と一緒になったとき、こちらからあいさつをしたけれど、白い目で見られているような気がした。
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