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「クロスロードの靴」 54
僕は家に着いてから、ルール通りに電話をかけていた。五回目の途中でりゅうさんが電話に出た。ちょっとびっくりしてすぐに声が出なかった。
「もう今までみたいに電話をかける必要がなくなったから」
事件の状況が頭の中で再生された。今思い出しても体が凍りついてくるようだ。秀介さんはまだ眠っているらしい。あやねさんはお父さんと病院に残った。りゅうさんは着替えとか必要なものを取りに戻ったところだと話してくれた。
「今回はまいったよ」
りゅうさんは気落ちしていた。なにを言えばいいのかわからない。
「俺が油断さえしなければ、あんなことにはならなかったのに」
事件をあとから考えれば、時間をかけ、冷静になれた分、後悔することはいくらでも浮かんでくる。あのときは他に術がなかったと簡単に割り切れないものだ。僕は安堵できる話に変えた。
「秀介さんの命が助かってよかったですね」
「そうだな。恭介、がんばれよ。来年、俺たちと一緒に住もう」
「はい。来年を楽しみにしてがんばります」
「悪いけど、これからまた病院へ戻るよ」
電話を切って、来年と希望を胸にした。しかし、りゅうさんと約束した来年の再会は、守られることはなかった。
翌日、秀介さんのお父さんは仕事を休めない事情があり帰ることになった。
「息子のことをよろしくお願いします」
お父さんが深々と頭をさげた。
「いえ、こちらこそご迷惑をおかけしました」
あやねさんも頭をさげた。
お父さんと入れ替わりにりゅうさんが戻って来た。紙袋に入れた荷物をあやねさんに手渡した。
「秀介はどう」
「さっき目を覚ましたけど、また寝ちゃった」
「そうか。あやね、なにか食べたか。まだか。じゃあ売店へ行ってなにか買ってくる」
「ありがと」
りゅうさんが出て行くと、あやねさんは秀介さんの手を握った。
二時間後に秀介さんが目を覚ました。
「秀介、大丈夫か」
「ああ、でもまだ傷口が痛い」
「当たり前だ。手術までしたのに。あんな無茶は二度とするなよ。お前は俺たちに気を遣いすぎだから、もう無理はしないでくれ」
「違うよ。そんなことじゃない」
「違わないよ。もっと自分を大事にしろ」
「りゅう、違うよ。僕は自分のためにしたことだ」
「どういう意味だよ」
「僕には、虐待する側の血と虐待される側の血が入り交じっている。二つの血が流れている。だから怖いのさ。自分が怖い。誰かのためになることをしていないと、自分が壊れそうで怖くてしょうがないんだ。だから体を張って初めて大事な人を守れたこと、自分では満足している」
「なんだよそれ。俺たちを大事な人だと言ってくれるのはうれしいけど、それで自分の命を粗末にするなんて理解できないよ」
「人のためになることをしたいだけさ」
「だめ。もうしないで。ほんとに怖かったのよ。秀介が死んじゃうかもしれないと思ったら、怖くて怖くて、でもどうすることもできなくて、心配で心配で」
「あやね、わかったから。もう無茶はしないよ。だからもう泣くなよ」
「ほんとよ」
秀介さんがうなずいてまた眠りに入った。
数日後、りゅうさんが病院から帰ると、電話が鳴っていた。急いで電話を受けたが切れていた。あやねからかな。なにかあればまた連絡がくるだろう。秀介さんの服を洗濯機に投げ込んでスイッチを押した。体が疲れていた。お風呂場に入って蛇口をひねった。また電話が鳴り響いた。秀介の容体が悪化したのか。体中の筋肉がぴくぴくと反応した。りゅうさんは焦って電話に出た。
「お前なにをやっていた。こんな大事なときに」
伯父がすごい剣幕で怒鳴った。りゅうさんが受話器を遠ざけた。
「なにって友達がけがをしたからお見舞いに」
「けが、それどころじゃない。じいさんが亡くなった」
目の前が真っ暗になった。全身にしびれが走る。頭の中がまっ白になった。
「おい、聞いているのか。返事くらいしろ」
「あっ、はい」
「とにかく今すぐこっちへ来い」
りゅうさんは貯金箱からお金を掴んで家を飛び出した。お風呂にお湯をためていたのを思い出して部屋へ戻った。蛇口をひねってすぐに家を出た。靴下が濡れていた。履き替えている余裕などない。電車に駆け込んで座席に腰を下ろした。貧乏揺すりが激しく騒いだ。
「お釣りはいらない」と言い捨ててタクシーを降りた。
霊安室に入ると、じいちゃんの顔に白い布がかぶせられていた。りゅうさんは息を止めて、ゆっくりと近づいた。
じいちゃんに呼びかけても返事などしてくれるはずがない。
「なにをやっていた」
いきなり伯父さんに叱られた。
りゅうさんの耳には届いていなかった。
「じいちゃん。じいちゃん」
りゅうさんはおじいさんの亡骸にすがりついて揺すっていた。
「おい、なにをやっている。やめないか」
伯父さんに抱え込まれて止められた。
「お前はなにを考えている」
おじいさんから引き離された。
「じゃまだ。廊下へ出ろ」
霊安室から押し出された。りゅうさんは入り口からおじいさんを見ていた。
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