「クロスロードの靴」 57

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「クロスロードの靴」 57

 初七日を終え、りゅうさんは貴重品だけを持って帰宅した。部屋にはあやねさんが帰っていた。あやねさんの顔色が悪かった。なんとなく頬がほっそりしている。 「あやね、大丈夫か。顔色が悪いぞ」 「大丈夫。あまり寝ていないからかもしれない。病院の先生から睡眠導入剤を処方してもらったけど、なんだか飲む気がしなくてがまんしてる」 「ちょっと休めよ。病院へは俺が行くから。じいちゃんのことも伝えたいし」 「ありがと。じゃあ甘えて休ませてもらおうかな。ひとりになりたいから」 「なにかあったのか」 「ちょっとね」 「ちょっとねって、なにがあった。ちゃんと話せよ」  あやねさんとかおりさんは交代しながら秀介さんの看病をしていた。先日のこと、あやねさんが病室に戻ると、秀介さんが目覚めた。秀介さんがかおりさんと勘違いをして、かおりさんの夢について話し出した。あやねさんはかおりさんのふりをして聞いていた。 「僕はかおりの詩が好きだ。だから夢に向かってがんばってよ」  あやねさんには詩が抜けて聞こえたような気がした。 「えっ、そうなの。でも、あたし、いえ、私の夢など実現するかどうか」 「いつか詩集を出したいって言ってたろ。大丈夫。かおりならできるさ。それには自分を見失わず、夢を見続ける強い思いと意志を持つことが大事なのさ。焦らず、惑わず、疑わず、あきらめないこと。自分を信じること。そうすれば儚くとも清楚(せいそ)に夢が輝き続ける。夢が夢のままで終わらないように、今できることをがんばっていれば、必ず夢は叶うさ。だからさ、また書いてよ。いつまでも楽しみにして待っているからさ」  いきいきした顔でかおりをはげましている。こんな顔もするのか。あたしには見せたことがない顔だ。あやねさんはふりを忘れてつい自分を出してしまった。 「自分には才能がないし、今度は才能がある人に生まれ変わりたいな」 「なにを言ってるのさ。人間は生まれ変わっても、次は今の続きから始まると僕は思っている。ほら、テレビ番組で子供が天才的な素質で特技を披露している特集があるじゃないか。あの子供たちは、前世できっとその職業に携わっていたはずさ。前世の続きを歩いているからだよ。でなければ説明がつかない。だからかおりも、今の人生だけを考えるなよ。今が来世の下積みならば、いくつになっても夢を追うことに、遅すぎることはないはずだ。たとえ晩年であったとしても同じだよ。だから現世で一歩でも進んでいれば、来世はまっすぐ詩人や作家の道へ進めるだろ」 「でも、今まで人に認められたことがないし、大した評価もしてもらったこともないから、無理だよ」 「非難する周りの人間の言うことなんてどうでもいいじゃないか。どうせ普段からまともに関わり合っているわけじゃない人間だろ。気分次第で勝手に人の人生に入り込んできて、無責任に批判しているだけだから。そんなの無視してほっとけばいいのさ。人の夢を笑うやつは自分の夢がないからだよ。第三者に自分の夢をけなされても、自分で自分の夢を悪く言ってはいけないよ」 「ありがと」とは言ったものの、かおりの夢をはげます秀介を見ていると、自分だけが無視をされた存在に思え、自己疎外者になっていく気分をあやねさんは味わっていた。 「秀介のそばにいることが辛くなってきた。秀介はあたしを(あわ)れんでいる。(さげす)んでいる。見下している。あたしを同じ位置で見ていない。かおりには愛情であって、あたしには憐憫(れんびん)の情、同情なのよ。秀介はあたしを愛していない。それにあたしはりゅうと寝てしまった。顔には出さないけれど、秀介はきっと蟠りを持っている。きっとあたしを許さない。あたしを好きになどならない。どんなに考えても暗闇の淵に追い込まれることしか思い浮かばない。がまんしていたけど、病室でいることが苦しくなって、着替えを取りに帰るからと理由をつけて帰って来た」 「あのばか。また間違えやがって。どうせ寝ぼけて、思い違いをしたまましゃべり続けてしまっただけさ。秀介は人の夢をはげましたかっただけだから。お父さんもそう言ってたじゃないか。だからあやねを批判したわけじゃない。あやねには感謝をしてるさ」 「ありがと。でもね、こればっかりは受け取る側の気持ちだから。あたしは悪いように考えてしまう。りゅう、はげましてくれてありがと。じゃあこれ、着替えを持っていって。あたし、ちょっとひとりになりたいから」 「そうか、ゆっくり休めよ。俺が代わりに行ってくるから」 「ありがと。ゆっくり行ってきて」  あやねさんが部屋へ入っていく。りゅうさんは支度を終えた。 「じゃあこれから行ってくるわ」  りゅうさんが声をかけても、あやねさんの返事はなかった。とても疲れているのだろうと思って、りゅうさんは病院へ出かけた。  病室へ入り、秀介にじいちゃんのことを伝えた。秀介の顔色はいいと見定めてから、りゅうさんがあやねさんの話を切り出した。 「お前も、もっとあやねを労れよ」  秀介さんがきょとんとした顔をした。 「ほら、気づいてない。お前、かおりだと思って夢の話をあやねにしただろ。ちょっとは考えてしゃべれよ。あやね、傷ついてたぞ。かおりばかり気にかけるな」 「そんなつもりはない。僕の周りには、りゅうも、としやも、かおりも、あやねも、みんながいる。自分の思いだけで生きたなら、僕たちの関係は崩れてしまう。だから偏った接し方はしていないつもりだよ」 「気をつけてるつもりでも、無意識に出てるかもしれないだろ」 「悪かった。でもほんとにそういうつもりじゃなかった。ただはげましたかっただけで。ごめん」 「俺はわかってるけど、あやねはああ見えても傷つきやすいからよ。今日だってひとりにしてくれって言ったり、ゆっくり行ってきてとか言って部屋に閉じこもったし。部屋を出るときに声をかけても返事もしなかった」 「りゅう、今、なんて言った」 「だから、ひとりに」 「まずい」  秀介さんが起き上がろうとした。背中に痛みが走り、息が詰まる。 「りゅう、あやねを見てきてくれ」  まさか。あやね、しないよな。そんなことしないよな。よからぬ想像がりゅうさんの頭を過ぎった。 「行ってくるわ」と声がしてもまだ部屋にいるかもしれない。あやねさんはりゅうさんが病院へ出かけて行ったのを、ドアの音で確かめてから部屋を出た。浴槽にお湯をためた。少ないけれど病院でもらった睡眠導入剤を全部飲んだ。台所から包丁を取り出し、お風呂に入った。  あたしにできることは、詩ではなく、死だけかもしれない。  湯槽から左腕を出し、包丁をあてて、右手を一気に引いた。真っ赤な血が流れ出した。左腕を再び湯槽につけ、包丁を手放した。 「ごめん。みんなごめん」  あやねさんがつぶやいて目を閉じた。
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