「クロスロードの靴」 58

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「クロスロードの靴」 58

 りゅうさんが玄関を開けてあやねさんを呼んだ。返事がしない。ノックもせず部屋のドアを開けた。あやねさんはいなかった。自分の部屋、秀介さんの部屋も確認した。いない。ベランダも確認した。いない。買い物にでも出かけたのだろうか。取越し苦労ならいいけれど。玄関に並べられている靴が目に入った。玄関へ向かう。あやねの靴がある。トイレをノックして開けた。いない。あとは、お風呂か。嫌な予感が走った。 「あやね、いるか。あやね」  りゅうさんがおそるおそる声をかけた。返事がしない。ドアを開けた。湯槽が薄い赤色に染まりかけていた。 「ばっかやろう。なにをやってるんだあやね」  湯槽からあやねさんを抱き上げ、タオルで腕の付け根をきつく縛った。傷口もタオルで巻いた。急いで救急車を呼んだ。部屋へ入り、あやねさんの体を毛布で包んだ。救急車が来るまであやねさんに声をかけた。返事がしない。目が覚めない。りゅうさんは焦りと動揺を感じていた。 「あやね、しっかりしろ。あやね、おい、起きろよ。あやね、死ぬな」  りゅうさんはあやねさんの上半身を抱きかかえた。 「あああああああっ」  りゅうさんは天井を仰いで叫んだ。  叫び声に驚いた近所の住人も玄関の前に集まっていた。  救急救命士の人が担架を運んで入って来た。「そこをどいて」と言われて、りゅうさんは抱きかかえていた腕を離した。  あやねさんはかろうじて命を取り留めた。手遅れにならなくてよかったとりゅうさんは安堵した。あやねさんが目覚めるまで付き添った。手首に巻いた包帯が痛々しい。見ていると涙がこぼれた。 「俺じゃあ、だめなんだ」  絶望が手招きしていた。光のない孤独の底へ突き落とされていった。 「うっうううん」  かおりさんが目覚めた。りゅうさんが悲しげに笑って声をかけた。 「大丈夫か、かおり」 「ここはどこですか」 「あやねが自殺しようとしたのさ」 「どうして」 「あやねもいろいろあったのさ」 「そう」  訊ねて、答えて、納得した。本当はかおりも原因を知っているような気がした。 「大丈夫か」とりゅうさんがもう一度訊ねた。かおりさんがうなずいた。りゅうさんが腰をあげた。 「俺、着替えを取ってくるわ」 「なんだか恥ずかしいな」 「知らない仲じゃないし」  りゅうさんが気を許して言ってはいけないことを口にした。 「えっ」かおりさんが聞き返そうとした。 「いやいや、部屋のことだよ。部屋のこと」  りゅうさんはどうにか言い逃れをした。 「すぐに戻るから」と言い残して、そそくさと病室を出た。  病院へ着替えを届けて、また部屋へ戻って来た。何度往復していることやら。しばらく秀介のところへは顔を出せないな。 「どうせなら同じ病院にしてくれよ」  りゅうさんはめんどくさそうに独り言をもらした。エレベーターの前で待っていると、住人たちが噂話をしていた。こそこそしゃべっているけれど、内容が聞こえてきた。 「あの部屋、前の住人も自殺未遂をしたのよ」 「なにかあるのよ。きっと」 「同じ間取りで安いって、やっぱりおかしいわよね、あの部屋」  家賃が安い理由が今になってわかった。いまさらどうしょうもないだろ。りゅうさんが溜息をもらした。  りゅうさんから連絡があった。りゅうさんは精神的にまいっていた。いろいろ話をしてくれた。身近な人だからこそ話せないこともある。第三者だからこそ話せることがある。僕は彼らとちょうどいい距離感に存在しているのだろう。聞くだけしかできなかったけど、りゅうさんの気が晴れたようだ。  恭介との電話を切ったあと、すぐに電話が鳴った。第一声は怒鳴り声が聞こえた。りゅうさんが受話器を離す。 「お前、早く葬儀代の支払いを済ませろよ。何度もこっちに支払いの催促が来ているぞ。こんなことで迷惑をかければ、地元に住みにくくなるだろ。まったく迷惑ばかりかけやがって。これじゃあ、じいさんも浮かばれないな。じいさんに心配ばかりかけて。お前のせいで、じいさんは心労で死んだも同然だろ。いいな。すぐに支払いを済ませろよ」  返事をする間もなく、文句だけを言い並べて、一方的に電話を切られた。返しようのない怒りが込み上げてくる。責める言葉がりゅうさんに押し寄せてきた。  俺のせいでじいちゃんが死んだ。俺がじいちゃんを殺したようなものなのか。秀介は俺の身代わりで刺されたのか。あやねも俺の力不足で自殺未遂をしたのか。そうだ。全部、俺のせいじゃないか。なにもかも俺が原因じゃないか。誰か、誰か、そうじゃないと否定してくれよ。  すべての言葉が自分を攻撃してくる。「お前のせいだ」と誰もが非難をしているように聞こえてくる。くらくらと目眩がした。りゅうさんの視界が暗くなった。  僕が悪い。僕が悪い。何度も繰り返し自分を責めた。ベランダに向かって走っていた。  誰だ。誰が出ている。あきとか。まずい。気づいたときにはベランダの柵に足をかけてよじ登り、飛び降りた。 「りゅう」じいちゃんの呼ぶ声がりゅうさんに聞こえた。
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