26人が本棚に入れています
本棚に追加
「クロスロードの靴」 59
連鎖の自殺未遂になった。近所中の人が集まり、りゅうさんを取り囲んで、大騒ぎをしていた。野次馬も増えてきた。無責任な噂話が聞こえてくる。
「二人も自殺未遂をするなんて、あの部屋、きっとなにかあるのよ」
「それよりも管理人さんに言って、あの人たちに出て行ってもらうべきよ」
りゅうさんは救急車で搬送された。左足に痛みが走った。骨折しているかもしれない。命は助かったのか。りゅうさんはあやねさんと同じ病院に入院した。
翌日、あやねさんがりゅうさんの病室に顔を出した。
「あやね、元気か」、「うん。なんとかね」、「浮かない顔して、どうしたよ」、「う、うん」、「うん、じゃあわからないだろ。はっきり言えよ」としばらく要領を得ない会話が続いた。
「かおりに、私まで一緒に死なせないでって、怒られた」
「なるほど。そりゃそうだな。そういうことは二人で相談をして決めないとな」
「もうしませんよ。それより、あんたまで、ばっかじゃない。ほんとなにをやっているのよ。あたし、今日で退院だからね」
「いや、自殺しようとしたのは俺じゃない。あきとだよあきと」
「誰それ」
「もうひとりいるのさ。自虐的なやつがな」
「ほんとにあんたじゃないのね」
「ああ、俺はすぐに入れ替わって、木の枝に手を引っかけてダメージを軽減した。あのまま、まともに落ちてれば、だめだったかもな」
「だから骨折程度で済んだって言うこと」
りゅうさんが強くうなずいた。
「それでも心配したのよ」
あやねさんがマジックペンを手にした。りゅうさんの足を固定した石膏ギプスに、「おおばかものです!」と悪戯書きをした。
秀介さんがやっと退院することができた。あやねさんのことがあってから誰も来なくなった。入院費の支払いはお父さんがしてくれた。「部屋まで送ろうか」と気遣ってくれたが、「自分で帰れるから大丈夫」と断って病院を出た。
秀介さんが部屋の鍵を差し込もうとしたとき、管理人さんに呼び止められた。自殺未遂の件で大騒ぎになり、大変迷惑をしていると苦情を言われた。
「もうここから出て行ってください。長くなっても三月中にはお願いしますね」
「申し訳ありません」
秀介さんが病室の前で立っていた。あやねさんのネームプレートが取り外されていた。ナースステーションへ行って訊ねた。
「先日、退院されました」
あやねはどこへ行ったのだろう。秀介さんの困った顔を見て、看護士さんが親切に教えてくれた。
「今、お知り合いの病室にいますよ」
秀介さんはりゅうさんの病室へ向かった。二人が病室にいた。
「おう、秀介、もう退院したのか」
「もうじゃないよ。みんな、どういうつもりだよ。部屋に戻れば管理人さんに叱られたよ。話を聞いてびっくりした」
「ごめんなさい」
りゅうさんとあやねさんが謝った。秀介さんが管理人さんの要求を伝えた。二人がもう一度謝った。
「そんなに気にするなよ。責めているわけじゃないから。とりあえずは部屋探しをしなければな。またいいアルバイトでも探してがんばるからさ」
秀介さんだけが気分を切り替えていた。何事にもめげない前向きな人だ。あやねさんとりゅうさんが困ったような顔つきをしていた。
二月になって、りゅうさんが秀介さんに伝えた。
「じいちゃんの家を整理したいから、しばらく留守にするぞ」
「大学は」と秀介さんが訊けば、「もういいから」とりゅうさんがすっきりした返事をする。「中退するのか」とストレートに聞き直せば、「そうだ」と断言した。短い受け答えが繰り返されて、りゅうさんが固い意思を伝えた。
「俺、じいちゃんのそばにいてやりたいから。死に目に会えなかったしさ。本音としては後悔をしてる」
「ここの部屋はどうするつもりだよ」
「それはまたあとで考えるよ。とりあえず一週間だけ行ってくるから。秀介、そんな顔をするなよ。すぐ戻るからさ。嘘はつかないよ。それに俺の居場所は割れているだろ。松葉杖をつきながら、どこへも逃げようがないよ。そう心配するなって」
秀介さんをどうにか納得させようと、りゅうさんがいくつか理由を並べた。秀介さんが助け船を求めてあやねさんの顔を見た。
「りゅうの思い通りにさせてあげないとかわいそうじゃない。家の整理とか、相続のこととか、いろいろあるみたいだし。りゅうの人生だからさ。それにりゅうは一週間で帰るって言ってるじゃない。だから今はりゅうの好きなようにさせてあげようよ」
求めた助け船は泥船と化して、いとも簡単に沈没した。最後には秀介さんも納得した。秀介さんは妙な胸騒ぎを覚えていた。
三日経ってもりゅうさんからは連絡がなかった。秀介さんの不安は日に日に大きくなっていた。どうして気になってしまうのか、根拠はわからなかった。
夕食時に、かおりさんが食卓にワインを出した。
「どうしたのこれ」
「私たちもう大人だから、たまにはいいかなと思って。秀介さんも飲めるとりゅうさんから聞いたことがあったので」
「少しならいけるかな」
「じゃあ食前酒として飲みましょうよ。人間たまには羽目を外すことも大事でしょ。息抜き」
秀介さんはとまどいながらグラスを前に出した。二人で乾杯をして微笑んだ。久しぶりに楽しい夕食時間を過ごした。かおりさんが食器の後片付けを済ませ、お風呂に入った。かおりさんが浴室から出てくると、秀介さんにお風呂を勧めた。秀介さんがお風呂を出ると部屋の明かりが消されていた。秀介さんに不安が過ぎった。
「かおり、大丈夫か」
「大丈夫。ここにいるから」
秀介さんの部屋から声がした。ドアが開いていた。秀介さんがドアの前に立って目を細めた。部屋の中へ足を踏み入れた。
「かおり、どうして明かりを消して」
かおりさんがバスタオルを巻いた姿でベッドの横に立っていた。秀介さんが視線を横へ外した。かおりさんが近づいていく。
「どうしたの。かおり」
「秀介さんは私のことが好きですか。私は秀介さんが好きです」
「好きだけど」
「最初で最後でもいいから私を抱いてください。私のことが好きなら抱いてください。大事な想い出として残したいの。お願い」
かおりさんに抱きつかれてどきどきしていた。今にも胸が張り裂けそうになっていた。柔らかい肌の感触が伝わってきた。かおりさんの香りが鼻腔をくすぐる。かおりさんを抱きしめていた。かおりさんをベッドへ運び、上から重なった。「いいのか」と最後に訊いた。かおりさんが静かにうなずいた。「ずっと好きだった」秀介さんがキスをした。理性の壁が一気に崩れていく。解放された心を止めることなどできなかった。長年の思いがはじけた。かおりさんはずっと目を閉じていた。ときおりもれてくる甘い吐息が、苦痛でもなく、がまんしているのでもないと、秀介さんに伝わっていた。
朝になって目が覚めると、人の気配を感じなかった。
「かおり」と声をかけても返事がない。かおりさんの部屋を開けて確かめた。ドアのノブを持ったまま体が崩れ落ちた。部屋には、ベッドと机と本棚しか残っていない。他の荷物はすべて消えていた。愕然として動けなかった。視線を巡らすと白い紙が浮き上がって見えた。もう一度机の上を確かめた。便箋に書いた手紙が残されている。秀介さんは手紙を手にしてゆっくり読み始めた。
最初のコメントを投稿しよう!