「クロスロードの靴」 59

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「クロスロードの靴」 59

 連鎖の自殺未遂になった。近所中の人が集まり、りゅうさんを取り囲んで、大騒ぎをしていた。野次馬も増えてきた。無責任な噂話が聞こえてくる。 「二人も自殺未遂をするなんて、あの部屋、きっとなにかあるのよ」 「それよりも管理人さんに言って、あの人たちに出て行ってもらうべきよ」  りゅうさんは救急車で搬送された。左足に痛みが走った。骨折しているかもしれない。命は助かったのか。りゅうさんはあやねさんと同じ病院に入院した。  翌日、あやねさんがりゅうさんの病室に顔を出した。 「あやね、元気か」、「うん。なんとかね」、「浮かない顔して、どうしたよ」、「う、うん」、「うん、じゃあわからないだろ。はっきり言えよ」としばらく要領を得ない会話が続いた。 「かおりに、私まで一緒に死なせないでって、怒られた」 「なるほど。そりゃそうだな。そういうことは二人で相談をして決めないとな」 「もうしませんよ。それより、あんたまで、ばっかじゃない。ほんとなにをやっているのよ。あたし、今日で退院だからね」 「いや、自殺しようとしたのは俺じゃない。あきとだよあきと」 「誰それ」 「もうひとりいるのさ。自虐的なやつがな」 「ほんとにあんたじゃないのね」 「ああ、俺はすぐに入れ替わって、木の枝に手を引っかけてダメージを軽減した。あのまま、まともに落ちてれば、だめだったかもな」 「だから骨折程度で済んだって言うこと」  りゅうさんが強くうなずいた。 「それでも心配したのよ」  あやねさんがマジックペンを手にした。りゅうさんの足を固定した石膏ギプスに、「おおばかものです!」と悪戯書きをした。  秀介さんがやっと退院することができた。あやねさんのことがあってから誰も来なくなった。入院費の支払いはお父さんがしてくれた。「部屋まで送ろうか」と気遣ってくれたが、「自分で帰れるから大丈夫」と断って病院を出た。  秀介さんが部屋の鍵を差し込もうとしたとき、管理人さんに呼び止められた。自殺未遂の件で大騒ぎになり、大変迷惑をしていると苦情を言われた。 「もうここから出て行ってください。長くなっても三月中にはお願いしますね」 「申し訳ありません」  秀介さんが病室の前で立っていた。あやねさんのネームプレートが取り外されていた。ナースステーションへ行って訊ねた。 「先日、退院されました」  あやねはどこへ行ったのだろう。秀介さんの困った顔を見て、看護士さんが親切に教えてくれた。 「今、お知り合いの病室にいますよ」  秀介さんはりゅうさんの病室へ向かった。二人が病室にいた。 「おう、秀介、もう退院したのか」 「もうじゃないよ。みんな、どういうつもりだよ。部屋に戻れば管理人さんに叱られたよ。話を聞いてびっくりした」 「ごめんなさい」  りゅうさんとあやねさんが謝った。秀介さんが管理人さんの要求を伝えた。二人がもう一度謝った。 「そんなに気にするなよ。責めているわけじゃないから。とりあえずは部屋探しをしなければな。またいいアルバイトでも探してがんばるからさ」  秀介さんだけが気分を切り替えていた。何事にもめげない前向きな人だ。あやねさんとりゅうさんが困ったような顔つきをしていた。  二月になって、りゅうさんが秀介さんに伝えた。 「じいちゃんの家を整理したいから、しばらく留守にするぞ」 「大学は」と秀介さんが訊けば、「もういいから」とりゅうさんがすっきりした返事をする。「中退するのか」とストレートに聞き直せば、「そうだ」と断言した。短い受け答えが繰り返されて、りゅうさんが固い意思を伝えた。 「俺、じいちゃんのそばにいてやりたいから。死に目に会えなかったしさ。本音としては後悔をしてる」 「ここの部屋はどうするつもりだよ」 「それはまたあとで考えるよ。とりあえず一週間だけ行ってくるから。秀介、そんな顔をするなよ。すぐ戻るからさ。嘘はつかないよ。それに俺の居場所は割れているだろ。松葉杖をつきながら、どこへも逃げようがないよ。そう心配するなって」  秀介さんをどうにか納得させようと、りゅうさんがいくつか理由を並べた。秀介さんが助け船を求めてあやねさんの顔を見た。 「りゅうの思い通りにさせてあげないとかわいそうじゃない。家の整理とか、相続のこととか、いろいろあるみたいだし。りゅうの人生だからさ。それにりゅうは一週間で帰るって言ってるじゃない。だから今はりゅうの好きなようにさせてあげようよ」  求めた助け船は泥船と化して、いとも簡単に沈没した。最後には秀介さんも納得した。秀介さんは妙な胸騒ぎを覚えていた。  三日経ってもりゅうさんからは連絡がなかった。秀介さんの不安は日に日に大きくなっていた。どうして気になってしまうのか、根拠はわからなかった。  夕食時に、かおりさんが食卓にワインを出した。 「どうしたのこれ」 「私たちもう大人だから、たまにはいいかなと思って。秀介さんも飲めるとりゅうさんから聞いたことがあったので」 「少しならいけるかな」 「じゃあ食前酒として飲みましょうよ。人間たまには羽目を外すことも大事でしょ。息抜き」  秀介さんはとまどいながらグラスを前に出した。二人で乾杯をして微笑んだ。久しぶりに楽しい夕食時間を過ごした。かおりさんが食器の後片付けを済ませ、お風呂に入った。かおりさんが浴室から出てくると、秀介さんにお風呂を勧めた。秀介さんがお風呂を出ると部屋の明かりが消されていた。秀介さんに不安が過ぎった。 「かおり、大丈夫か」 「大丈夫。ここにいるから」  秀介さんの部屋から声がした。ドアが開いていた。秀介さんがドアの前に立って目を細めた。部屋の中へ足を踏み入れた。 「かおり、どうして明かりを消して」  かおりさんがバスタオルを巻いた姿でベッドの横に立っていた。秀介さんが視線を横へ外した。かおりさんが近づいていく。 「どうしたの。かおり」 「秀介さんは私のことが好きですか。私は秀介さんが好きです」 「好きだけど」 「最初で最後でもいいから私を抱いてください。私のことが好きなら抱いてください。大事な想い出として残したいの。お願い」  かおりさんに抱きつかれてどきどきしていた。今にも胸が張り裂けそうになっていた。柔らかい肌の感触が伝わってきた。かおりさんの香りが鼻腔(びくう)をくすぐる。かおりさんを抱きしめていた。かおりさんをベッドへ運び、上から重なった。「いいのか」と最後に訊いた。かおりさんが静かにうなずいた。「ずっと好きだった」秀介さんがキスをした。理性の壁が一気に崩れていく。解放された心を止めることなどできなかった。長年の思いがはじけた。かおりさんはずっと目を閉じていた。ときおりもれてくる甘い吐息が、苦痛でもなく、がまんしているのでもないと、秀介さんに伝わっていた。  朝になって目が覚めると、人の気配を感じなかった。 「かおり」と声をかけても返事がない。かおりさんの部屋を開けて確かめた。ドアのノブを持ったまま体が崩れ落ちた。部屋には、ベッドと机と本棚しか残っていない。他の荷物はすべて消えていた。愕然として動けなかった。視線を巡らすと白い紙が浮き上がって見えた。もう一度机の上を確かめた。便箋(びんせん)に書いた手紙が残されている。秀介さんは手紙を手にしてゆっくり読み始めた。
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