「クロスロードの靴」 63

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「クロスロードの靴」 63

 りゅうさんがふうと息を吐いて話を再開した。 「ちょうどあのとき、じいちゃんが亡くなって、じいちゃんが家と財産を俺に残してくれた。細々と暮らせば十年はどうにか暮らしていける。俺もその方が助かった。大好きなじいちゃんの死をまだ受け止められてなかったからな。俺も支えてもらえる。それに秀介がひとりなら、アルバイトを減らして大学にも行ける。今よりは楽な状態で暮らすことができると考えた。秀介がいないときを見計らって、あいつらの荷物をじいちゃんの家へ運んだ。秀介は無断で俺たちの部屋に入らない。ドアを開けてなければ、ばれることはない。決行日はかおりとあやねが決めた。女はああいうときでも計算してるのかなあ。今はいいや。そのことは横に置いといてと。かおりとあやねが部屋を出る準備を整えて、じいちゃんの家に隠れた。俺を頼って、秀介には頼れない。矛盾してるかもしれないけどな。人には好きだからこそ甘えられないっていう気持ちがある。好きな人から自立してがんばらなきゃって思う気持ちもある。『りゅうさんなら一定の距離を保って頼れるから』とかおりから言われたよ。無下に秀介を突き放したようで悪かったけど、あのときはそうしないとみんながだめになってしまうと思った」  りゅうさんがまた話を区切った。 「ちょっとトイレに行く」  りゅうさんが腰を上げた。しばらくして手を拭きながら戻って来た。 「そうそう話は変わるけど、かおり、女の子を出産したぞ。かわいいぞ。俺が出産に立ちあったけど、女ってすごいよ。人間ってすごい。神秘だな」  りゅうさんの感動がそのまま伝わってきた。驚いた。すごい展開だ。訊いてはいけないと思いつつも、父親のことを訊かずにはいられなかった。 「実は、俺はあやねと寝たことがある」  またまたびっくり仰天の話だ。焦ってお酒を零してしまった。 「おいおい、恭介、もう酔ったのかよ」  りゅうさんが布巾を手にしてテーブルを拭いた。 「じゃあ父親はりゅうさんですか」 「俺にはわからないよ」 「どうしてですか」 「秀介もかおりと寝たから」  反っくり返るほど驚いた。 「そんなことがあったんですか」 「まあな。そういうことだけど、俺は、秀介と寝たのは、本当はあやねだと思ってる。あやねはかおりのふりができる。一時期、夜の街に出てたからな。あやねは言葉遣いや接客態度を夜の街で学んだ。秀介にばれることはない。俺には見分けがつくけどな」  前にも聞いたことがある。 「りゅうさんにはどうしてわかるのですか」  りゅうさんの一人語りが再開された。 「話し方や振る舞いを真似たところで、あやねとかおりを見分けるのは簡単なことだ。顔を見ればすぐにわかる。あやねは一重、かおりは二重だから。女は化粧やまぶたの上を細いものでなぞれば二重にすることもできるらしいが、俺にはわかる。たぶん最後の夜、あやねがかおりのふりをした。おそらく部屋の明かりを暗くして、抱かれている間は目を閉じてたはずだ。じっと顔を見続けられると、いくら秀介でも気づくかもしれないからな。あやねにとっては、うれしい気持ちと悲しい気持ちの両方を持ってたと思うよ。複雑な気持ちだろうな。好きな男に抱かれるうれしさ。しかし、自分じゃないふりをする悲しさ。自分が受け入れられたことにはならないからな。ただあやねのしたことはかおりの意志でもあったと思うけど。だから二人が望んだことだよ。想像だから本当のところはわからないけどな。そんなことは俺にとってはどうでもいいことだ。血のつながりはどうであれ、俺たちみんなの子供だから。誰が父親だろうと俺たちの子供には違いない」  りゅうさんがばんざいをした。父親として、家族としての喜びを表現する。  いまさらだけど、ふと気づいた。二人がこの家にいない。  りゅうさんがその後の話を続けた。 「女の子が生まれた年に、純子さんの墓参りに行った。墓の前で偶然中条さんと出会ってな。俺たちが結婚したと勘違いされたけど、そうじゃないと経緯を説明した。当然のように父親のことを訊かれたけど、かおりはわからないとごまかした。中条さんは複雑な顔をしてた。目の前で抱きかかえられてる赤ちゃんを見て、中条さんにとっては自分の孫みたいに思えたようだ。中条さんはうれしそうに赤ちゃんをあやしてたよ。家族の温もりを抱きしめていたと思う。中条さんから近くに住んでくれないかと望まれて、かおりも子供のことや生活のことなどいろいろ考えたあげく、引っ越しを決心した。孫の成長を見ながら余生を送る。あの人にとっては最高の安らぎだと思う。中条さんには子供がいないからな。孤独死は寂しすぎるだろ。そう思わないか」  僕はすんなりうなずいた。  りゅうさんが大切なことを思い出したように立ち上がった。 「そうそう、恭介に渡すものがあった」  りゅうさんが隣の部屋へ入り、一冊の書籍を携えて戻って来た。 「これ、サイン入りだから。恭介の分。恭介の名前もちゃんと書いてあるからな」  僕が本を開こうとしたとき、りゅうさんが事後報告として伝えてくれた。 「一年前に、秀介とかおり、東京の書店でばったり再会してな。ここからはリアルタイムドキュメンタリーで伝える」  りゅうさんがとりあえず知っている英単語を並べ、その場にいる秀介さんになった気持ちで話し出した。  書店に入り、本を見ていた。特に買う本を決めていたわけじゃない。詩集コーナーで、本の帯に目を引かれた。 「儚く壊れやすい思いを言葉で綴る」  本を手にした。体に震えが走った。本の題名をもう一度確かめた。『ガラスの城』だ。 「かおり、すごい。とうとうやったな」と思わず声を出していた。  かおりは夢をあきらめずにがんばっていたのか。夢を叶えられた。自分のことのようにうれしさが込み上げてきた。筆名を確認した。 「綾音香」。あやねかおり。あやねとかおり。二人の名前を合わせた筆名にしたのか。目次を開いた。最初の方は、あの頃に書いていた作品名が並んでいた。うしろの方を捲って読み始めた。
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