「クロスロードの靴」 7

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「クロスロードの靴」 7

 僕はソファーに座ってテレビを観ていた。特に好きな番組というわけではない。部屋でひとりというのは、意識的になにかをしなければ、気を紛らわす音がまったくしない。他に思いつくものがない。最初はラジカセが目に入ったけれど、秀介さんの顔が浮かんだからすぐに却下した。この部屋で普通に会話ができるのはあやねさんだけになった。僕の拠り所は、毎日どこかへ出かけている。りゅうさんに会いたいと思った。早く帰って来てと望んだ。  十八時過ぎに秀介さんが帰って来た。僕は慌ててテレビを消した。ソファーに腰かけて秀介さんを迎え入れた。 「なにもテレビを消すことないだろ」  ぶっきらぼうに聞こえた声に返事をする。秀介さんがそのまま部屋へ入り、五分後に出て来た。現金書留の封筒を手渡された。封は切られていない。 「りゅうが初めて恭介の家に電話をしたあと、恭介のおやじさんから送られてきたものだ。そんな意味で俺たちは恭介を引き受けたわけじゃないけど、おやじさんなりに気を遣ったらしい。『そちらを訪ねてお願いをするのが礼儀ですが、今は仕事のことでどうしても病院から離れることができません。無礼を承知で恭介のことをお願いします』と二度目の電話で頼まれた。いいおやじさんだと思うよ。なにを伝えようとしているのか、わかるか。人がなにかをしようと思えば、お金が必要になってくる。そんなことも考えずに、後先も考えずに飛び出すのはまだ子供だってことだ。大人に守られているってことだ。だがな、世間の大人は未成年を守る人だけじゃない。それも経験済みだろ。お前はここへ来て、毎日、だらだらしているだろ。人より急いで走る必要はないけど、時間はもっと大切に使え。お前は大人じゃないけど小さな子供でもないだろ。ちゃんと自分の進路を考えろ。好きなことを見つけろ。それだけは責任を持て。お前の人生なんだから。それからこれはお前に返す。帰りの電車賃にでもしろ。あまればおやじさんに返せばいい。わかったな」  まったく反論できなかった。僕はうつむいて座り込んだ。現金書留の封筒を握り締めていた。 「それはそうと、かおりやあやねは」 「あっ、あの、よく知らないけど、最近、頻繁(ひんぱん)に外出しています」 「そうか。本人が帰ってから直接訊いてみるか」  秀介さんがお風呂に入った。コンビニの袋に入れていた下着類の底へ封筒を押し込んだ。結局、着替えも秀介さんに買いそろえてもらっている。父に粋がるほど僕には力がない。所詮、手の平の上で転がっているだけ。ひとりじゃなにもできない。現実と現状に叩きのめされた。まだまだお前は子供だと認識させられた日だ。正直、落ち込んだ。意識せず、努力もせず、だらけている人のことを、落ちこぼれと言うのだろう。正に今の僕自身だ。  あやねさんが帰って来た。「お帰りなさい。今日はどこへ」と訊いてみたが、「ちょっとね」と肝心なことははぐらかされた。秀介さんがお風呂から出るとすぐに着替え、あやねさんを部屋へ呼び込んだ。なにやら会話をしていることは聞こえてくるが、内容まではわからない。二十分後に二人が部屋から出て来た。  秀介さんは困っているような、心配事でも抱え込んだような、複雑な表情をしていた。  あやねさんはしょげこんでいるような、面映ゆいような表情をしていた。  みんなを観ていると、この部屋はりゅうさんがいると明るくなる。  りゅうさん、早く帰って来てください。  翌日からあやねさんが部屋にいることが多くなった。あやねさんは明るい表情をしていた。安心感を得たように思えるし、顔つきも軟らかくなった気もする。昨日、秀介さんと話し合ったからかも。内容はわからないけど、あやねさんやかおりさんが外出しなくなったことと関係しているのだろう。僕には秀介さんが厳しい人だと思う。けれどみんなの支えにはなっている。彼らには家族的な絆がある。育てられた絆が強くなっていく関係をうらやましく思う。僕もみんなの中へ入っていきたいと思うけど、どうしても一段下から見上げている位置にいるように思える。もし僕が、夢や目標を見つけ、一歩でも進むことができたなら、認めてくれるだろうか。僕も家族の一員になれたらうれしいけど。  僕は汗をかきたくてジョギングに出かけた。周辺を走った。ぼたぼたと汗が流れ落ちる。変なもやもやが汗に吸収されて、体の中から取り除かれているようで気持ちよかった。りゅうさんにもらった赤いTシャツがべとべとに濡れ、肌にくっついてはなれない。風が涼しい。住宅を通り過ぎるとき、風鈴の音が聞こえた。涼感をそそる。  部屋へ戻ると、かおりさんが台所に立っていた。スーパーの袋から着替えを取り出し、お風呂へ向かう。 「お帰りなさい。お昼はそうめんでもいいですか」 「いつもすみません」 「他人行儀な返事ね」  かおりさんが笑う。僕はさらに恐縮する。汗を流してお風呂を出ると、テーブルには昼食が用意されていた。具は、錦糸卵、きゅうり、煮た椎茸などが細く切って添えられていた。生姜が微妙に調和しておいしい。なぜだろう。穏やかさを感じる。  秀介さんのことをかおりさんに訊いてみた。 「いい人ですよ」 「一言じゃなく、もっと詳しく知りたかったのに」  僕はかくんと頭を落とす。かおりさんがごめんなさいと笑う。僕は苦笑いを返した。 「でもね、恭介君。人の評価は、他人に訊くものじゃなくて、自分で判断するものじゃないかな。秀介さんを感じることは、私と同じではないと思います」  ずばり、的を射た言葉だと思った。僕にとって、父は口うるさくて僕の意見など聞いてもくれない、いやな親だけど、りゅうさんと秀介さんはいいおやじさんだと言った。僕が思ったことをかおりさんがよりわかりやすく説明してくれた。 「秀介さんは個々の人に対して、それぞれ付き合い方が違うだろうし、受け取る相手も印象や感じ方は違うと思います。同じ人を見ても、受け取る人によって感じ方は違うでしょ。自分が見もしないで、噂を聞いて、先入観だけで人を判断するって、とても危険で、間違った受け取り方をしてしまうことになるでしょうね。でも、恭介君が第三者の意見をって思うのなら言うけど、秀介さんがいなければ、私たちはこの部屋で一緒に住むことなどできなかったと思う。私も、みんなも、助けてって思いで、秀介さんに声をかけたから。私たちを受け入れてくれたのは秀介さんだから。ほんとは優しい人だよ。それから、私だけじゃなく、あやねさん、りゅうさん、としやさんも、秀介さんとは一番よく話をするのよ。だからみんなの関係が保たれていると思います。みんなのハブ空港って感じかな」  かおりさんはいつになく饒舌(じょうぜつ)になった。  秀介さんが忍耐強いこと。みんなに気遣いをしていること。みんなを心配していること。みんなを大事にしていること。みんなのためにがんばっていること。そのために疲れていること。そんなことを知っているから、感じているからこそ、りゅうさんがけんかをしないで秀介さんとは話し合えること。それから昔は弱虫でいじめられていたこと。あの秀介さんが弱虫とは意外な過去だ。  僕はかおりさんやあやねさんとよく話をするようになった。みんなの幼きエピソードを聞かせてもらった。二人が話をしてくれたことは、想い出のかけらでしかない。ジグソーパズルのピースと表現してもいい。ひとつ、またひとつとはめ込んでいく。過去がつながっていく。人生の歩みというパズルが完成したとき、僕はみんなに近づけると思っていた。僕も彼らの家族になれるかもと淡い期待も抱いていた。だからみんなの話をもっと聞きたい。過去を繙く話を聞きたくなった。りゅうさんからは筋トレのときに、少しばかり話を聞かせてもらったけど、もっともっと話を聞きたい。としやさんの話も聞きたい。ちょっと怖いけど、秀介さんの話も聞きたい。興味半分ではなく、心からそう思った。 「詩集が好きだ」とかおりさんが打ち明けてくれた。書棚に整理している詩集を一冊貸してくれた。かおりさんが買い物に出かけた。ベランダに座り込み、じっくりと噛み締めるように読んでいた。音読して二度読む作品もある。頁を捲るごとに吸い込まれていくような感覚だ。読んでいるうちに周りのことなど気にしないほどのめり込んでしまった。ふと誰かがそばにいると感じた。かおりさんが帰って来たと思っていた。 「恭介、ただいま」  びっくりした。恐縮(きょうしゅく)した。息を呑んだ。本を差し出していた。また叱られると思った。 「こっ、これは、かっ、かおりさんに」 「借りたってことだろ」  秀介さんが小さく笑い、部屋へ入った。胸につかえていた息をゆっくり吐き出した。
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