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2.お隣さんのお願い
「あらあ、ふさのちゃん。今日は早いのね。もうお帰り?」
大学からの帰り道、自宅近くで話し掛けられた。隣に住む、川崎ヨネ。腰は曲がっており、シルバーカーを押して歩いている。動きに危なっかしいところがあるが、介護施設に入ることもなく、一人暮らしをしている老年女性だ。夫には先立たれ、子どもは遠方に住んでいるらしい。
ふさのは振り返り、「はい」と応えた。
「今日は授業が昼過ぎまでだったので、早く帰れる日なんです」
「ふうん、そんなものがあるのかね。最近の学校は色々あるんだねえ」
ヨネが首を傾げる。高齢者に、大学の授業の仕組みは分かりにくいのかもしれない。納得したのかしていないのか、曖昧な反応だ。
「大学って、確かにちょっと特殊かもしれないですね。ええと、そもそも大学には、単位ってものがあってですね」
「単位?」
「簡単に言うと、授業です。それを取れば、他の授業に出る必要はなくって」
「出る必要はない? まあ、何でそんなことになるのかしらねえ」
「ああ、うーんと。そうですねえ」
説明しようと思っても、どう言えばいいのか分からない。そもそもこの隣の老婦人は、高校と大学の違いも分かっていないのかもしれない。そうだとしたら、どこからどう説いていけば理解できるのだろう。
数瞬考える。けれど、良い言い方が思いつかない。
諦めたふさのは、苦笑いを浮かべた。
「私もなんて言ったらいいのか。大学ってちょっと授業の仕組みが複雑なんです。でも、今日の授業はもう終わってるから、帰っても良いってことですかね。早退とかではないんです」
とりあえず、それだけ言って言葉を切る。そして、「それじゃあ」と頭を下げ、背を向けたところで、またすぐに呼び止められてしまった。
「待って、ふさのちゃん」
どうしたのだろうと足を止める。ヨネは、シルバーカーに設置された籠から、何かを出そうとしていた。
「ごめんね、ちょっとだけお願いがあって」
おぼつかない手で籠から出されたものは、小さな前掛けだった。目の覚めるような真紅の木綿生地で作られており、中央には金の鈴が付いている。
「ついでで申し訳ないんだけど、これをね」
赤ん坊用のよだれかけだろうか。そう思うも、ふさのの家族内にはもちろん、親戚にも、友人にも、小さな子どもは居ない。
ふさのは尋ねた。
「えっと。何ですか、これ」
「そう、それね。帰る途中、そこの向かいの神社に寄って、付けておいて欲しいんだよ」
「え?」
「狐のお稲荷さんの前掛けがね、ぼろぼろになってたから。おばあちゃん、新しく縫ったのよ」
そう言われれば、その布切れは確かに手縫いの品だった。さすがに既製品とは完成度が違うが、几帳面に朱色の糸で縫われている。
そういえば、この老婦人は昔から裁縫が得意だった。まだふさのが小さかった頃、よく巾着袋や手提げ鞄を作ってくれたものだ。実の孫でもないのに、随分と可愛がってくれた。
もう百歳が近い高齢だというのに、ヨネの手芸の腕は衰えていないらしい。さすがだな、と思いつつ、ふさのは前掛けを受け取った。
「これを、神社の狐に付けるんですか?」
「そうそう、頼めるかしら」
「狐の石像ですよね?」
「ええ、そう。階段を上がったところに一体だけ居られるからね。すぐ分かると思うよ」
正直に言えば、「どうして自分がそんな事をしなければならないのか」という思いもあったが、断る程でもなかった。高齢のヨネは、足腰が悪い。頼まれた目的地の神社には、長い階段がある。老いた足で上っていくには、さぞ骨が折れるだろう。
「分かりました。帰りの道中だし、付けておきます」
頷くと、ヨネは「ふさのちゃんにいいところで会えて良かった」と喜んだ。
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